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ふりちりすべる  作者: ぱじゃまくんくん男
14/15

長篠城の戦い

挿絵(By みてみん)

 武田大膳大夫出陣の一報を受けた上総介は、石山包囲を荒木摂津守、細川兵部大輔に託し、佐久間右衛門尉、柴田修理亮、丹羽越前守、塙備前守、羽柴筑前守、簗田右近大夫と共に、総勢三万の兵を連れて、京へと引き返した。

 明智日向守に早馬を送り、坂本から佐和山までの航路を取るため、船団を用意するよう伝えている。

 しかし、入洛すると同時に、畿内には嵐が吹いた。

 宿所を置いた相国寺に、明智日向守自らが風雨を突いてやって来て、湖上の波は荒れており、航路を取るのは不可能であると上総介に申した。

 紙一重であった。

 石山侵攻のそもそもが、武田大膳をおびき寄せるためであったので、勘九郎が岐阜に残っているものの、二万五千の武田軍を相手に、すぐさま長篠に援軍を差し向けられるような兵数は揃っていない。

 だからといって、悠長な真似はしていられなかった。

 長篠城の守兵は五百である。いくら屈強な三河勢とはいえ、持ちこたえられるのは二日か三日。もっとも最善であったのは、武田軍とほぼ同時に長篠近在に陣を構えることであったが、航路を取れないとなると、南近江を突っ走っていくしかないが、来たる大決戦を前にして風雨をかいくぐっていくとなると、兵卒たちには疲労が残るであろうし、三万の大軍である。容易ではない。

 嵐はやむかもしれない。しかし、やまないかもしれない。

「キンカ頭。お前ならどうする」

 平伏する十兵衛は、額から、顎から、汗とも雨ともつかぬしたたりを床に落としていた。

「好機は今しかありませぬ。それに、おそらく、この雨は設楽ヶ原も満たしているはず」

「竹!」

 上総介は長谷川藤五郎を呼んだ。

「明朝、出立だと全軍に伝えろ!」

 昨年の高天神城の援軍要請を受けたさいの遅々とした進軍はなんであったのだろう、と、誰もが疑う速度で、織田軍は南近江を一挙に駆け抜けた。わずか一日で佐和山に到着し、そこで一息入れると、夜も明けきらぬうちに出立し、次の日の朝には、岐阜に帰陣しているという恐るべき神速であった。

 稲葉山岐阜城に入った上総介は、奉行衆たちに、兵站の整備、それに加えて、材木を美濃の八方からかき集めて来るよう指令した。

 あらかじめ、堀久太郎に知らせていたため、予定通りの材木がとどこおりなく集められた。

 そして、薫る風が稲葉山の若葉をそよがせる中、上総介は滞在している全将校を召集し、発した。

「翌朝、長篠に向けて出立する」


 すべての事象が、この広い世において、一つの方向に連なって躍動しているのが、長篠の若き守将にも感ぜられた。

 奥平九八郎貞昌は自ら櫓に登り、曇天のもと、四方を取り囲む武田二万五千の大軍を眺望した。

 年明けまでは二千はあった守兵も、浜松三河守の命によって大部分が天竜川沿いの防御線に回され、今では手勢五百。

 しかし、代わりに岡崎から火縄銃二百丁と、大鉄砲が回されてきた。

 主君からは何も告げられていない。

 この季節にしては冷たい風を頬に受けながら、九八郎は微笑した。

「なにゆえ、笑ってるのですか」

 そう笑いながら訊ねてきたのは、櫓に配している足軽弓兵だった。一介の雑兵が軽々しく守将の顔色について訊ねてくるのは言語道断であったが、その者はそうした分別など意にも介さなそうな屈強な体格の持ち主だったのと、その表情が大軍を目前にしながらも余裕綽々であったので、九八郎は逆に頼もしくなった。

「時代の口火であるからよ」

「口火?」

「長篠を守り通すか否かで、天下は右にも左にも転ぶ。もし、我らがここを守り通せば、長篠兵五百は末代まで称えられ、その栄光は後世まで色あせぬ。これはただの籠城戦ではないのだ」

「どういうことですか? わしは頭が良くないんでよくわからんです」

「織田の援軍が間に合うまで我らが持ちこたえれば、武田は壊滅するということだ。天下に名を轟かせる武田騎馬隊の命運もここに尽きるのだ」

「はあ。なるほど」

 わかっているのか、わかっていないのか、雑兵はぼんやりと、間の抜けた顔つきで長篠を包囲する武田軍を眺めた。

「ただ、守り通すのは容易ではないぞ。だからこそ、栄誉が得られるのだがな」

「守れば、このわしでも称えられるんですかね」

「当然だ。なにしろ、たったの五百なのだから」

 すると、雑兵は分厚い唇を緩め、瞳を焦がした。

 九八郎は櫓を下り、陣を張っている本丸館へと向かう。端正な顔を地面にうつむかせて歩きながら、彼は櫓から望んだ武田のあらましを妙に思った。

 東側に連なっている山々の裾野に、武田は付城を築いている。なぜ、大兵力に任せて攻めてこないのか。

 まさか、武田大膳の目的も、織田徳川との決戦なのか。

 簗田出羽守の策は武田に筒抜けなのか?

 武田が長篠城を攻め落とした場合、目的を失い、かつ決戦に持ち込んでも不利だと織田は悟り、岐阜に引き返してしまうだろう。仮に、武田も決戦を狙っていた場合、長篠城は落とさない。

 ある意味、武田は攻城の格好だけを作っているということになる。

 設楽ヶ原にて決戦が起こったとき、武田は長篠兵に背後を突かれないため、付城を築いたのではないか。

 もしも、そこまで想定している行動だとしたら、この作戦のすべてが武田大膳の存じているところとなっており、織田徳川は常に先手を打たれる状況になってしまう。

 無論、いくさは始まったばかりで、断定はできない。ただ、睨み合いの状況が二日三日続いたら、どうにかしなければならないと、九八郎は眉根をしかめた。


 このときの九八郎の憂いは、あながち杞憂でもなかった。

 長篠城北方の医王寺山に本陣を敷いた武田大膳であったが、軍議は真っ二つに割れていた。大膳は山県三郎兵衛隊や穴山梅雪隊を含めた五部隊を、長篠城南方寒狭川の向こうに配置する命を下したが、三郎兵衛が、寒狭川の断崖からでは攻城できぬと強固に反対した。

 大膳は三白眼の鋭い目で三郎兵衛を睥睨し、

「攻城せよとは申しておらんだろう」

 と、冷ややかに言った。

「ならば、なにゆえ長篠に参ったのですかっ!」

「山県殿っ! 控えんかっ!」

 言い放ったのは長坂釣閑斉であった。しかし、三郎兵衛は腰を戻さず、

「貴様こそ控えい」

 と、奸臣を静かに睨み据えた。そうして、威圧だけで黙らせると、憮然としている大膳に詰め寄る。

「殿は一体何をお考えなのか。長篠城はわずか五百の手勢ですぞ。織田上総介が岐阜から出陣した今、長篠城を一気に畳みかけなければ、戦況は我らにことごとく不利になっていくばかりです」

「なにゆえだ」

 大膳は相も変わらず聞く耳を持つような顔つきではなかった。百戦錬磨の三郎兵衛には、この主君が、今までのどんな敵方よりも、手ごわく、難しく、冷たかった。反論すればするほど、正論をぶつければぶつけるほど、大膳の心は三郎兵衛の思いを受け入れなくなっていく。

 じゃあ、どうすればいいのだ。些細な過ちも許されないのがいくさなのだ。

 結局、三郎兵衛は喉元を震わせながら、かろうじて呟いた。

「織田上総介を侮ってはなりませぬ......」

「誰も侮ってなどおらん」

 つくづく、冷め切った眼差し、冷えた声音であった。

 大膳はおそらく、侮られているのは自分なのだという認識であった。自分の打ち出す方策にいちいち突っかかってくる宿老たちに嫌気が差していた。そのために、たとえ、織田徳川との決戦に危うさを感じていても、自らの差配で功績を勝ち取り、自らの能力を古い人間たちに知らしめたいのだろう。

「殿」

 と、後にも先にも引けなくなっている三郎兵衛を見兼ねてか、それまで寡黙に目をつむっていた内藤修理亮昌豊が、細切りの目尻を大膳にひたと留めた。

「織田の簗田出羽守が昨年より不穏な動きをしております。奴に近づく忍びはことごとく戻ってきておりません」

 それは三郎兵衛も初耳であった。

 武田の副将、徳栄軒の片腕として生きてきたこの男は、先々代武田信虎に父親ともども追放された憂き目を見たせいか、少々陰気とも見えかねない口数の少なさで、己の思惑などは常に胸の底にしまっている人であった。

 そんな修理亮の言葉は、本陣に集った将たちにしてみれば、説得力がありすぎた。

「これは出羽守と上総介の策です。昨年の高天神城からの動きも、長篠城の守兵が突然減ったのも。実際、織田上総介の帰陣は今までにない速さでした。相手の策に乗る必要はありませぬ。早急に長篠城を攻め落とし、いくさを終わらせるべきです」

 だが、説得力のありすぎる言葉は、説得を受けている者からすると、時にその感情を逆撫でさせる。

「お主らは、父上とともにこれまで死闘を演じてきたにも関わらず、いざ、頭がわしにすげ替わると、一にも二にも自重だな」

 大膳は口許を歪めて笑った。

 溝は深くなりすぎていた。

「源四郎、修理、もうよい」

 と、馬場美濃守が腰を上げた。忸怩たる眼差しで将たちを見回すと、

「仰せのとおり、各々、配置につけ」

「しかし、馬場殿っ!」

「主君の命に従わんか」

 馬場美濃の厳しい語調に、三郎兵衛は黙らざるを得なかった。



 ところが、戦端は開かれた。

 最前の大通寺山に配された馬場美濃守が、襲撃を始めたのである。これに呼応して、内藤修理亮も大手門に攻めかかった。

 長篠城守兵は火縄銃と弓矢、大鉄砲を立て続けに放ち、外曲輪への侵入を退けるも、馬場隊と内藤隊、それぞれの兵卒に浴びせかけられる押し太鼓は延々と鳴らし続けられ、猛然と襲いかかってくるさまは、まったく、五十倍の兵力を有している者たちの戦い方ではなかった。

 武田兵は、矢、銃弾をかいくぐって空堀を次々と越えてき、大手門では、切り倒した大木を兵卒たちが数十人で抱えて、城門に何度も突撃してくるかたわら、梯子をかけてきて城内に侵入してくる者もあった。長篠兵は侵入兵をすかさず斬り殺していくが、手数が圧倒的に少ないため、力押しで来ている武田軍を前に、守兵たちには悲愴が漂った。

 しかし、本丸から外曲輪の攻防を見て取った奥平九八郎は、背後の山々に陣取られている旗指し物が、まったく動いていないことに気づいた。なぜか、攻城にかかってきているのが、武田全軍のうちでも半数を満たしていない様子であった。

 九八郎は兵卒に馬を引かせてきた。それに颯爽と跨ると、城内を駆け回った。蒸せられた地表に硝煙が漂い、怒号と半鐘の音が打ち落とされる中、汗をしたたらせながら、向かう敵に眼光と銃口を血走らせている兵卒たちの背中に、九八郎は次々に投げかけた。

「敵本陣を見てみろっ! 武田は我ら三河勢に臆しているぞっ!」

 九八郎の鼓舞に、馬場内藤両隊の勢いに飲まれがちであった長篠兵は、息を吹き返した。それまで敵の侵入を許していた射撃兵は、視界に入る者、ことごとくを打ち払っていき、血眼になって突撃してくる武田勢を逆に怯ませた。

 これなら、浜松、岐阜の援軍が来るまで持ちこたえられる。

 と、兵卒たちが思い始めた矢先であった。

 それまでぴくりとも動かなかった小幡隊が、大手門の攻防に参戦してきたのである。さらに大通寺山に陣取っていた武田典厩隊も、曲輪の攻防に名乗り出てきた。

 典厩は、勇将でもあった亡き父、武田古典厩信繁の勇壮な部隊を引き継いでおり、これが不死身の馬場美濃に加わってきたため、曲輪の攻防は激戦となった。武田兵はその肉体を銃弾に引き千切られながらも、次から次へと柵や塀をよじ登ってき、次第には火縄銃、弓の射撃も侵入に追いつかなくなってきて、曲輪内の白兵戦となった。

 本丸の九八郎は、状況が傾きかけていることを知ると、外曲輪を早々に見切る決断を下した。本丸から退き太鼓が打ち鳴らされ、守兵たちは外曲輪から、土塁に囲われた内側の巴曲輪へと退いていく。兵卒たちの退却とともに巴門は閉められていき、十数人の武田兵がなだれ込んできたが、白兵戦のすえ、これを斬殺した。

 外曲輪に突入してきた武田兵の手で大手門は開かれたが、そのまま巴曲輪に攻めこんではこなかった。


 馬場美濃と内藤修理の独断行動に、大膳が激怒したためであった。


 大膳は本陣の医王寺山から、前線の二将に、これ以上の損害を出さぬよう通達した。もし、再び、勝手な行動を取るならば、腹を切らせるとも。

 が、馬場美濃は聞かなかった。夜になると、かがり火に浮かび上がる巴曲輪への襲撃を開始した。

 馬場美濃は巴曲輪に築かれている兵糧蔵を狙っていた。

 兵糧蔵を落とせば、長篠城の兵卒の士気を落とすことにも成功し、数日中には屈強な三河勢といえども逃げ出す者も現れ、降伏するであろう。

 そうすれば、織田徳川は自領に引き返す。

 決戦はない。

 哀しいかな、馬場美濃が立ち向かっている敵は、二つあった。目の前の三河勢と、背後の主君。しかし、それこそが、武田の家を存続させ、やがては京への道に繋がることであろう。

