日本海軍の黄昏
昭和20年3月、来る4月からの沖縄攻略作戦に先立つ形で、米軍は九州や四国の日本陸海軍航空基地と、呉の軍港地帯を攻撃するべく動いた。その主力はウルシー環礁の基地から出撃した空母部隊だった。
3月19日、この機動部隊から飛び立った艦載機が呉軍港と停泊中の艦艇に襲い掛かった。この艦載機群に対して、四国松山飛行場に展開する海軍第343航空隊、通称剣部隊の「紫電改」が迎撃を行い、54機の撃墜を報じた。(米軍側の記録では撃墜された機体は20機前後とされている。)
そうした航空隊が輝かしい戦果を上げた一方で、水上部隊は大きな打撃を被っていた。まず連合艦隊旗艦を努めたこともある軽巡「大淀」が大破し、さらに軽空母の「龍鳳」も損傷を負っている。その他の艦艇にも若干の損害が出ている。
そんな中で、哨戒艇102号は無事であった。しかし戦況は日を追うごとに厳しい物となっていた。
この空襲の少し前、3月10日から数日間の間、東京をはじめとする名古屋、大阪、といった都市がマリアナ諸島から飛び立ったB29戦略爆撃機の低高度無差別爆撃を受け、民間人を含む多数の犠牲者を出している。先月から激戦が繰り広げられた硫黄島も既に米軍の手に渡ったも同然であり、陥落したのはそれから間もなくのことだった。
南方からの物資輸送はほぼ絶望的となり、石油、鉄、ゴム、ボーキサイトといった戦略物資は全く日本本土には入ってこなくなった。かろうじて満州などから食料や石炭が入ってきていたが、米潜水艦は日本海にも侵入していたため、それらが止まるのも時間の問題だった。
当初は石油をはじめとする資源不足を原因にしてはじまったアメリカとの戦争は、いつのまにか継戦理由が国体の護持に代わるところまで追い詰められていた。
政府はソ連を仲介にしての和平交渉に一縷の望みを掛けていたが、すでにソ連はアメリカとの密約で日本への宣戦布告を決定していた。このことを日本政府は全く知らず、ソ連にただいいように弄ばれている状態だった。
その間も戦争は続く。4月1日、米軍はついに日本本土の一角である沖縄本島に上陸を開始した。同島での戦闘は、県民の疎開が不十分だったために、40万人の民間人を巻き込む悲惨な戦いとなった。それに対して本土の日本軍が行ないえたのは、九州南端の航空基地から、ありったけの特攻機を発進させる以外になかった。
しかし、御前会議においての天皇の「海軍にもう船はないのか」という御下問を受けて、急遽連合艦隊司令部は海軍最後の有力艦隊である第二艦隊に対し、沖縄への水上特攻を命令した。つまり世界最大最強の「大和」の46cm砲で片っ端から沖縄近海の敵艦船を撃ちまくりそれでも余裕があるなら沖縄に乗り上げて砲台として戦う。
出撃予定艦艇は戦艦「大和」、軽巡「矢矧」、駆逐艦8隻の合計10隻のみ。対する敵艦隊は沖縄近海に展開する米艦隊の艦隊用空母だけで16隻、戦艦は新旧併せて20隻以上。はっきりいって勝てる要素など1つも無かった。
この作戦名は菊水作戦。それは、戦果など全く期待できない、ただ大日本帝国海軍の名誉と意地を守るためだけの自殺にも等しい作戦だった。それでも、上層部より正式な命令が下されたのならば行かねばならないのが軍人の務めである。
「大和」以下第2艦隊の各艦艇は、当初は本土決戦で敵艦隊に決戦を挑む、もしくは浮き砲台して戦う予定だった。だからこの沖縄突入はまさに寝耳に水の作戦であった。乗員達は慌しく出撃の準備を整えた。
燃料の重油は残り少なかったが、タンクの底から帳簿外の燃料を吸い出すなどして、「大和」には沖縄と本土を2回往復する分の燃料が積まれた。また他艦から補充するなどして、搭載できるギリギリの数の弾薬も併せて搭載された。そして乗艦したばかりの新兵や士官候補生、老兵などの人間が降ろされた。
こうして出撃準備を整えた第2艦隊の各艦艇では、出撃前日となる4月5日夕方、備蓄されていた酒や菓子が乗員たちに振舞われた。彼らはこれが最後の宴会と覚悟し、飲んで食って、歌った。
一方、艦に宿る艦魂たちもそれぞれに挨拶を交わし、武運長久を祈った。哨戒艇102号の艦魂、スチュワートも親友である「雪風」の艦魂と挨拶を交わした。
「スチュワート、今日までありがとう。恐らく今度ばかりは私も帰ってこられないと思う。後のことをよろしく頼む。」
普段から無口で単刀直入にものを言う彼女は、スチュワートに会うなりそう言った。
「そんな悲しいこと言わないで・・・て言いたいところだけど、今回の作戦は全滅必至って聞いたわ。けど雪風、私はあなたなら絶対に今度も帰ってくるって信じているわ。」
これがスチュワートが言えた精一杯の励ましの言葉だった。
「・・・・ありがとう。」
「約束果たせなかったわね。ごめんなさい。」
その言葉に対して、雪風はニコッと笑みを浮かべた。
「気にしないで。私たちは軍艦に憑いた艦魂。自分の意志でどうこうなるわけじゃない・・・ただ、もし今度平和な時代にお互い生まれ変われたら、その時はまた友達になろう。」
「ええ・・・」
「それじゃあ、他の艦にも挨拶しなくちゃいけないから。」
「うん。」
これがスチュワートと雪風にとって、今生の別れとなった。
翌日、出撃した第2艦隊は早くも潜水艦に捕捉され、その翌日には約400機の敵航空機の波状攻撃を2時間近く受け、戦艦「大和」、軽巡「矢矧」、駆逐艦4隻が撃沈されて壊滅した。
「雪風」はこの戦いでも幸運艦としての運を発揮し、大きな被害もなく帰還した。しかしその後は関門海峡が機雷で封鎖されたために、主に舞鶴方面で活動した。そのため哨戒艇102号と顔を会わせることは、2度となかった。そして復員船として活動した後、彼女は賠償艦として台湾海軍(中華民国海軍)に譲渡され、そのまま現地でその生涯を終えている。
この第二艦隊による沖縄への水上特攻が、帝国海軍連合艦隊の最後の有力な水上艦隊による作戦行動となった。以後燃料の重油を失った残存艦艇は航行不能に陥り、むなしく瀬戸内海で浮き砲台として戦うことを強いられたのである。
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