敗戦への坂道
昭和19年という年は、大日本帝国の敗北が確実になった年であった。6月に絶対国防圏の一角であり、本土への爆撃可能な距離にあるマリアナ諸島に米軍が上陸し、これを占領した。またその救援のために連合艦隊機動部隊が総力を上げて行なったマリアナ沖海戦も一方的な大敗北で終わった。
10月。米軍は太平洋における日本軍最後の拠点であり、南方資源地帯との航路を守る上で必要不可欠なフィリピンへと上陸した。そして、日本海軍がその占領を全力阻止するべく行なった最後の作戦である捷一号作戦こと、レイテ沖海戦も多数の艦艇を失うだけに終わった。
いよいよ米軍は日本の喉元に迫り、日本降伏のカウントダウンが始まったのである。
そんな中、長野満中尉が乗り組む元米駆逐艦「スチュワート」こと哨戒艇102号は仏印近海での船団輸送を幾度となくこなしていた。すでに米軍の潜水艦や航空機の跳梁跋扈著しいこの海域においては艦艇、船舶とわず多くの船が撃沈されていた。その中で、102号は不思議と損害を負う事がなかった。
昭和20年初頭、哨戒艇102号は兵装増強のために日本海軍の一大拠点である日本本土の呉軍港に入港した。
レイテ沖海戦で多数の艦艇を失ったものの、この時点で日本海軍にはまだ「大和」を始めとする戦艦5隻、空母4隻が健在だった。だが、その内情は寂しい物だった。
「「榛名」に「伊勢」、「日向」もいる。見えないけど「大和」もドッグで修理中って聞く。これだけの戦艦があるのに、動かす燃料がないなんて。」
満が遠景に見える戦艦たちを見ながら溜息をついた。
「燃料がなきゃ、戦艦もただの浮かぶ鉄くずね。」
隣に立つ哨戒艇102号の艦魂、満は前艦名のまま「スチュワート」と呼んでいる少女が言った。
「本当に情けないよ。いまさらながら大井大佐の言っていたことが正しかったんだなって実感できるよ。」
長野の言う大井大佐とは、日本のシーレーン防衛を担う海上護衛総隊参謀の大井篤大佐のことだ。彼は常々海上護衛の重要性を海軍省や海軍軍令部に訴えてきた男である。島国であり、資源依存国である日本が生き残るには、シーレーン防衛が最重要課題であると。
しかし、日露戦争以来の艦隊決戦主義という亡霊にとりつかれた海軍軍人の中に、彼の言葉をまともにとりあう者は少なく、むしろ邪魔なあつかいをしたり、侮蔑する者の方が多かった。
海上護衛総隊は満足な装備も、人間も与えられないまま戦いを続けてきたが、それももはや限界だった。
「満の前で言うのもなんだけど、日本にはもう勝ち目なんてないわ。それなのに、どうして戦争をやめないのかしら?」
アメリカ生まれのスチュワートは日本がどうして戦い続けるのかよくわからなかった。特攻などはそのもっともたる物だった。
「さあね。一海軍軍人の俺に政治のことなんてよくわからないよ。願わくば早いところ講和して欲しいよ。そうすれば無駄な死人も出さずに住む。」
満の言葉はこの時代の日本では問題発言であるが、海軍の軍人の中にはそう考える人間も実は多かった。
「それが一番よね。」
「うん。」
2人はそう言うと、しばらく穏やかに波を立てる瀬戸内海を眺めていた。そして艇が速度を落とし始めた所で、スチュワートが口を開いた。
「ところで、満は私が改装している間どうするの?」
「スチュワート」が小規模な改装を受ける間、乗員は交代で1週間の休暇を出される予定だった。
「俺は故郷に帰ろうと思ってるよ。母さんと2年間も会ってないから。」
「そう。しっかり親孝行してらっしゃいよ。」
「そうするよ。」
この翌日、満は離艦して故郷の岐阜へと帰っていった。スチュワートは自分と会話できる人間もいなくなったため、主に周りの艦魂たちとお喋りを楽しむ事となった。
もとアメリカの船とはいえ、同じ艦魂同士である。そこに国境という物はない。
スチュワートがそうであるように、艦魂のほとんどが少女の姿をしている。そして、性格も、立ち振る舞いも、そして会話する内容も人間の少女がすることと変わりなかった。その中で、スチュワートは同じ駆逐艦だからというわけでもないが、駆逐艦「雪風」の艦魂と仲良くなった。
「雪風」は陽炎型駆逐艦で、開戦以来幾多の海戦に参加しながら一度も大きな被害を負っていないことから、不沈艦として名高いが、その艦魂はというと眼鏡をかけた無口な少女だった。
特に騒ぐ事も無く、口数も少ないので一人でいることも少なくないのだが、なぜかスチュワートが喋りかけると、会話に参加して来てくれた。というか、スチュワートに対して何かしら気にしているような感じだった。
スチュワートがそれについて聞くと、理由を話してくれた。
昨年のレイテ沖海戦において、「雪風」は米護衛空母部隊との戦闘中、1隻の勇敢な米駆逐艦と戦った。その艦名は「ジョンストン」。
「フレッチャ―」級駆逐艦の「ジョンストン」は圧倒的多数の日本艦隊に、幾度も突撃を加えて混乱させ、ついには護衛空母を守りきった。だが、最終的に多数の砲弾を浴びて撃沈されている。
「雪風」艦長の寺内中佐は、沈み行く「ジョンストン」への攻撃を禁じ、さらには漂流する敵乗員たちに敬礼し、その勇戦を讃えた。
後に60年以上経っても美談として語り継がれたこの物語を、当事者である雪風も感動の想いで見ていた。
「私はあんな勇敢な駆逐艦を生み出したアメリカという国に興味がある。もし人間として生まれ変われるのなら、一度アメリカへ行ってみたい。」
そう雪風に言われたとき、スチュワートはかつての祖国のことを再び誇りに思ったのである。
「ありがとう雪風。もし私があなたと同じ世に生まれ変われたら、あなたを絶対にアメリカに招待するわ。」
そんなことあるまいと思いながらも、2人はそう言ってお互い微笑んだ。
こうして戦争という殺伐とした状況下で、艦魂という存在の少女達は明るい心を失うことなく生きていた。
だが、戦争はいよいよ日本にとって絶望的、そして悲劇的な結果を生もうとしていた。時に昭和20年3月。哨戒艇102号は改装を終えて工廠を出たが、それと前後して日本には死と破壊という嵐が荒れ狂う事となった。