 どうせ、老い先の短い男。腹を切るぐらいで、武田家に栄光が与えられるなら、

「この命、若殿にくれてやるわ」

 明明と燃える火に照らされながら、馬場美濃は顔に刻まれた年輪を歪めて笑った。

 いつからだろう、皆が天下を望むようになったのは。

 先々代の信虎のころから武田家に仕えていた馬場美濃にとって、京の都とは甲府を取り囲む山々の向こうどころか、流れる雲の遙か先、青く澄み渡った空の彼方に浮かんでいるような、夢のまた夢であった。

 上洛どころか、甲斐信濃を取りまとめることですら精一杯であった。それでも、菱の旗の下なら、武田晴信様に付いていけば、どこまでも行けるような気がした。

 きっと、おやかた様は、上総介の破竹の勢いが悔しかったに違いない。誰がどう見ても、上総介とおやかた様では、おやかた様のほうがすべてにおいて遥かに優れている。

 ただ一つ、おやかた様が上総介にかなわなかったのは、所在が山の中であったことだ。

 無念であったろう。夢も果たせずに、その死を見ず知らずの異国の野原で迎えることになろうとは。

 しかし、おやかた様、申し訳ないが、拙者には上洛の夢などはかりかねますわ。拙者ができることは、おやかた様が築いた栄光を無碍にしないのみですからな。

 馬場美濃は銃声と喚声がこだまする外曲輪に歩み入った。かがり火とたいまつで、曲輪は昼のような明るさであったが、血と汗の影が光と闇の螺旋によって色濃く浮かび上がるさまは、さながら、業であった。何かに駆られたように一心に攻めかかる武田の兵卒たちのうごめきは、すべてを垣間見た徳栄軒の影が、巨大な亡霊となって現れているようであった。

 飛び散ってきた火の粉が、馬場美濃の被る麻布の頭巾にも落ちてくる。馬場美濃は右手にしていた采配を漆黒の夜空へ高々と突き上げた。

「太鼓を打ち鳴らせ! 鳴らすのじゃ!」

 馬場勢はただ突撃のみを繰り返した。兵卒たちに抱えられた丸太が組頭の掛け声とともに巴門に打ちつけられ、土塁から放たれた銃弾や弓矢で兵卒が力尽きると、また新たな兵卒が丸太を抱え、さらに打ちつける。一方で、勇猛果敢に土塁を駆け登り、三河勢の槍の餌食となって転げ落ちる兵卒もあれば、同僚の呻き声を振り払いながら続けざまに土塁へと駆け上がっていく兵卒もある。

 武田の兵は日の本一なのだ。

 やがて、兵糧蔵から火の手が上がった。門は破っていない。だが、巴曲輪に侵入した兵卒たちが三河勢の刃をかいくぐりながら、兵糧蔵を襲撃したようであった。

 三河勢のうろたえが、馬場美濃にはその声でわかった。

「攻めかけろっ! 一気に畳み掛けるんじゃっ!」

 この夜、兵糧蔵は焼け落ち、長篠城は巴曲輪も失陥した。残すは二の丸曲輪と本丸のみとなり、長篠守兵たちはこの先に絶望を感じた。

 食がない。

 武田勢の狙いはまさに兵糧蔵だったらしく、翌日、あれだけ激しかった攻城はなりをひそめた。

 本丸の九八郎のもとには各所の足軽組頭たちが次々と押し寄せてきて、いったい、援軍はいつ来るのだと、あたかも、飢饉で窮状を訴える百姓かのように見境なかった。

 九八郎はそのつど、もうすぐだ、もうすぐだ、と、兵卒たちをなだめたが、いくらなんでも、兵糧がなくなってしまったら、城内にこしらえてある芋や干し柿をかじったところで、三日はもたない。体がもっても、その前に兵が逃げ出してしまう。

 もうすぐだ、もうすぐだ、と慰撫したところで、そう言う九八郎でさえ、援軍がいつ来るのか、気が気じゃない、いや、希望と絶望の淵に立たされたような思いであった。

 そうして、ついに、九八郎は言ってしまった。

「いつ、来るのか、わからん」

 時代の口火など、自惚れていたのかもしれない。たった五百で、二万五千の、しかも、天下の武田軍を相手にするなど、無謀だったのかもしれない。

 兵は善戦している。しかし、守将が無能だったのか。

 九八郎は天を仰いだ。もはや、腹を詰めるしかないのかもしれない。

「だったら、呼んできましょう。早くしてくれと」

 九八郎は眉をしかめた。目の前にいるのは、あの、櫓で笑いかけてきた雑兵だった。九八郎は追い詰められたあまり、誰を相手にしていたのかもわかっていなかった。

「何を言っているのだ。蟻一匹も通れぬほど、武田に囲まれているのだ。それができるなら、とっくにしておる」

「やってみなくちゃ、わかりませんよ」

 雑兵はこの状況にあって、笑っていた。瞳は輝いていた。

「殿様。わしは末代まで名を残したいんです。わしみたいな男でも時代の口火を切りたいんです」

「ならば、お主が行くと言うのか」

「もちろん。誰もやりたくないことは、言いだしっぺがやるもんですわ」

 素朴で、明るくて、いい男だった。状況は何も変わっていない。しかし、九八郎は将来の栄光を信じている男の純粋さに、救われた思いであった。

 まだ、終わっていない。

「お主、名は」

「鳥居強右衛門」



 強右衛門は何の取り柄もなかった。屈強な三河勢らしい体格ながらも、いくさに出れば戦功には恵まれず、今度こそいざと思って奮起してみても、毎度、すでに勝敗は決してしまっており、このまま運も味方せずに一生涯を足軽雑兵で終わらせるのだろうと、近頃は考えるようになっていた。

 ただ、運の無さにうじうじするような男でもなかった。

「俺は嫁もいるし、子供もいる果報者だ。おやかた様は俺らを食わせる分には困らない大名様だしさ。運がなければなかったで、三河足軽で生きていけばいいのよ」

 そういう性格なので、同僚たちからも好かれていた。浜松などに駐在している酒井勢や本多勢なんかは、三河兵の意地だの誇りだのと、難しいことを並べ立てて、巧名に血眼になっている輩が多いが、強右衛門なんかは、いくさでは兵卒として戦うが、日常では食って寝るだけという単純明快な男であった。

 この単純明快な思考回路には、九八郎の言った、末代までの栄誉、という言葉が太陽のごとくさんさんと光り輝いた。一体、それはどんな味わいなのだろうか。一体、それはどんな大きなものなのだろうか。

 功名ではない。末代までの栄誉なのである。

 なんて、素晴らしい響きだろう。

 いくら、武田が強かろうと、長篠城を攻め取ったぐらいでは、菱旗の奴らが末代までの栄誉を手に入れられないことは強右衛門でもわかっている。ところが、長篠城を守る自分たちは、末代までの栄誉を得られるのである。

 だから、是が非でも長篠城を守りたかった。

 九八郎に志願したあと、夜になって、強右衛門は具足を脱ぎ捨て、ふんどし一枚になった。強右衛門の脱出を聞き知った同僚たちが集まってきて、彼の無謀な行いを口々にいましめ、引き止めたが、強右衛門は笑って聞かなかった。

「帰ってくればいいんだよ。帰ってくれば」

 強右衛門は闇にまぎれて長篠城南方の断崖から寒狭川に潜り込み、水の冷たさもいとわずに上流へと泳いでは歩き、泳いでは歩いていった。所々で武田の兵が手にするたいまつの火に出くわしたが、身を潜めて難を逃れた。

 怖くはなかった。まったく。

 恐怖よりも、栄誉への期待が先行していた。そして、それを自らの手で勝ち取るのだというささやかな鼓動。

 武田勢の火が遠目にできる地まで抜け出したときには、夜明けの空に星が一つ、またたいていた。

 強右衛門はふんどし一枚のまま、長篠城南西の雁峰山に登った。山間をぬって射してくる暁光は、強右衛門の目には神秘的に映った。

「お日様ってのは、こんなふうに昇ってくるのか」

 昇る朝日と、栄達への希望を重ね合わせるような大それた情緒は、強右衛門にはない。強右衛門は素っ裸の体でただ感じていた。山々に囲まれた長篠近在の丘陵が、柔らかい布を敷いていくように光に染められていくさまと、暖かさ。

 強右衛門は目をつむって鼻をふくらませた。

「ああ、いい匂いだ」

 空が明けきると、狼煙を上げた。無事脱出できたことを長篠城に知らせるためであった。

「言うほど、大したことなかったぜ」

 長篠城に笑いかけると、強右衛門は雁峰山を下り、三河守嫡男、次郎三郎が城主を務める岡崎を目指した。吉田川を下って豊河宿を経由していくのが一般的な道のりであったが、それであると二日はかかってしまうと見て、三河山地の小怪を突っ切っていった。

 走りに走った。なるたけ早く援軍を要請したいという思いもあったし、体力の限界を越えることで、一歩、また一歩、栄誉に近づけるような気がした。見境なく走っていることで、胸底は痛みに絞り上げられ、息をするのもきつくなり、足もついてこなくなって、張り出した木々の根に引っ掛けて転んでしまったが、汗にへばりついた土を払うこともなく呼吸を整え、また、起き上がった。

 汗は泥を流した。木漏れ日が強右衛門の蒸気を照らしていた。

 また、転んでしまって、両手を付いた。荒い息遣いが整えられない。肺が、体が、休息を訴えていた。

 乾ききった口の中で、絞り出した唾液を飲み込み、また、息を継いで、また、唾液を飲み込んだ。

「まだだ。まだだ」

 俺以外の奴でもできることだ。けれど、今は俺だけしかできねえことだ。俺以外の奴だったらもっと早く走れるはずだ。だから、俺はもっと早く走らなくちゃなんねえんだ。

 強右衛門は震える足を手で押さえつけながら、歯を食いしばって起き上がる。

 向かう先を睨みつけた。眉尻を吊り上げ、眼光をほとばしらせ、穏やかなこの男の表情は鬼気迫っていた。

 ところが、ふいと笑った。

「まあ、そう簡単に末代までの栄誉はもらえないってことだ」

 体は不思議と、軽くなった。

 再び走りだした。

 鳥居強右衛門は何の取り柄もなかった。屈強な三河勢らしい体格ながらも、いくさに出れば戦功には恵まれず、今度こそいざと思って奮起してみても、毎度、すでに勝敗は決してしまっており、このまま運も味方せずに一生涯を足軽雑兵で終わらせるのだろうと、近頃は考えるようになっていた。

 ただ、運の無さにうじうじするような男でもなかった。

 やがて、山間は開けてきた。なだらかな坂を一気に駆けていく。長い、長い、坂であったが、進むたびに空は広がっていくのだった。

 岡崎の城がうっすらと見えた。太陽はすっかり西にかたむきかけている。

 そして、強右衛門は見とめた。織田永楽銭の黄旗を。

 思わず立ち止まり、肩で息を切るままに、ところどころで群集となっている黄色の旗を眺めた。

「やった......。来てた」

 強右衛門は歓喜のあまり吠えた。


 岡崎城の大手門の門前に、泥まみれの素っ裸のまま、髪もほつれたまま、息も絶え絶えに現れて、強右衛門は兵卒たちを驚かせた。槍の先を突きつけられ、身元を疑われたが、

「長篠の鳥居強右衛門だ! おやかた様か若殿様に会わせてくれ!」

 と、騒ぎ立てたので、聞きつけた三河勢がわらわらと集まってきた。その中に強右衛門を知っている者がいて、彼が確かにこの男が長篠城の鳥居なにがしであることを認めると、三河勢たちはさらに驚愕した。今しがた長篠城は包囲されているはずなのに、どうしてここまで来られたのか、一体、なぜ、そのようなぼろ雑巾のような姿なのか。

 強右衛門は訳を話した。すると、三河勢は言葉を失い、あるいは長篠城の窮状に急き立てられて、たった半日で駆け抜けてきた強右衛門に感動した。

「お主は三河武者の誉れだ」

 使い番が本丸へと走っている間、強右衛門は岡崎兵が持ち寄ってきた水を飲み、握り飯をほおばった。そうして、腹を満たしたあとは、大の字に寝そべって、岡崎兵たちに囲まれる中、空を見上げた。

「大丈夫だ。岡崎にはすでにおやかた様も織田様の軍勢も来ている。総勢四万だ。いつ出立のお達しが来てもおかしくない。四日か五日後には長篠にたどり着く。安心しろ」

「もっと早くなんねえのか」

 岡崎兵たちは顔を見合わせた。

「それは織田様次第だ」

 やがて、使い番が戻ってきて、強右衛門を急ぎ連れてくるようにと、三河守の言葉を届けてきた。強右衛門は起き上がると、兵卒たちが足取りの怪しい強右衛門を肩で支えてきたが、

「大丈夫だ。こんぐらい大したことねえから」

 と、笑みを差し向けた。

 本丸にてふんどし一枚の強右衛門を待ち受けていたのは、徳川三河守だけならず、嫡男の次郎三郎、酒井左衛門尉、それに織田上総介であった。

 強右衛門は上総介を見たこともなかったので、最初、誰だかわからなかった。ただ、切れ長の瞼から放たれる研ぎ澄まされた眼光からして、この人が織田のおやかたなのだとはすぐにわかった。

 乱世の栄光の頂点にいるような織田上総介を前に、強右衛門は疲れも忘れてときめいた。面を合わせるなど、本来なら絶対に有り得ないことだ。

 俺は運がいいんだ、と、ひれ伏しながら、今この時を噛み締めた。

 強右衛門は、長篠城が数日中に落城してしまう恐れを語った。猛然と襲いかかる武田勢を相手にして善戦しているものの、兵糧蔵を焼き落とされて、限界にある。すぐさま援軍を差し向けてほしいと訴えた。

「了解した」

 と、高い声音だったのは上総介だった。

「すぐさま全軍に指令を発する。お主はゆっくり体を休めろ」

「お、恐れながら、長篠城ではわしの帰りを待っているので」

「なにい?」

「援軍が到着すること、奥平様や長篠の連中に早く教えてやりたいんです」

 強右衛門の言葉に上総介は黙った。

「しかし、お主、昨晩からずっと駆けてきたのだろ」

 三河守が言う。

「無茶をするな。体が持たんぞい」

「いや、おやかた様。わしは今まで何の戦功も上げていないんで、こんぐらいは死に物狂いでやりたいんです」

 すると、上総介がフンと笑った。

「お前、もののふだな」

「はい」

 と、強右衛門は笑った。織田上総介にそう言われたことは、彼にとって余りある栄誉であった。


「待て」

 と、本丸広間から引き上げていた強右衛門は、そう呼び止められて、振り返った。強右衛門と背丈が同じぐらいの男がそこに立っていた。今ごろの時代には珍しく、引立烏帽子を鉢巻きで縛り止めて被っており、陣羽織は藍染めの地に袖口を銀で縁取ったもの、腰に帯びている物は実に見事な光沢で、脇差からは水色の桔梗紋が見え隠れしていた。

 相当な将校に違いないと強右衛門は思った。

「聞いていたぞ。本当に長篠に戻るのか」

 将校は口調のわりに、瞳が揺らいでいた。

「さっきも言った通りで」

「その格好でか」

 と、今度は眉をしかめて睨めつけてきた。

「包囲されている中、そんな格好で入っていったら目立って仕方ないだろう。死ぬぞ」

「でも、抜け出してきたときは大丈夫でしたから」

「そんな簡単にいくか。本当に行くつもりならちょっと付いてこい」

 将校が自分勝手にそう言って、強右衛門は城外へと引き連れられていく。

 やがて、将校の陣所らしき寺へやって来て、将校は自身の従者らしき足軽を見つけると、

「どうせ、格さんは役に立たないんだから、脱げ」

 と、言って、従者の具足を引き剥がし始めた。格と呼ばれた若い男はやんややんやと騒いで抵抗し、しまいには将校の部下たちがぞろぞろと集まってきて、将校と部下で揉めだした。

「何をやっているのですかっ! いくさに来ると、どうしてそう騒ぎを立てるのですかっ!」

「こいつが長篠城に戻るって言うから、具足をあげようと思っただけだ! それなのに、このバカ格ときたら、ろくすっぽ役に立たないくせに逆らいやがって!」

「長篠城?」

 と、若いほうの将校がふんどし一枚の強右衛門に視線を向けてきた。



 引立烏帽子の将校は、織田の家中でも重きを成している家らしく、率いていた荷駄部隊に予備の具足を備えていた。引立烏帽子の将校はそれを知らなかったらしいが、息子と思わしき若い将校が、強右衛門に譲ってきた。

 騒ぎを起こしていた引立烏帽子の将校は、従者との醜い争いもどこへやら、生真面目な眼差しで言った。

「それで武田勢にまぎれて、攻城のとき長篠城に入るんだ」

 そうして、強右衛門の肩を握ってきた。

「二日か三日中には向かうから、くれぐれも無茶はするなよ」

「あ、ありがとうございます。お、お名前を教えてもらっても、いいですか」

「沓掛太郎左衛門だ」

 強右衛門は岡崎をあとにした。

 日はすっかり暮れている。空は厚い雲が覆うようになり、月明かりもなくて、山道を進むのは難儀した。

 強右衛門は走るのをやめたが、一歩、一歩、地面を確かめるようにして、漆黒の闇を歩いていく。

 昨晩から一睡もしていない。疲労も、のしかかる重力となって体を鉛にさせた。自然、瞼も垂れてくる。足を進めながらも、つい、うっかり眠ってしまって、転げてしまう。そのつど、頭を振って、自己を呼び覚まし、また歩く。

 父も、祖父も、三河松平家の足軽であった。その先は知らない。強右衛門が物心ついたときには、すでに松平家は今川家と織田家の両ばさみに合っていて、先々代松平清康公が成し遂げた三河統一の栄華も凋落しており、現在の三河守、竹千代様も駿府に人質にやられていて、三河武者はどん底であった。

 しかし、父も祖父も常々言っていた。

 竹千代様が元服し、岡崎に戻ってくれれば、松平はまたよみがえる、と。

 桶狭間のいくさから十五年。その間、祖父は病で没し、父は、三河勢を分断させた一向一揆の騒ぎのさいに戦死した。

 百姓が良かったなあ、と、嫁にこぼしたこともある。

「何を言ってんだい。あんたは運がいいんだよ。仕えたのがおやかた様なんだからさ」

 なるほど。父や祖父が言っていたように、元服された竹千代様は、松平次郎三郎元康様となり、やがて徳川三河守となって、松平家の復興どころか、三河再統一、さらには遠江まで領土を広げた。

 大した戦功もないのに、俸禄も少し上がったし。

「そうだな。そうに違いねえ」

 強右衛門は大口を開けて笑い立て、嫁も呆れたように頬を緩めていた。

「あーあ、岡崎に行ったんなら、家にも顔を出しておけば良かったなあ」

 睡魔と疲労が襲いかかるまどろみの中で、強右衛門は無意識に呟いていた。

「でも、いくさが終われば、いくさに勝てば、家に戻れるんだ」

 一昨年の長篠城を奪還したいくさ以来、そのまま長篠城に付けられた強右衛門は、その間、一度しか、妻子の声を聞いていない。

「末代までの栄誉をもらって、帰るんだ。おれたちはみんな、英雄になるんだ」

 雁峰山に戻ってきたときは、すでに夜は明けていて、分厚い鉛色の雲が長篠の空を覆っていた。強右衛門はすっかり落ち窪んだ瞼を手の甲で乱暴に擦り上げると、戻ってきた合図として狼煙を上げた。

 細長い煙が、垂れ込める雲の中へと吸い込まれていく。


 山県三郎兵衛尉は雁峰山から立ち昇るひとすじの狼煙を凝視した。

 昨日の朝方にも狼煙が上げられていた。なぜか、長篠城内から歓声が聞こえてきたので、三郎兵衛はすぐさま馬場美濃守に使い番を走らせた。

 直後、馬場美濃は止めていた攻城を再開させた。三郎兵衛は攻防の喧騒を聞くだけしかできなく、唇を噛んだ。

 長篠城で何かが起こっている。

 そして、二度目の狼煙である。歓声は再度湧き上がり、それは昨日のものよりもいっそう歓喜に満ちていて、兵糧蔵を落とされた絶望の連中とは思えないはしゃぎようであった。

 曲者がいる。長篠城は何らかの策を張った。

 三郎兵衛は雁峰山に数名の兵卒を走らせた。さらに、寒狭川南方に陣取っている各将に、疑わしき者は是非もなく引っ捕えろと伝令を放った。

 これ以上、時間をかけるわけにはいかない。物見の報告だと、織田徳川連合軍は岡崎に集結し、今日か明日にでも出陣する構えだという。

 おそらく大膳は、織田の重臣の寝返りを当てにして、決戦に持ち込もうとしている。宿老たちには経緯がまったく伝わってこないので、その重臣が何者かも、そこまで自信を深められる根拠がなんなのかもわからない。

 もしも、上総介の謀略であれば、武田は終わりだ。そして、その可能性は高い。

 決戦に持ち込まれる前に、なんとしても長篠城を落とさなければならなかった。ただ、馬場美濃と内藤修理の奮戦に期待するだけしか、今の三郎兵衛にはできなかった。

 自分も北方に配置されていれば、馬場美濃のように無断で突入するというのに。

――雨が落ちてきた。

 馬場美濃も内藤修理も狼煙を警戒しているのだろう、長篠城内から攻防の喚声はなくなっていた。

 やがて、雨はさらさらと降り注ぐようになり、糠雨となって長篠の地を潤した。視界に映るものは墨絵のごとく影となり、草木はみずみずしく濡れ、辺りは静かな滴りだけに満たされた。

 三郎兵衛は陣幕の外に出たまま、長篠城を見つめていた。

「伝令っ!」

 三郎兵衛のもとに使い番がひざまずいた。

「穴山隊にて、不審な者を捕えました! おそらく、長篠城の守兵であるとのこと!」


 山県三郎兵衛尉が各隊に放った伝令により、各々の兵卒たちは警戒を強めていた。穴山梅雪隊にまぎれこんでいた強右衛門であったが、見慣れぬ顔があることにすぐに気づかれてしまい、問い詰められたら三河訛り丸出しで答えてしまったため、すぐに部隊長の穴山梅雪のもとに叩き出されてしまった。

 両の手を縛り上げられた強右衛門は、梅雪の前で拷問を受けた。なにゆえ、まぎれこんでいたのか、狼煙を上げたのはお前なのか、なんのために狼煙を上げたのか。

 黙ったままでいると、武田兵の中でもいっそう大柄な男たちが強右衛門に歩み寄ってきて、殴る蹴るの暴行を加えた。それでも、口端から血を垂らしながらもにたにたと笑っているので、問いに答えないごとに、強右衛門の指爪を一つ一つ剥がしていった。

「吐かなければ、次は歯を抜いていくぞ」

 梅雪の言葉に、それまでは笑うだけだった強右衛門も、苦悶に表情を歪めて、呻き上げるのが精一杯であった。

「やめんか」

 小粒な目をしたふっくらとした将が陣幕の中へ入ってきた。伝令を聞いてやって来たのは、徳栄軒の弟で一門衆の筆頭である武田逍遥軒であった。

「一度、吐かぬと決心した者は、どれだけ問い詰めたとしても吐かぬ」

 強右衛門は指先の痛みを、唇を噛み千切ってまぎわらせながら、逍遥軒を睨み上げた。

「おおかた、岡崎か浜松に窮状を訴えに出たのだろう。違うか?」

「へっ。あんたらは終わりだよ。明日にでも織田様の四万の兵がここに来るんだ。わしを煮ようが焼こうが、どちらにしたってあんたらは負けなんだ」

 武田の兵卒たちはざわめいた。逍遥軒と梅雪は顔を見合わせた。

「若殿に報せますか」

「よい。黙っておけ。ただし、馬場美濃と修理には伝えろ。攻城を再開せよと」

「御意」

「おい、三河者。見たところ、お主はどうせ足軽雑兵であろう。わしの言うことを聞けば、命を救ってやるどころか、わしの麾下にて足軽大将に迎えてやる。禄も弾ませる。どうだ、聞かんか」

 強右衛門は無言で逍遥軒を見つめた。

「この雨では火縄銃も使えんだろう。馬場美濃と修理が一気に攻めかければ、長篠城は日暮れ前にでも落ちる。どうせ、お主は死ぬのだ。だったら、生き残って武田に仕えよ。お主には妻子もおるのだろう?」

 齢の通った男らしい、柔らかく甘い声音であった。

「悪いけど、わしはこれでも三河武者の端くれだ。仲間を裏切るような真似はできねえぜ」

「裏切るのではない。ただ一言、伝えればいいのだ。援軍は来ないと」

「馬鹿言っちゃいけませんよ、大将殿」

「よく考えてみろ。無駄な血を流すのか? 馬場美濃と修理は武田の精鋭であるぞ。お主ラの兵力はどのくらいだ。しかも、頼みの火縄銃も使えんではないか。お主はその三河武者の意地とやらで、同輩たちをむざむざと殺していくのか? 妻子があるのはお主だけではあるまい。お主の同輩たちも妻子があろう」

 逍遥軒はなおもべらべらと続けた。そもそも、いくさとは将と将、大名と大名の戦いであって、それに扱われている足軽兵卒たちの命はなんら関係ない、とか、仏はどうとか、武者とは意地や誇りではなくかくあるべきだとか、強右衛門にはなんのことだかわからなかった。

 ただ、逍遥軒の饒舌を聞いているうち、ふと思った。

 こいつら、何を焦っているんだろう、と。

 実は、言うほど、自分たちの攻城に確信を持てていないのではないか。

 このとき、強右衛門は生まれて初めて企みを閃かせた。どちらにせよ、殺されるのなら、末代までの栄誉を得て死のう。

「わかった。でも、本当に足軽大将にしてくれるんだろうな」

 逍遥軒はうっすらと笑った。

「男に二言はない」


 織田勢三万、徳川勢八千の大軍が、三河岡崎から出陣した。

 織田の兵卒は一人一人が木材を背負い込み、来たる設楽ヶ原決戦に向けて、万端を尽くした。

 しかし、

「止みそうにもないな」

 栗綱に跨ろうとしていた牛太郎は、雨空を仰ぎ見て眉根に皺を寄せた。

 すでに先陣が岡崎を出てからだいぶ時間を経ている。太郎はすでに黒連雀に跨っており、玄蕃允も、新七郎も、馬上にあった。具足をまとった弥次右衛門が牛太郎の火縄銃を手にしており、宿屋兄弟、利兵衛、それに篠木於松も佐久間右衛門尉のもとから戻ってきていて、牛太郎の騎乗を待っていた。

「旦那」

 陣笠の庇から雨滴を垂らしつつ、栗之介が促してきた。牛太郎はまだ頭上を見つめている。

「父上、そう悠長にはしていられません」

 太郎に言われて、牛太郎は観念すると、長い吐息をついてから、栗之介の補助を借りて、栗綱に跨った。

「行くぞ」

 玄蕃允が声をかけると、簗田勢二千は柴田隊の列に加わって進軍を始めた。

 鉄砲隊は火縄銃に雨凌ぎに革袋を巻きつけているらしい。

 紙一重だ、と、牛太郎は思った。天候、そして、時間。雨は止むのか、長篠城は持つのか。

 武田軍の猛攻は想定内でもあったが、兵糧蔵の失陥は予想外であった。

 二俣城の苦い記憶が蘇る。

 先立つ物がなければ、いくさはできない。降伏するしかない。長篠城が落とされたら、決戦はない。

 またしても、三河武者の精神に頼らざるを得なくなった。あの雑兵が、無事長篠城に帰陣できることを願うしかなくなった。


 捕らえた長篠兵を使って城内に偽報を仕掛けさせようとしている。それを知るなり、三郎兵衛は瞳孔を押し広げて口走った。

「なんて、愚かな真似を!」

 床几からおもむろに腰を上げ、陣幕を乱雑に捲り上げて外に出ると、

「馬を引けっ!」

 自ら騎乗し、駆け出した。

 武田逍遥軒は兄の徳栄軒に瓜二つで、徳栄軒の死亡時には影武者さえ務めた男であった。そのせいか、智謀高い徳栄軒に憧れるぐらいならまだしも、真似事をしたがる癖があり、世間知らずの知恵者にありがちな陰謀好きの男であった。

 逍遥軒は己の才覚に自惚れている。三河の兵が主君を裏切るはずがない。

 三郎兵衛は三方ヶ原の戦いで、三河武者の忠義を嫌というほど味わった。いくら、一兵卒といえども、その男は命の危険も顧みずにこの包囲戦を抜け出していった者なのだ。

 援軍の来着、さらには命を惜しまずに事実を叫ばれてしまったら、三河兵の性質からしてより頑強になってしまう。

 どうして、こうも武田はまとまりのない集団になってしまったのだ。三郎兵衛は奥歯を軋ませながら、手綱をしごいた。


 しかし、すでに強右衛門は、寒狭川の断崖の前に突き出されていた。両脇を武田の屈強な男に固められ、糠雨に打たれながら、こめかみから、顎から、しずくを垂らしながら、強右衛門は切り立った崖の上に聳える長篠城を見つめていた。

 その表情は、分厚い唇を緩めた笑みで晴れ晴れとしていた。

 澄み切った強右衛門の顔つきに武田の兵卒は悟ったのだろう、おい、と、小突いてくると、ささやいた。

「わかっているのだろうな。生きるか死ぬかだぞ」

「わかっているわ」

「妻子が悲しむぞ」

「わかっているわ」

 鳥居強右衛門、一世一代の大音声。深く息を吸い込むと、吐き出した。

――お前ら、聞こえるか。あと、二三日もすれば四万の援軍が来る。それまでの辛抱だ――。

「こやつっ!」

 武田の兵卒は顔を青ざめさせながら強右衛門の口を抑えこみ、

「なんて、命知らずなっ! 貴様は大馬鹿者よっ!」

 もう一人が強右衛門をその場から引き剥がしていった。



 逍遥軒は当然のことながら激昂した。怒りのあまり、長篠城兵への見せしめに磔にしたうえ、槍での串刺しを命じた。

「逍遥軒様っ!」

 陣中に乗り込んできた三郎兵衛は膝さえ付かずに、青筋を立てている逍遥軒に向かって吠え上げた。

「見せしめのために処刑など、ただちにやめなされっ! 貴殿は三河兵の何もわかっておりませぬっ! 命を賭した同輩の意気に奴らは奮い立ち、むしろ、連中は死を喜んで受け入れる狂人と化します! それが三河の人間なのですっ! たとえ二万五千の総力を費やしても、奴らは最後の一人になるまで旗を下ろしませぬっ! むしろ、奴を解放したほうが今の状況では賢明ですっ!」

「黙れっ! お主は誰に向かって申しているのだっ! どこからわしを眺めているのだっ! 無礼者めがっ!」

 三郎兵衛は思わず拳を握ってしまったが、吐き出しそうな無念の怒りをこらえると、観念したかのようにゆっくりと膝を折り曲げ、金箔大天前立ての朱漆兜の顎紐を解き外すと、頭を下げた。

「山県」

 と、逍遥軒は唸るように言った。姿形は瓜二つでも、晩年の徳栄軒は滅多に感情を表さなかった。

「この愚かないくさは貴様が招いたのだ」

「なっ」

「貴様は、兄上から若殿を補佐するよう重々頼まれたというのに、このありさまだ。馬場美濃は老齢であるし、修理は寡黙な男。海津城の高坂弾正は信濃のことで手一杯。ならば、若殿の自惚れを戒めるのは貴様の役目であったろうが」

 三郎兵衛は目の前が真っ暗になった。

「なにゆえ、わしには申して、若殿には申さぬ。文句があるのなら、このいくさをさっさとやめよと医王寺山に行ってこんかっ!」

 逍遥軒は床几を蹴飛ばしながら腰を上げ、三郎兵衛の前から去っていってしまった。

 朱色の男を雨が優しく潤していく。

 絶望だった。


 具足を剥ぎ取られ、ふんどし一枚の格好に晒された強右衛門の前で、兵卒たちが杭を植えつけていく。

「あれがお前の最後だ」

 と、武田の組頭らしき男が、強右衛門の傍らでそう呟いた。男は兜を目深に被っており、その表情は判然としない。

「くれぐれも、成仏してくれ」

 細かい雨は閑寂のうちに景色をかすませるとともに、強右衛門の黒く硬いほつれ毛にまとわりつき、しずくとなって垂れていた。寒くもないし暑くもないし、取り立てて何もない雨の日だった。

 強右衛門はすでに自分を、死後世界の貴い者の微笑に誘われて、清浄な物体へと生まれ変わるのを待っている、薄汚れた鼠のようなものだと感じていた。というのも、彼は充足感に満たされていた。

「もちろん、成仏するさ」

 両手首を後ろに荒縄できつく縛り付けられているせいで、指先の感覚という感覚はなくなっていた。肩からしたたり垂れてくる雨滴が、膨れ上がった手首に溜まっていき、縄に染み込んだそれは、強右衛門の体温も吸い込みながら、一滴一滴、時のすぎていく確かめのように落ちていた。

「安心しな。誰も恨んじゃいませんよ」

 武田の組頭は、兜の下の鋭い視線を強右衛門に横目に下ろしてきている。

「お主」

 男は冷静であった。処刑の執行役にはまったくふさわしい男であった。

「名はなんという」

 ただ、組頭のその鉄のような口調には非情さがなくて、まるで冷徹の極地で慈悲がぼんやりと光っているようでもある。

「鳥居強右衛門」

「生まれは」

「三河岡崎」

「齢は」

「三十で数えるのをやめた」

「やめたか――」

 男は顎を少しだけ持ち上げて、目線をかすむ長篠城に持ち上げた。彼の結んだ顎紐からも、兜のひさしからも、雨滴が落ちていた。男は、この細かな雨をさも確かめるかのように、終始しずくを拭うことはしなかった。

「なかなか、生きたようだな」

 強右衛門は男をじっと見つめる。陰のある男だった。ただし、この陰は、潤される大地に二本足をしっかと植えつけており、泰然自若としていた。

「あんた、なかなかの御仁のようだな」

「まさか」

 と、男は長篠城を見つめたまま、初めて口許に笑みを浮かべた。処刑執行役が見せた微小だけあって、強右衛門にはひどく優しく映った。

「俺はしがない足軽組長だ」

 男の部下の兵卒たちが、細い丸太の両端をそれぞれ持ち上げ、もう一人が打ち込んだ杭にその丸太を縛り付けていく。

「あんたみたいな御仁でも足軽組長止まりか。やっぱり武田の連中っていうのは、聞いたとおりの天下無双の奴らなんだな」

 すると、男は急に、ふっ、と、息を軽く吹き出して笑った。薄くて細い唇を緩め、冷たいだけだった眼差しを若干輝かせながら、蓮の葉のような顔を強右衛門に向けてきた。

「お主、天下無双の意味をわかっておるのか?」

「強いってことだろ」

「違う。天下に並ぶ者がないということだ」

 強右衛門の処刑には多くの見物の武田兵卒がいるはずだった。しかし、この雨のせいなのか、はたまた死を直前にした到達の末なのか、強右衛門の耳目に野次馬はいなかった。彼にはこの武田の組頭と処刑台しか目に見えておらず、人生の最後の時に話しているこの人が、強右衛門にはまるで、走馬灯現象に現れた最後の人のようにも捉えられた。たとえば、脳裏に蘇った師匠かのように、あるいは家族のように、友人のように、敵方の処刑人であるはずのこの男が、昔年からの深い馴染みのあった人のように思えてきた。

 理由は多分、男の笑みが懐っこかったからだ。

「お主に並ぶ者があろうか。天下無双とは、鳥居強右衛門、お主のためにあるような言葉だ」

「なんでだよ」

 と、強右衛門は笑った。

「俺なんかが天下無双のわけねえだろうよ」

「お主がそう思わなくても、俺はそう思う。いや、武田の者たちも同じように思っている」

 そうして、男は強右衛門の背後に視線をやった。つられて、強右衛門も後ろを振り返った。視界に入ってきたのは、ずらりと並ぶ武田の兵卒たちで、雨に濡れそぼりながら、ただただ押し黙って、一言も口にせずに、どの顔もじっとしてこちらを見つめてきているだけだった。

「武田徳川の括りはあるが、俺たちは同じ命を同じいくさ場に賭けている。命を賭して徳川に忠義を果たしたお主を敬わない者がいたとしたら、それはいくさ人ではない」

 強右衛門は吐息を抜いていくようにして笑った。そうして、なんだか嬉しくて涙が滲んだ。

「そんなこと言ってくれたって、俺は生まれてから死ぬまでの三河者だ。あの世に行っても、あんたらのことなんか、応援してやらないぜ」

「わかっておる」

 杭に二本の丸太が並べて括りつけられると、兵卒たちが組頭に準備が整ったと駆け寄ってきた。

「さあ、鳥居強右衛門、お前の最後だ」

 強右衛門はしばらく処刑台を眺めたあと、微笑を浮かべながらゆっくりと腰を上げた。兵卒たちが強右衛門の両脇背後に回ると、手首の荒縄が切り落とされる。

「なあ、組長さん」

 二人の兵卒に両の腕を固められながら、強右衛門は言った。

「最後にあんたの名前をきかせてくれ」

「落合左平次と申す」

「落合殿か。あんた、俺の最後の友達だ。よかったよ、あんたが最後の人で。あの世に行っても忘れないからよ」

「俺もだ。あの世に行くまでお主のことは忘れん。しばし、さらばだ」

 強右衛門はうなずくと、兵卒たちに脇を抱えられるまま、処刑台へと向かっていった。



 鳥居強右衛門が援軍の到着を城外から叫んできたことを聞き、奥平九八郎は守兵たちが群がっている搦手に駆けつけ、物見櫓まで登った。

 雨が煙る向こうにはおびただしい数の武田旗が並んでおり、そのもっとも手前、急流の寒狭川の岸辺には、ふんどし一枚で磔にされた男の姿があった。

 それが強右衛門なのかどうなのか、かすむ景色で判然としない。

 ただ、男は串刺しにあった。そのときの激痛に耐えかねた叫びは断崖の上まで届いてきて、まさしく、強右衛門のものだった。やがて、その声も小さくなって、糠雨へと消えていった。

 今、何がおきたのか、しばらくの間、九八郎は考えられなかった。櫓のへりに掴まり、奥二重の瞼はまばたきも忘れたかのように薄墨色の景色へと見開き続け、ゆたかな唇は紫色に震えた。

 考えられなかったというよりも、九八郎は信じたくなかった。

 末代までの栄誉。

 余計なことさえ言わなければ、強右衛門の無駄死はなかった。いや、無駄死ではない。強右衛門は立派に役目を果たし、まして、命を賭けてこの長篠城を守る兵たちを奮い立たせた。

 だが、自分は何をやったのだろう。大将として、長篠守将として、役目を務めているのだろうか。

 物見櫓には兵卒が二人いる。九八郎は彼らの目も気にとめず、男泣きした。鳥居強右衛門という男に何一つかなわなかった己がここにいる。

 しかし、気づけば雨は弱まっていた。

「殿様、あれをっ」

 兵卒が指さした。

 向こうの空、雲の裂け目から光が一筋に注がれていて、潤いに満たされた大地へと天からの梯子がかけおろされている。

 よくある光景だった。

「きっと、強右衛門が......」

 多分、このとき、長篠城に詰めているほとんどの兵卒たちは、雲間からこもれてくる一条の光に、感慨を馳せていた。天は、ときに大胆すぎるほどの気障な演出家であった。もしくは、本当に強右衛門が天へと駆け上がっていくのかもしれない。

 光の梯子は長篠城兵にとって、救いでもあり、勇気でもあった。

 長篠を守り通すか否かで、天下は右にも左にも転ぶ。もし、我らがここを守り通せば、長篠兵五百は末代まで称えられ、その栄光は後世まで色あせぬ。これはただの籠城戦ではないのだ。

 殿様。わしは末代まで名を残したいんです。わしみたいな男でも時代の口火を切りたいんです。

「強右衛門――」

 九八郎は見つめた。そのうち、雲は次々に破られていき、光は幾重にも降り注がれるようになった。

 櫓の下から声が届いてきた。武田軍の攻城が再開されたという。九八郎は櫓を駆け下りると、馬に跨って、二の丸門まで駆け寄った。太鼓と半鐘の音が鳴り響く中で下馬すると、弓矢や火縄銃を放つ兵卒たちとともに、土塁へと上がっていき、太刀を抜いた。

 武田兵が矢と銃弾を浴びながらも、ぬかるんだ土塁へと泥まみれになって這い上がってくる。

「聞けいっ、三河武者たちよっ!」

 九八郎は抜き身の刀を天に振りかざして、武田兵を退けていく兵卒たちの背中に投げかけた。

「強右衛門の死に恥じぬよう奮戦せよっ! 南無八幡大菩薩っ! 末代までの栄誉、この手におさめんかっ!」

 兵卒たちは九八郎の鼓舞に鬨の声を上げた。その目はどれも、勝敗を超えた生死の先へとぶつけられていた。陽気の発するところ金石も貫き通す。まさに長篠の兵卒たちすべての精神は一到されている。

「武田が何するものぞっ!」

 弓をしならせる肩肉の隆起が、あるいは銃口の先を見据える研ぎ澄まされた眼光が、もしくは槍を突き下ろす血肉の躍動が、咆哮の鳴動となって、死に物狂いで押しかけてくる武田兵たちを気迫で圧倒せしめた。這い上がってくる者はことごとく討ち取り、丸太で門の破壊を狙う者たちはことごとく撃ちはね、九八郎自らも太刀を袈裟斬りに振り抜き、筋張った鼻先に返り血を浴びた。

 三郎兵衛が憂いたとおり、長篠守兵は狂人と化した。人は石垣とは甲府のかつての王者の言葉だが、皮肉にも武田の行いにより長篠城には強靭な石垣が築かれた。時を焦って力任せに押し続けてきていた馬場隊と内藤隊は、この狂人たちを相手に大打撃を被ることになり、その後二日を経ても、とうとう二の丸曲輪を踏むことはなかった。


 そして、織田徳川連合軍が設楽ヶ原に着陣した。


「長篠城はまだもっているのか」

「於松の探りによれば、おそらく」

 このとき、長篠及び設楽ヶ原には再び雨が降り注がれていた。以前よりも強い雨であった。設楽ヶ原の湿地帯の所々にすでに出来上がっている小池に、大きな波紋を作って雨弾は打ちつけており、丘陵の向こうにある長篠の様相は当然ながら、本陣を置いた極楽山極楽寺からでは設楽ヶ原の地形も判別できないほどであった。

 しかし、織田上総介は即座に動いた。まず、設楽ヶ原一帯の集落に将兵を派遣し、家屋の一軒一軒を百姓たちから銭貫文で買い取った。次に各部隊に令を発し、連吾川沿いの渡河地点に、携えさせてきた木材で三重の馬防柵を築かせ、丘陵の弾正山と茶臼山は木々を伐採し、土を削り取っていき、さらには買い占めた家屋を解体した木材で、設楽ヶ原の地に一挙に野戦城郭を築いた。

 部隊の配置は、

「武田は鶴翼で来ます」

 と、牛太郎が珍しく言い切ったので、上総介は鶴翼の陣形に対する陣を敷いた。南方の伊那街道には必ず馬場美濃か山県三郎兵衛尉が差し向けられるということで、屈強な三河勢八千を当たらせることにした。北方には丹羽五郎左衛門を置き、内通工作をしている佐久間右衛門尉は相手をおびき寄せるために連吾川を渡らせ、丸山に布陣させた。羽柴藤吉郎は丹羽隊の後方に置き、牛倉というところ、丘陵に隠れるようにさせた。

 あとは武田軍が設楽ヶ原に進軍するのを待つのと、この雨が止むことを願うだけとなった。

 簗田勢は柴田隊とともに極楽山の上総介本隊に組み敷かれている。

 彼らは山のふもとに他所の部隊と同じように陣城を築いた。木盾で囲い、内に陣幕を張り巡らせ、板葺きの屋根に板敷きの間という簡素な室にて、与力一同、沸かした湯で雨に濡れた体を温めた。

「あいつは死んだらしいな」

 牛太郎は岐阜から持ち出してきた茶碗で白湯をすすりながら呟いた。重苦しい具足はとっくに脱ぎ捨てており、太郎以下皆々が臨戦態勢だというのに、彼だけは半纏股引の普段姿であった。

「あいつとは?」

 太郎に訊ねられ、牛太郎は岡崎で具足を貸してやったあの雑兵だと答えた。

「於松のじいさんが勝手に武田のどっかに忍び込んで聞いてきた。結局長篠城に戻る前に捕まっちまったみたいで、武田ナントカ軒とかいう奴に裏切るよう勧められたみたいだけど、言うことを聞かないで、援軍が戻ってくるって長篠のほうに怒鳴ったらしくて、それで串刺しにされたみたいだ」

「それに奮起して、長篠兵は腹を空かしてもなお、武田の猛攻を凌いでいるというわけですか」

 燭台の火に頬の傷を浮かび上がらせる新七郎がそう言うと、牛太郎は吐息をつきながら茶碗を手元に置いた。

「悪い奴じゃなかったのにな。ああいう奴ほどろくな死に方はしない。いつもな」

 一同は目を伏せて黙った。急ごしらえの陣城なので、板塀の隙間からは風がひどくもれてきており、燭台の火は大きく揺れていた。灯火は、男たちの目元に照っては消え、彼らに何かを囁きかけるように影がゆらめいた。

 染みて漏れてきた水滴が、天井から茶碗の湯の中にひとしずく落ちてきた。

 牛太郎の言葉は、ここにいる誰の胸にも小さな波紋を広げた。戦い続けてきた彼らは、忠義という悲愴をさんざん目の当たりにしてきた。

「勝たなくてはならんだろ、オヤジ殿」

「今更言うな」

 水滴が牛太郎の鼻頭に落ちてくる。

「おい」

 と、牛太郎は、目をつむっていた太郎に目を向けた。

「利兵衛はどこに行った」

「さあ」

「ちょっと連れてこい。あの野郎、何を監督してやがったんだ。この家の作りがなってねえじゃねえか。さっさと補修させろ。こんなんじゃ眠れねえだろうが」



 武田大膳出陣の報を受け取ったとき、牛太郎は稲葉山の自宅にあり、すえと二人で馬屋の掃除をしていて、庭先に出した栗綱の体を栗之介が洗い流していた。

「オヤジ殿」

 振り返ると、森勝蔵が突っ立っていた。細い眉を釣り上げて、大きな瞳は一点に絞られている。

「武田が甲府を出ましたぞ」

 上総介の留守中、岐阜城代を務めている勘九郎が、牛太郎を呼んでいるという。牛太郎は半纏股引についた藁や泥を払い落としながら、

「なんだい、わざわざお前が来るまでもないんじゃないの」

 勝蔵は無言でいた。おそらく酒は失敬していないであろうに、その眼差しはいくさ場に向かわんとする張り詰めようであった。牛太郎は馬屋をくぐり出ながら、勝蔵の肩を叩いた。

「今から緊張していたら、身がもたないだろうに」

「どこに行くのお」

 と、すえが口を半開きにしていた。近頃、あいりがすえの身づくろいをするようになり、 先日、髪をばっさりと切られ、耳が被るか被らないかの短さであり、毎日あいりやたまに櫛で溶かしてもらっている。相変わらず呆けた顔をしているが、元々が端正な顔立ちなので、どこの娘だと、城下の町人たちから話題に上がっているらしい。

「ちょっとお城にね」

「すえも行く」

「すえは行かないよ」

「すえも行くっ!」

「おいっ、鉢巻きっ!」

 栗之介がやってきて、癇癪を起こしそうなすえをなだめているすきに、牛太郎は素襖に着替え、勝蔵とともに岐阜城へと上がった。

「羽州が三方ヶ原のいくさに参戦した旨は、カツから聞いておる」

 組んだあぐらの膝上で拳を置き、背筋を伸ばして顎を引き気味に座している勘九郎のその姿は、常に姿勢を崩している上総介とはまったくの別物で、そうした父にあたかも逆らっているかのように毅然としていた。

「お主は父上と何事かを計っておるようだが、三方ヶ原ではさんざんに打ち破られたのであろう。摂津石山から舞い戻ってくるとの早馬が届いたが、羽州、武田とのいくさに勝算はあるのか」

「あります」

 と、表を伏せながら牛太郎は言った。

「根拠を申せ」

「東三河に設楽ヶ原というところがありまして」

 と、作戦のあらましを勘九郎に伝えた。ただし、佐久間の内通工作については話さなかった。

「決戦になるか」

「はい」

「わかった。下がってよろしい」

 聞くだけ聞いて、用を早々に済ませてしまうあたりは、父親に似ていると牛太郎は思った。

 勝蔵とともに稲葉山を下っていく。

 ほとんどの軍勢を摂津に差し向けているため、岐阜は平時よりも静かであった。木々のこずえを抜けてくるゆるやかな風によって、若葉は波間のように揺れており、地面に降り落ちている陽光が影絵のように回っている。

 ついに武田は出陣したのだが、実感がいまいちわかない昼下がりであった。

「三方ヶ原が、つい先日のことのようですな」

 勝蔵が鳥の鳴き声を聞きながら言った。

「あのとき、拙者は死を覚悟しました。だから、あのいくさ以来、拙者はどんな場面でも負ける気がしません」

「それは酒を食らっているからじゃないのか」

「英雄豪傑は古今から飲酒に場を選びません。そもそも、あの熱くなってくる感覚、頭の中が冴え冴えとしてきて、槍の先々が止まっているかのように見えてきますからな」

 勝蔵はすでにいくさの感覚に酔っているのだろう、笑っていた。

「次こそは山県の喉笛に我が槍を見舞ってくれる」

 簡略な作戦概要を勘九郎とともに聞いていただけなので仕方ないが、おそらく勝蔵は設楽ヶ原作戦の根本を理解していない。三方ヶ原のときのように体と体がぶつかり合う白兵戦を想像しているらしく、このままだと戦法を無視して勝手に突撃を始めそうなので、彼が組みされると思われる勘九郎隊は、後方に配置するよう上総介に進言しなければならないと牛太郎はひそかに考えた。

 途中、勝蔵と別れ、牛太郎は自宅の屋敷へと戻ってきた。かつが桶を抱えながら玄関までやってきて、牛太郎は上がりかまちに腰を下ろす。帰宅を告げると、いつもはたまが駆け寄ってくるので、牛太郎は首を傾げた。

「たまはどこかに出かけたのか」

「いえ。おります」

 牛太郎は足の指まで丹念にこすりながらも、近頃皺の数が目立ってきたかつの顔をじっと見つめた。もともと、口数が少ない女中だが、なにかだんまりを決心したような顔つきで、膝を揃えながら牛太郎の足だけを見据えてきている。

「何を隠してやがる」

 と、そういう勘のきく牛太郎が口調を荒げると、かつは急に瞳を泳がせて、なんでもない、と、さも何かありそうなあわてふためきようであった。

 愛しいたまに何かがあったのだと思って、牛太郎はむかむかしてくる。

「何があったんだ。答えろ」

 牛太郎の凄味にかつは目を逸しながらも、ぼそぼそと呟いた。

「じ、実は、すえちゃんが気分を悪くしたようで、あいり様のお部屋で休んでおられるのですが――」

 牛太郎は手ぬぐいであわてて足を拭い、おもむろに廊下を踏み鳴らしていった。すると、広間に差し掛かったところで、なぜか、梓と栗之介が向かい合わせに座っており、栗之介がしょんぼりと頭を垂らしていた。

「亭主殿」

 梓に手招かれて、牛太郎は妙に縮こまっている栗之介を睨みつつ、梓の脇に腰を下ろした。

 なんとなく、察知した。

「すえがつわりを起こしたのじゃ」

 すでに青筋を震わせていた牛太郎は、

「テメーっ! この野郎おっ!」

 と、立ち上がると、目を伏せているだけの栗之介に襲い寄って、頬を殴りつけた。

「さんざん人のことを馬鹿にしておいて、やることやりやがって。しかも、テメー、そこら辺の小娘ならともかく、うちの女の子に手を出しやがって、このクソ野郎がっ!」

 我慢ならなくて、倒れこんだ栗之介に蹴りを見舞おうとしたが、梓に背後からしがみつかれて、罵声だけを送る。

「テメーとすえが仲いいことはわかってたけど、お前ならそういうことはしないって思っていたのによっ! 裏切られた気分だっ、この馬鹿っ!」

「やめんかっ、亭主殿っ!」

 牛太郎は泣いてしまった。自分の娘でもないのに、まったくの父親風情で号泣してしまった。梓に肩を抱かれながら再び腰を下ろすも、見境なく声を上げて素襖の袖をずぶ濡れにした。

 栗之介は倒れこんだまま黙り込んでいたが、梓は牛太郎につぶらな丸い瞳を憮然と向けながら、夫の独占欲に閉口してもいた。

「男と女じゃ。仕方なかろうが。そもそも亭主殿がそこまで怒るいわれなどあるのか」

「あ、ありません」

「ならば、殴りつけるなど言語道断じゃ」

 梓に言われたくないと思ったが、もちろんそんなことを口に出せるわけもなく、牛太郎は無言で腰を上げると、鼻をすすりながらふらふらと幽霊のようにして自室に引きこもった。

 夕飯時になっても、布団をかぶって世界との関わりを拒絶していると、利兵衛が食事を運んでやって来た。牛太郎の枕元に膳を置いたが、この少年がそれだけを済ませて部屋を出るはずもなく、

「鉢巻きさんとすえさんが夫婦になるそうですね」

 と、突っかかってくるような調子で言った。牛太郎は布団の陰から目玉だけを覗かせて利兵衛のしたり顔を確かめると、また暗闇に閉じこもった。

「誰もそんなことは許してねえぞ」

「奥方様とあいり様はお許しになられましたよ」

 牛太郎はまた布団を持ち上げた。

「この家の主人はおれだ。おれが許さない限り、何も許されない。もしも、調子に乗ってお前が変な真似をしたら、いいか、殺すぞ」

「でも、結局は奥方様に逆らえないではありませんか」

 牛太郎は跳ね起きると、太刀を手に取り、おもむろに刃を抜いた。鞘を叩き捨てると、利兵衛目掛けて本気で振り落とした。利兵衛がわあと叫び上げながら這って逃げ出ていってしまい、空振りに終わった。

「クソがっ! どいつもこいつもっ! おれが忙しい間に好き勝手やりやがってっ!」

 太刀を床に叩きつけた牛太郎は、憤然と腰を下ろし、食事を口の中にかきこんでいく。

「クソっ。クソっ」

 利兵衛が逃げ出していったあとの戸の隙間から、目が伺い込んできている。それに気づいた牛太郎は武田の忍びかと思って一瞬ぞっとしたが、すぐに憎き相手であることを悟った。

「何をやってやがんだ。入るなら入れ」

 栗之介はそろそろと戸を開けると、普段なら絶対にしないしおれた顔で入ってきた。黙々と箸をすすめる牛太郎の前に丁寧に両膝を並べ、ちんまりと目を落とす。

「何の用だ。このくされ金玉が」

「い、いや、旦那に謝ろうと思って」

「謝って済む問題か。言っておくけどな、すえとたまはヤジエモンっていうどうしようもない農奴上がりのおっさんの娘だけどな、簗田家の娘なんだからなっ! どっかの武将の嫁にでもしてやってもいいぐらいなんだからなっ! それをテメー、すえが頭の悪い百姓娘だからって手込めにしやがって」

「そ、そんなんじゃねえってば!」

「じゃあ、なんだっ! 今まで女にろくすっぽ見向きもしなかったテメーがなんで今更すえなんだっ! おおかた、釣り合いが取れるし、頭が悪いし、若いからってやっちゃったんだろっ! なめてんのか、この野郎!」

 すると、栗之介は牛太郎のあまりの怒りようにどうにもならないとあきらめてしまったのか、膝に手を付いたまま押し黙ってしまった。

「クソがっ。いっつもこうだ。あいりんのときからそうだ。せっかく家に入れても、あいりんは太郎に取られちまうし、あーやは助さんとお似合いだしよ。いやっ、チヨタンのときもイエモンの馬鹿に取られちまった。いっつもこうだ。クソっクソっクソっ」

 牛太郎の愚痴は依然としてやまなかったが、栗之介は終始うつむいたままで黙り込んでいた。

 そんな栗之介を牛太郎はじっと睨みつける。茶碗と箸を手元に置いた。必ずと言っていいほど口答えしてくるはずの栗之介が、今日だけはただただ罵声に耐えて神妙に家来をやっているので、かえって虚しくなってきてしまった。

 牛太郎は吐息をこぼして、怒りも捨てた。

「鉢巻き。お前がおれの手下になってからどのくらいだ」

「さ、さあ。わかんね」

「お前が手下になったとき、おれの家来はあと誰がいた」

「若とあいりと四郎次郎、かな。さゆりはいなかったし」

「じゃあ、シロジロだけか」

「多分」

「言っておくが、お前は忘れたんじゃないだろうな。三方ヶ原でおれが言ったことを。お前が言ったことを」

「言ったことって?」

 そう簡単に俺は死なねえよ! 死ぬときは旦那と栗綱と一緒だ!

 言うじゃんか、鉢巻き。お前、おれの一番家来にしてやるよ。

「おれは忘れてないぞ。悪いけどな、こう見えても記憶力だけはいいんだ」

 栗之介はうなだれたまま瞼を閉じた。

「すえは頭が悪いから、今までの自分を覚えているかどうかわからないけどな、あいつはいろいろあった女の子なんだ。それをお前が受け入れるっていうんなら許してやる。お前がちゃんとオヤジをやれるんなら許してやる。だけどな、すえ恋しさに死にたくないっていうのは無しだからな。おれが死ぬときは栗綱もお前も死ぬときだ」

 栗之介はうなずいた。

「もう一度、武田とのいくさだ。生きて帰ろうだなんて思うな。わかったか」


 京近在に嵐が吹き荒れ、上総介が立ち往生しているとの報せが牛太郎の耳にも入ってきた。

 岐阜も風雨に見舞われている。雨は間断なく屋根板を叩きつけ、風は枝葉を襲いながら吼えていた。牛太郎は進軍が遅れていることを聞いてからというものの気持ちが落ち着かなくて、灯火の熱を受けながら腕立て伏せをしたり、構えも何も知らないくせに太刀を振り回したり、疲れてからはいつまでも墨を硯に摩り下ろしたりと、気を紛らわすことに苦戦していた。

 闇の嵐の唸りが、牛太郎の心を設楽ヶ原へと急き立てる。筆を手に取っても、何を書きしたためたらよいのか、誰に文を送ろうとしているのか、わからなくなった。

 一滴一滴、墨が筆先から和紙にしたたり落ちていき、その黒がぼんやりと染み付いていくのを見つめているだけ。そのうち、筆の先を和紙に押し付けた。そのまま手を乱雑に動かして、歯を剥きながら苛立ちを塗りたくっていく。

 長篠城が落ちたら、今までやって来たすべては終わりなのだった。織田の危機というほどでもなければ、簗田牛太郎がそこで終わるわけでもない。ただ、そこだけに神経を研ぎ澄ませてきた彼にしてみれば、失策すればすべてが終わってしまうような慄えがあった。

 結局牛太郎は筆を放り捨て、気分だけを表したような黒い走りを掌の中に丸めこんで、机上に叩きつけた。あとは静かだった。燭台の火が半ば塊のようにもなっている和紙を照らしている。

 時間を待つしかないだけの不自由さが、牛太郎に、この恐ろしさを誰にも伝えることのできない孤独感を呼び起こさせた。ひどく虚しかった。このような焦燥を引き起こさざるを得ない理由が怪しくなってきた。

 どうして、こんなことをしているのだろう。

 彼は様々な種別での激情家であった。焚き火に投げ入れた栗のように単純に弾け飛ぶときもあるし、己の業に火をつけその炎上でもって突き進むときもある。前者のときはたいがい四郎次郎や利兵衛などに発散されていくものなのだが、後者のときは高まった灼熱の抜けどころがまったくなかった。

 一度こうだと決めると周囲の声をまったく聞かない、あるいはその道一点しか見られなくなるのが牛太郎である。ただし、それは、夢中になりさえすれば、脇目も振らずに全力で事に立ち向かう優れた能力でもあった。それは多くの人を惹きつけ、感動させる能力であった。

 だが、灼熱に焦がされた精神にかかる負荷は、ときに簗田牛太郎の許容範囲を越えてしまうのだった。たとえば、全力で走りすぎて、目的地点に到着した途端、歩けなくなってしまうのと同じである。

 もちろん、そこまで衰弱しているかと言えばそれは嘘になる。ただ、人は、目の前の目的に生きているのではなく、到達地点が曖昧な人生という道を歩まなければならない。これは靄のように不明確なくせに、凝固された塊の重苦しさであり、ものすごい現実であった。歩いても歩いても先の見通しがつかない、ひどい馬鹿馬鹿しさだった。人間という生命の中に人生というものを意識してしまうのは、人間を愚物とたらしめているいかがわしい思考であった。

 疲れきった牛太郎は、とうとうこの愚考の深淵を覗き込んでしまった。そこは荒涼とした寒い場所で、多分、草木も枯れてしまっていて、分厚い雲が雨も降らせずにただただ空を覆っている。牛太郎はそこに膝をついて、弱者の眼差しで裂け目の底を覗き込む。

 そして、ようやく気づく。自分の身の丈にそぐわない土地にやってきてしまったことを。大それたことに手をつけてしまったことを。もう、後戻りはできないことを。

 負けたら終わり。勝たなくてはならない。しかし、ここで勝っても、また勝たなくてはならない壁に当たる。人々は延々とそれを繰り返していく。死ぬまで、ちっぽけな休息に自らをごまかしながら、延々と。

 飢えだ。もはや、ごまかしようのない空腹である。そして、この胃袋は穴が開いてしまっていて、どんなに欲望を果たしても、満たされることはない。

 残念ながら、それこそが正真正銘、人たるゆえんであった。

 これに妥協を見いだせない者は自死するしかない。

 ただ、並の者でない人はこれを超越するために修行をし、逆に、修行の概念がない人は獣の感覚に身を投じる。

 おそらく、第六天魔王を自称する上総介は後者であり、牛太郎はそれに習ったわけでもないが、ごくごく自然に腰を上げた。

 部屋を出ると、灯明の火を頼りに静まり返った屋敷の廊下をひたひたと行き、梓の部屋の前で立ち止まった。息を吹いて火を消し、音を立てずに戸を引くと、夜着の裾からはだけた色白のふくらはぎを暗闇のうちに見とめた。あとは暗すぎてよく見えなかった。牛太郎は戸を閉めると、一歩、また一歩と、床の軋みを雨音風音にまぎらわせていく。

 こういう類のことをするのは長年の夫婦生活でも初めてなので、牛太郎はえらく興奮した。梓のことだから激昂するかもしれないと不安になったが、すでに鼓動は高まっており、呼吸も荒げていた。

 梓の寝床に忍び入ると、夜着の襟から腕を差し入れて、彼女の胸をまさぐり始める。梓は吐息をもらしながら体を返そうとしたが、牛太郎は両足で彼女を縛りつけ、おもむろに口付けした。

 梓ははっと瞼を広げた。玉のような瞳の縁取りを確かにさせながら相手を見つめ、すぐに首を振り乱し、しなやかな体を男の肉体の中で泳がせたが、牛太郎が唇を離して、自分が夫であることを告げると、

「なんじゃ、もう」

 梓は顔を背けながら、苦笑した。そのときの仕草で、彼女の後ろ髪が舞い散る花びらのような物哀しさで、首筋にはらりと流れた。そこから白いうなじの一部が覗かれて、後ろ髪の名残が温かく融けていた。

「誰かと思って、怖くなった」

 愛らしい口ぶりであった。しかし、闇に小さく膨らんだ唇の微笑は、齢相応になまめかしかった。掌に乗りそうな小顔をゆっくりと夫に上げてくると、瞳はすでに睫毛の下に浸っていて、夜着の袖から滑り出してきた両の腕を、牛太郎の首の後ろに回し、絡ませ、かすれた声をもらした。

「どうしたのじゃ。亭主殿」

「どうしたも何もわかっているじゃありませんか」

 牛太郎が半ば憮然と押し付けると、梓は吐息のように、ふふ、と、笑った。

 それを合図にして、牛太郎は妻を激しく攻めた。梓は陶器のような体をくねらせながら、夫を優しく受け入れた。常に夫の背に腕を回し続けていた。彼女の掌から伝わってくる杏子のような甘さは、彼の背中にまとわりついている影を愛撫し続けていた。

 すると、牡牛のように暴れ回るだけであった牛太郎だが、梓の何かに気づいて、はたと動きを止めた。火照った梓の表情をまじまじと見つめると、彼女の潤んだ瞳は牛太郎の瞳に吸い込まれている。しかし、彼女の手は牛太郎の肩を、胸を、呆けた表情で撫でていた。

 簗田牛太郎を形成している芯が、梓の温かい愛情へと溶けていった。

 梓はきっと牛太郎の憂鬱を、感じ取っていた。雛を包みこむ親鳥の翼のように、彼女はその華奢な肉体で牛太郎を包み込んでいたのだった。それを理解したとき、牛太郎は梓が愛おしくて愛おしくてたまらなくなった。そして、彼女の中へと素直な気持ちのもとで受け入れてもらった。苦しみや虚しさを懸命に彼女に伝えた。

 彼女は男の苦悶はすべて自分のことであるかのように受け止めた。

 まるで、童貞と天女の交接であった。

「亭主殿」

 事を終えた二人は、互いに見つめ合いながら、相手の温度を肌で確かめ合っていた。

「近頃、わらわはたまに思うのじゃ。亭主殿はもはやわらわに飽きてしまったのではないのかと」

 梓の瞳は、静寂の湖面に映る満月のごとく、涙に潤んでいた。

「でも、わらわは別に構わんのだよ。亭主殿が生きてさえいてくれれば」

 嘘を付いていると、目尻から伝わらせたその涙で察した。牛太郎は胸が苦しくなって、思わず、彼女を力いっぱい胸に抱き寄せた。彼女の温かいうなじに顔を埋めながら、梓殿、梓殿、と、妻の名を何度も呼んだ。



 昼中、三河勢を率いた松平次郎三郎により、丸根と鷲津の砦が襲撃され、今川二万五千の牙はついに尾張織田に刺し込まれた。

 一報を受けてただちに招集された各将であったが、籠城策か野戦に打って出るかで意見は真っ二つに割れていた。齢二十六、当主上総介は、重臣たちがぶつけ合う怒号をただただ腕を組んで聞いているのみで、結局、

「もうよい。俺は寝る」

 と、言って腰を上げると、唖然呆然とする配下の者たちを尻目に、広間から立ち去ってしまった。

 奥の一室にこもると、燭台の火に額を焦がしながら、切れ長の瞼を閉じて、じっと座した。どのくらいの間、無に還っていただろうか、細長い息をつくと、森三左衛門を呼び寄せた。

「牛を連れてこい」

「牛殿ですか?」

 と、三左衛門は太い眉根をひそめた。

「牛と言ったら牛しかいねえだろうが。それともあいつは他に名を持っているのかあ?」

「い、いえ。存じておりませぬが」

「さっさと連れてこい」

 やがて、牛は上総介の前に引き出された。視線の先をおぼつかなくきょろきょろとさせながらやって来て、腕を組む上総介にほつれ髪の頭を下げると、おどおどと両膝を付いて、額を床の上に擦りつけた。

「お、お、お呼び、でしょうか」

「牛」

 履き潰した草履のようにして這いつくばっている男をぼんやりと呼びかける。

「お前だけには正直に言おう。俺は恐ろしくてたまらん」

 三左衛門が唇を噛み締めながら、かすかな炎に点明する板床へと視線の先を落とした。

「できることなら、俺は織田の嫡男には生まれたくなかった。俺の親父は豪傑と言われた男よ。その親父の嫡男は病気がちで頼りのない子供」

 上総介が声を途切らせると、静寂が束の間を支配する。上総介は唾を飲み込んで、ひとつ、間を取り繋ぐと、静けさを嫌うかのように縷々と言葉を吐いた。

「だが、嫡男は嫡男。家督を継ぐのは俺だ。だから、俺はうつけを演じた。弟が家督を継げば良いとな。しかし、今、こうして織田の当主として居る。逆らえなかったのだ。天命にな」

 そして、と、上総介は続ける。

「お前が現れた。俺が覇王になるとのたまった。さらに今回のいくさ。東海一の弓取りと真っ向から勝負しなければならない今回のいくさ。巨人に踏みつぶされ、さっさと露に消えていけばいいものの、お前は言う。俺が勝つとな」

 牛はちらと視線を持ち上げた。

「諦めるとなれば簡単だ。だが、勝つのが天命ならば、絶対に勝たなければならねえ。俺はそれが恐ろしい」

 彼の額に玉のように浮かんでいた汗が、ひとまとめになって、切れ上がった眉尻からなめらかな頬へと伝っていく。

「牛、最後に訊ねよう。織田三郎信長とは何者だ」

 牛は小首を傾げながら、ただ単に丸いだけの瞳をきょとんと置いた。

「信長様は信長様だと思いますけど」

 至極単純で無垢な解答に、上総介ははつらつとした笑みを浮かべた。腰を上げると、その眼差しを織田上総介三郎信長の生命でもって輝かせ、甲高い声で障子戸の向こうに呼びかけた。

「濃! 鼓を持ていっ!」

「持ってきておりまする」

 か細い声とともに、すうっと戸が開いた。そこに憂いじみた顔つきで佇んでいた帰蝶は、小鳥が止まり木に舞い降りたような安らかさで、微笑を浮かべていた。

 帰蝶が打つ鼓に合わせながら、上総介は「敦盛」を舞った。謡い終えると、余韻のうちに扇を下ろしていき、唐突に静けさを打ち破って声を走らせた。

「濃! 三左! いくさの支度じゃ!」

「御意!」

 三左衛門は室を飛び出していき、帰蝶が上総介のいくさ支度を整えていく。城のあるところから法螺貝が夜陰を裂いて鳴り響いた。すると、城内の至る所から物々しい声と足音が沸き立ち、城女中たちがわらわらと上総介のもとにやって来て、帰蝶を手伝ったり、湯漬けを上総介に手渡したり、牛がぽかんとする中で、気配は一挙にあわただしくなる。

 上総介は篭手で口許を拭いながら、空にした茶碗を女中に突き返すと言った。

「濃、そいつの支度もしてやれ」

「で、でも、旦那様」

 帰蝶がたじろいでいる。

「なんだっ! 早くしろっ!」

「この御仁の体格に合う召し物はありませぬ」

「なら、縄か綱でも巻きつけてやれ。刃先ぐらいは防げる」

 そういうことで、牛は女中四人に囲まれて、額に縄を、体に綱を巻きつけられた。

 牛の支度が終わると、床几から腰を上げた上総介は、らんらんとほとばしる目で笑った。

「牛、ついて参れ。出陣じゃ!」


「あれから十年以上も経っているのか」

 立ち往生していたはずの上総介が、風雨を突き破って岐阜へと帰陣してきた。

「お前の言われた通りに軍を動かしたのは、桶狭間以来だ」

 岐阜城の最上階から、ちぎれた雲のたなびく様子を眺めながら、上総介は背後に膝を付いている牛太郎にそう言った。

「悲しみは癒えたのか」

 牛太郎と上総介以外には誰の姿もない。

「悲しみっていうと?」

「駒のことだ」

「時間だけが、家の者たちを楽にさせていってくれています」

「そうか」

 稲葉山の頂上にすべり入る中空の風は、嵐がひとしきり薙ぎ払ったおかげか濁りなく澄み切っていた。草葉の香りも鼻先へとひとすじに伸びてきて、夏の便りを報せながら、すうっと抜けていった。

「今年も実るかな」

 濃尾平野を眺望する上総介は、恐ろしく穏やかであった。雌雄を決する勝負を目前に控えている気負いがまったくなかった。どうしたことだろうと思いながら、牛太郎は上総介の背中を眺める。

「存分に戦ってきたものよ。なあ、牛」

「まだ、やり残していることもあります」

 フン、と、上総介は鼻で笑った。

「言うようになったじゃねえか」

「嫌な思いをたくさんしましたから」

 上総介は黙った。

「でも、信長様が言ったことは忘れていません。なんの犠牲もなく天下への道を進めるなんて思っていない。殺される者たちよりも殺していく自分たちのほうが抱える苦しみは大きいって」

 上総介は初めて牛太郎に横顔を見せてきた。尻上がりに澄み上がった瞼から寄せてくるその黒い眼光は、牛太郎を確かめるような冷たさもあったが、視線を向けてきたままの沈黙は、引き連れ続けてきた臣下のこれまでの哀愁を前にして、自己の無力さを噛み締めるかのような虚無感に覆われていた。

 雨上がりを喜ぶかのごとく、稲葉山の空のどこかで鳶が鳴いている。

「お前の進む道は修羅の道か?」

「簗田牛太郎の道です」

 上総介は稀に見るはつらつとした笑みを浮かべた。




 長島侵攻以来、ちょうど一年ぶりであった。

 太郎以下、玄蕃や新七だけではなく、宿屋兄弟や弥次右衛門も、摂津石山の包囲から帰陣して、またすぐの出陣であったが、彼らは長島のときのような頼り甲斐のなさはおくびにも出さすにいて、ただじっと、庭先で牛太郎の用意が整うのを待っていた。


 夜明けの光を受けて、群青の静寂が西の彼方へと引いていく。

 小さな鳥たちが、朝日の昇るほうへ羽ばたいていった。

 具足の金具を鳴らす音が庭先で立ち止まり、

「殿」

 と、利兵衛が縁側を手前にして片膝をついた。

「本多殿から、ご武運を祈るとのことです」

 それだけを述べると、利兵衛は一礼を残して引き下がり、宿屋兄弟や弥次右衛門と並んで、彼らと同じように、牛太郎の用意が整うのを待った。

 玄蕃允が腕を組んで、庭の片隅から広間へと視線を据えている。新七郎は設楽ヶ原の地図を眺めていた。

 つい先ごろの摂津石山包囲に太郎とともに出陣していた彼らだが、牛太郎と利兵衛がここに加わり、簗田家のすべての男たちが戦場を目指すのは、長島侵攻以来、ちょうど一年ぶりである。

 あのときの見送りには駒もいた。

 牛太郎は薄暗い広間で床の間を背にして、瞼を閉じている。引立烏帽子を鉢巻きで縛り止め、身に着けている具足といえば、胴丸、篭手、すね当てのみで、藍染め銀縁の陣羽織をまとっているのがせいぜいの将校らしさであった。

 再度具足を新調したさい、最低限のものしかあつらえなかったのは、いつぞやのように動けなくなるのを恐れたからであった。

 それに、前線に出る気はない。

 しかし、家の者たちは違った。これまでにない主人の物静けさ、さらには向かう敵が天下に知れた武田騎馬隊とあって、今度のいくさが織田の趨勢を担うと同時に、生死の如何を占う大いくさであると感じ、貞やかつ、たまといった女中たちは縁側に膝をつけて、涙ぐんだ表情で牛太郎を見つめていた。

 ここ数日、旦那様はまったく静かだった。きっと、何かを覚悟しているのだ――。

 いくさの本質はおろか、今の織田の情勢がどうなのかなど、噂でしか知るすべのない彼女たちは、無事を祈りながらも、彼を黙って見送るしかない。

 梓もまた終始無言だった。牛太郎のはす向かいに座して、気丈な無表情で薄闇に浸っており、打掛に描かれた菖蒲だけが夫の出陣に花を添えている。

 ただ、この特異な夫婦は、言葉を交わすよりも無言であるほうが、より多弁になれているのかもしれない。

「ねえ。早くクロの赤ちゃん見たい。クロの赤ちゃん、早く、連れてきて。帰ってきたら一緒だからね」

 庭先のはずれで、どこまでも気配に無関心なすえが栗之介に言っている。

「まだ連れてこらんねえよ。チビなんだから」

「いいっ! 早くっ!」

 自分が身ごもっていることをわかっているのかどうか、牛太郎は少し笑ってしまった。梓もそれを見て笑った。

「クロの子か。わらわも早く見たいの」

「あっしも早く見てみたいですよ」

「なんじゃ、亭主殿は見ておらんのか」

 すると、二人の会話を遮るかのようにして、太郎が縁側へと現れた。後ろをついてきたあいりは、女中たちに並んで腰を下ろし、一度、牛太郎と梓に頭を下げてくる。

 赤黒縞の鞭を右手にしている太郎は、

「各々」

 と、庭先に並ぶ従者たちを見下ろした。

「来るべき時は来るべくして来た。相手は父上の宿敵だ。こたびのいくさ、勝利は当然ながら、父上の配下として勲功は必須だ」

 そう言いつつ、太郎は牛太郎に振り返ってくる。

「とはいえ、父上がまたしても一騎駆けをしてしまったら、勲功は父上お一人のものになってしまいますが」

 娘の死以来、透明になりすぎていた近頃の太郎にしては、珍しく生意気な笑みを浮かべていた。瞼の中から放つものは、まるで馬廻衆に上がったばかりのころのようにきらめいていた。

「当然だ」

 牛太郎は腰をゆっくりと上げる。

「おれは桶狭間で勲功第一の綱鎧の簗田だぞ」

「その異名、久しぶりに聞きましたね。四郎次郎がいたら、はしゃいでいたかもしれませんよ」

「あの馬鹿なら、堺ではしゃいでいるさ」

 牛太郎は息子に笑みを返し、腰の太刀をぐっと押し込んで締め付けを確かめると、

「行くぞ」

 と、眼光を据えた。太郎は頷き、配下の者たちに目を配る。彼らは一斉に立ち上がり、梓たちにそれぞれ目礼すると、門前へと先に回っていった。

 縁側を進んでいき、太郎とともに玄関口に降りると、三人の女中とあいりは上がりかまちに膝を並べ、

「ご武運をお祈り差し上げます」

 と、それぞれ、神妙な顔つきで頭を下げてきた。

 梓はいつものように立っている。いつのまにやら位牌を手の上にしていた。

「亭主殿、太郎。我らはいつもそなたたちと共におる」

 あいりが瞼を袖で拭い、太郎はうつむきながら黒い瞳を揺るがせて、しばらく足元の一点を見つめていたが、手にしていた鞭を振り抜いて音を立たせると、凝固した眼差しを梓に持ち上げた。

「母上、行ってまいります」

 梓はうなずいた。透明な表情を一瞬にして炎に染めた太郎は、名残惜しさも見せずに背中を返し、毅然と玄関を出ていった。

 牛太郎は目を閉じて取り残されたように突っ立っていたが、やがて、目礼だけすると、何も言葉にせずに女たちと別れた。

 暁光が伸び始めている。

 牛太郎は栗綱の腰を二度軽く叩くと、栗之介の手を借りて鞍に跨った。なめらかなたてがみ越しに首筋を撫で、毎度同じく玄関から飛び出してきたたまがすえを取り押さえると、

「お父ちゃん」

 と、言葉にできないものを瞳だけで弥次右衛門に訴えるたまと、口端を結んでうなずくだけの弥次右衛門の親子を眺めたあと、牛太郎は馬上の玄蕃允、新七郎に目を向け、太郎とうなずき合ったあと、最後、栗之介と視線を合わせた。

「旦那様っ」

 たまに呼ばれて、牛太郎は横顔だけを振り向かせる。彼女はすえを腕の中でおとなしくさせながら、潤んだつぶらな瞳で見上げてきていた。

「また、また、姉ちゃんと、私と、遊んでください」

「当たり前じゃないか」

「大丈夫です。たま殿。私が命にかえてでも殿をお守りいたしますから」

「いいや、俺が武田の者どもをぶっ倒していくから安心しな」

「お前らという奴らは――、黙っていんかっ!」

 玄蕃允の怒号に利兵衛と七左衛門は肩をすくめて縮こまり、

「馬鹿どもが」

 と、牛太郎は笑った。そうして手綱を振るい、栗綱がのっそりと歩み始めると、牛太郎はたまとすえに左腕だけを掲げて、その掌をわずかに振った。

 一行は稲葉山の坂を下っていき、城下の願福寺を目指す。

「旦那様。こたびのいくさで我ら簗田勢に与えられた兵は、石山に引き続き二千になります。沓掛勢、九之坪勢合わせて、およそ二千四百。うち、弓衆が百、鉄砲衆が五十、騎馬が十です」

「わかった」

 やがて、城下に差し掛かったところで、牛太郎は栗綱を止めた。道端の木々に溶けこむようにして、頬かむりを被った百姓娘がいた。

「先に行っていろ」

 と、不思議がる太郎や玄蕃允をよそに下馬し、栗之介と栗綱以外のすべての姿がなくなったのを見届けると、木の幹に背中を預けているさゆりに歩み寄っていった。

「なんだ」

「これや」

 さゆりは折りたたまれた文を二通、牛太郎に突き出してきた。

「お市様とお犬様からや。あんた、ほんまに天下一の果報者やな。罰が当たるで」

 牛太郎は文を受け取ると、中身は開かずにそのまま胴丸の下にしまい込んだ。

「まあ、痩せていい男になったしな」

「そうか?」

「笑うなや。気色悪い。台無しや」

「いや、笑わずにはいられないだろ。さゆりんにそうやって言ってもらったら」

 牛太郎のほのぼのとした笑顔に、さゆりは一度じっと睨んだあと、視線を背け、鼻先を突き上げた。

「私はもう助けてやらんからな」

「知っている」

 牛太郎の澄んだ声に、さゆりは表情を消すと、持ち上げていた鼻を下ろしていき、牛太郎を見つめた。木陰の薄闇に忍ばせていた瞳に小さな光が点ったかと思うと、それはゆらゆらと波に反射する月のように揺れた。

「絶対に死ぬなや。間違っても変な真似はせんといて。絶対に帰ってきてな。負けてもええから帰ってきて。負けたらまた二人で一からやり直せばええんやから。だから、変なことはしないでな」

「なんで泣いてんだよ。柄でもない。惚れてんのか?」

「惚れてるわっ!」

 さゆりは涙を払いながら牛太郎に抱きついてきた。

「あんたは本当にろくでもない人やっ! 私にこんなひもじい思いをさせてっ! 帰ってきたら殺してやるからっ!」

 あとは、牛太郎の胸でわんわんと泣いた。

「わかったわかった。帰ってくるから。大丈夫、おれは絶対に勝つさ。ありがとう、さゆりん」



 武田大膳が医王寺山から動いたという報告が、各所に放っていた物見により伝えられてき、牛太郎のもとにも、打ちつける雨に身を隠しながら、篠木於松が戻ってきた。

 老人は陣屋の戸口に両膝をつけてひっそりと座り込み、しずくを垂れ落とすままに、陣笠の影で例の不気味な笑みを浮かべた。

「宿老たちの反対意見に武田の殿様は耳を貸さず、重臣たちは昨夜、一同に集まって、水を酒に見立てて、別れの盃を交わしておりましたわ」

「武田はそこまで絶望しているのか」

 と、玄蕃が意外そうに声を上げた。

「絶望ではないかもしれませんぞ、玄蕃様」

 新七郎が言う。

「命を賭してまで戦うという決意かもしれませぬ」

「於松」

 と、太郎が呼びかけた。

「武田はこちらの様子を把握しているのか」

「へえ。我らが城郭を築き、柵をこしらえていることも存じておれば、設楽ヶ原がぬかるみにまみれていることも承知しているようで」

「大膳はそこまで己の軍に自信を持っているのか」

「丸山砦だ」

 腕組みをしていた牛太郎が、瞼をうっすらと開けてそう言った。於松は牛太郎の言葉に合わせて、喉を軋ませるように低く笑う。

「さすがは旦那様で」

「どういうことだ、オヤジ殿」

「佐久間右衛門尉殿は武田と内通している、と、あいつらは思っている」

 与力たちは声を上げた。

「騒ぐな。間者がいないとは限らねえんだからよ」

「しかし、父上、まさか、父上が」

 太郎が唖然としているところ、於松の後ろに利兵衛がやって来て、丸い顔を手ぬぐいで拭きながら、

「本陣から伝令が届きましたよ。即刻、軍議だそうです」

 牛太郎は腰を上げると、そそくさと半纏股引を剥いで、床几に腰掛け、袴を履いていく。利兵衛がため息をつきながら陣屋に上がりこんでき、諸手を広げる牛太郎の腕に篭手を巻きつけていく。

「外に出るたびに着替えるぐらいなら、ずっとこのままでよいではないですか」

「蒸し暑いんだからしょうがないだろうが」

 篭手を身につけると、次にすね当てを巻きつけていき、胴丸を抱えこむと、陣羽織を羽織って、烏帽子を被った。鉢巻きで縛り止めると、太刀と脇差を腰に差し込み、立ち上がった。

「さて、行こうか、太郎」

 極楽寺山の本陣まで登ると、ちょうど、各陣の諸将たちも集ってきており、中でもある者が降りしきる雨の中で牛太郎に睨みを与えてきていて、朱色の陣羽織がことさら目立っていた。

「なんですか、藤吉郎殿」

 牛太郎はそう呼びかけたが、藤吉郎はぷいと顔を背けて、弟の小一郎が申し訳なさそうに頭を下げているのをよそに、陣所の極楽寺へと入っていってしまう。

「なんだ、あいつ。何をあんなに怒っているんだ」

「さあ。藤吉郎殿があんな真似をするなんて、珍しいですね」

 藤吉郎は軍議の行われる本堂でも、腕を組んでむっつりとしていた。犬猿の仲でもある佐々内蔵助でさえ瞼の中に火を宿したまま、じっと、床のどこか一点を見つめており、罵倒の応酬が常の二人であったから、本堂は静かすぎて、余計、座には緊張が張り詰めてしまう。

 各大将他、主な与力たちが集ったところで、上総介が、勘九郎、三介の息子たちを引き連れて、現れた。床几に腰を下ろし、一同を吊り上がった目で睥睨する。

「雨は止むのか」

 と、開口一番、どう答えたらよいものかわからぬ問いを、誰かに訊ねた。誰かに、というのも、そのままゆっくりと座を見回すので、誰に対して訊ねているのか不明であった。

 答えに窮する諸将を見かねたかのように、丹羽五郎左衛門が声を上げた。

「止まない雨はありませぬ」

「当たり前だ」

 気分で言い出したかのような上総介のありように、諸将たちは丹羽五郎左を気の毒に思ったが、五郎左は別段不服そうな顔色もせず、ただただ一言、

「左様でしたな」

 と、少しだけ笑った。上総介は厳しい表情のままだったが、フン、と、鼻だけは鳴らした。

「権六、あとはお前が申せ」

「はっ」

 柴田権六郎は表を下げながら、つと前に出て、中央の大地図ににじり寄ると、鞭を手に取り、その先で設楽ヶ原のあらましを説明した。

「武田は想定通り鶴翼の陣を敷いている。布陣は物見の報せによるとおそらく――」

 右翼は中核を馬場美濃守として、真田源太左衛門隊、土屋右兵衛尉隊、左翼は山県赤備えを中核として、小山田左兵衛尉隊、原隼人佑隊、中央は武田逍遥軒、武田典厩、内藤修理亮、そして大膳本陣となっている。

「長篠城包囲に残しているのは武田兵庫介を中心に約三千から五千。なお、長篠城は兵糧庫を焼かれており、一刻の猶予も許されない事態である」

「恐れながら」

 三河勢、酒井左衛門尉忠次であった。三河守の背後に座していた彼は、鷲鼻の下に生える口髭を板床に向かい合わせながら、発言を求めた。

 権六郎が上総介に目を配ると、

「申せ」

 と、上総介が冷気漂う眼差しだけを横にする。酒井左衛門尉は頑強そうな頬骨を上下させて言った。

「願わくば、徳川における我が東三河勢千の長篠城救援の進軍をお許しいただきたく存じます。東三河勢にとって、設楽ヶ原近在は勝手知ったる地。街道を迂回し、山々を抜けていくことは訳ありませぬ」

 牛太郎は思わず瞼を押し広げてしまった。はす向かいの三河守が下膨れの頬を緩ませながら、こちらに、ちら、と、目配せしてきたのは確かであった。

 長篠城の救援ならともかく、三河守は何か勘違いをしているのではないだろうか。鬼婆の茶屋で三河守に伝えたきつつき戦法とは、武田を長篠城から叩き出すものであって、武田軍がすでに設楽ヶ原に着陣している以上、無用の戦術だ。

 案の定、今度は上総介が牛太郎に視線を向けてきた。その眉は、酒井の発言を計りかねて、皺を寄せている。

 きつつき戦法を事前に計画していた者は、この座において、上総介と牛太郎、三河守だけである。織田方と徳川方に齟齬が生じているのではないか、上総介の表情も、牛太郎の胸中も、複雑であった。酒井が申しているのは、言葉の額面通りに長篠城救援なのか、それともきつつき戦法を行おうとしているのか、わからなかった。

「それは難儀なことではないのか」

 上座の勘九郎が珍しく発した。

「大膳殿が設楽ヶ原に着陣したのは信じ難きことではあるが、しかし、彼らからしてみれば、長篠城を奪還できなくては身も蓋もないいくさになろう。それに、付城を落とされ、長篠城に息を吹き返されては、彼らは背後にも敵を回すことになる。我らが長篠城救援の兵を差し向けようとするのは、武田もよほど警戒しているに違いなく、ひとたび、動きを悟られては、せっかく出向いてきた敵方を長篠城に引き返す結果になりかねなくもない」

「そこは勝手知ったる三河の兵。風雨夜陰にまぎれて大きく迂回しまする」

「いいや、酒井殿、若殿のおっしゃる通りだ」

 勝蔵だった。

「ここで武田を取り逃がしては意味が無い。ここで武田を叩かなければ未来はない。長篠城にはもう少し我慢してもらう他あるまい。それでも行くと言うのであれば、俺も付いて参るぞ」

 結局は、後方に回されてしまった勝蔵は、先鋒を務めたいだけなのではないかと、牛太郎は呆れてしまった。

 諸将も同じ思いだったらしく、押し黙っていたはずの内蔵助が眼光を捻り上げた。

「お前の意見などどうでもよい」

「なんだと?」

「黙れ、うつけども」

 上総介の甲高い声が打ち響いて、荒武者たちは不服そうながら顔を伏せた。

 いっときの静寂が座を支配する。雨の打ちつける音を聞きながら、諸将は、大地図を睨むだけの上総介の答えを待った。

「勘九郎の申す通りだ。武田の小倅は明日にでも攻めてくる。ゆえに、一兵たりとも設楽ヶ原を離れることは許さなければ、無用の奇襲で兵卒を失うわけにもいかん」

「し、しかし、上総介殿っ!」

「先陣を切りたい三河殿のお気持ちも察するが、たかだか千の兵で武田の付城を落とせるわけがあるまい」

 三河守は無念そうに視線を落とす。が、また、ちら、と、牛太郎のほうを伺ってきた。牛太郎は眉間を固めながら首をわずかに振る。むしろ、状況がわからないのかと怒鳴り散らしたいぐらいであった。

「権六、続けろ」

 権六郎はうなずくと、再び鞭の先を大地図にあてた。

「各将、すでに存じているであろうが、設楽ヶ原は元から土壌の緩い湿田である。さらには振り続けている雨により、敵方の騎馬隊は進軍に困難を極めるであろう。だからと言って、各々、功を急いてはならぬ。乱戦に持ち込まれれば敵方の思う壺。我らは時が満ちるまで柵の中にひそみ、敵方の主力が崩れるまで亀のように閉じこもっておるのじゃ」

 権六郎が列に下がると、どこか腑に落ちていない諸将に、上総介は言った。

「雨が上がるまでの辛抱だ。それまで持ちこたえろ」

 当然、各将はこのいくさの勝敗を決めるのが、火縄銃の使用の可否によるものだとすでに把握している。織田方二千丁、徳川方も牛太郎の話を聞いたあとに千丁を用意した。だが、もしもこの三千丁の火縄銃が火を噴くこともなく、とうとう土に埋もれる錆と化してしまったら、急ごしらえの野戦城郭で武田の猛攻を退けられるのか。

 おそらく、火縄銃の大量装備も武田軍の知ところかもしれない。だが、大膳がそれでも決戦に馬首を向けてきた理由の一つとして、この雨だったのかもしれない。

 もしも、雨がやまなかったら――。

 あとのすべてを天運に委ねるのみとなったこの決戦は、実は、震えるほどの大博打であったことに、牛太郎は今更ながら気づいた。


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