彼氏とホテルへ行った話
ああ、ちょうど良かった。
君を待ってたところなんだよね。
え?会計?まぁ待ちなって。
ちょっと思い出したことがあってさ。これは誰かに話さなくては。とか思ってね。
待ち構えてたら君が来たわけだ。
なんだい、そんなに遠慮しなくてもいいじゃんか。
小説を読むのに忙しいって?
よくもまあ飽きもせず読むね、君。うちの収入源の三割が君だよ。
だいたい最近の若者は本を読まなさすぎだよね、そんなだから本屋は儲からないんだよ。うちは古本屋だけど。偏見だって?知ってるよ。
言ってみたかっただけ。私だってまだハタチだし。
いいじゃん、君もどうせ暇なんでしょ?常連のよしみでさ、話し相手になってよ。
じゃあそれっぽく話すから、心して聞くように。
――これは私が高校生だった時の話だよ。
当時から不思議な出来事、特に霊や妖怪といったオカルトにのめり込んでいた私は、当時付き合っていた彼氏と、とある廃墟に行ったんだ。
肝試し…という季節ではなかったね。
もうススキが生い茂っているような道なき道を歩いた記憶があるから、多分九月か十月かな。残暑か何かで少し暑かった気がするね。
そこは県内でも結構有名な廃墟でね、管理してる会社も名前だけの幽霊会社だ。なんていう話もある施設なんだけど。古いホテルなんだよ。海沿いのね。
ああ、うん。電車で行ったよ。流石に車の免許が取れる年齢じゃなかったし。
結構遠かったね。タクシーは高いからって、途中から歩いて行ったよ。
海きれいだねー、なんて言いながらね。
秋の海もいいもんだよ。お昼に寄ったお店じゃ秋刀魚を焼いていたから食べさせてもらった。
そんな風に、寄り道を繰り返していたせいもあってか、二人とも足取りが重くなってきててね。
このまま普通にデートして終わりでいいじゃないか。って。
彼氏くん、陸上部だったんだけどだいぶ疲れててね。
私も当時文芸部だったから休憩して、歩いてを繰り返してやっとで着いたよ。三時間くらい歩いたかな。
もうくたくただったけど、ここまで来たからには後には退けない。って感じでさ。
さっきも言ったけどススキが多くてね、見てる分にはいいんだけど、そこを歩くとなると、ね。これがまた大変なんだ。
ススキを押しのけ、押しのけ進んでいくと、遠くに薄汚れた長方形の建物が見えた。
第一印象は、箱かな。有名な小説じゃないけど、箱みたいな建物だったよ。
出入り口も窓も締め切られた箱。
何が詰まっているのやら。なんて気楽に見ていたけど、思えばあの時からおかしかったんだよね。
くたくたの足を引きずって、出入り口にたどり着いたとき、ふとエントランスの奥に誰かいるような気がしたんだ。
え、ありがちだって? そう言うなよ、確かに感じたんだから。
ありがち…そう。ありがちだけれど、そんな気がしたんだよ。
ひび割れたドアは無防備に開いていて、中に入ってみると、そんな人影はおろか、まともに明かりなんてついていない。
明かりがないんじゃ影が見えるはずもないよね。
そうしてエントランスにやってきた。
田舎のホテルといえど結構広いエントランスでね。多分営業していた時代にはシャンデリアなんかが飾ってあったんじゃないかな。
エントランスには二階に向かう大きな階段なんかもあって、なかなかお洒落だな、なんて呑気に思ってたんだけどさ。
さっきまで腋に汗が滲むくらい歩いて、少し暑く感じていたのに、ホテルに入ったとたんスッと涼しくなったんだよ。涼しく、というよりむしろ、寒いかな。
風もないのにやたらと寒かった。
流石に寒すぎる。
なんて思ってその場で固まってたら、急に彼が走り出したんだよ、私を追い越して。
正面にある階段をだだだ、って駆け上ってね。
私はその後ろ姿をぼーっと見つめていた。
突然のことで混乱してたんだと思う。
そうしてしばらくして、「ああ、何かあったのか」と思って、私も怖くなって後に続いたよ。
でも彼を見失ってしまった。しまった。と思ったね。
こういう場所に一人ぼっちってのはなかなか怖いものだし、何より置いてけぼりにして、自分だけ帰るわけにもいかないし。
剥がれた壁紙、開けっ放しの廊下の窓。引っかき傷に似た何か。
二階は一階より、薄気味悪い感じだった。
大きなホールの扉は錆び付いて倒れてしまっているし、食堂みたいな部屋からは、なんだか生臭い臭いがした。
私は急いで彼を探したよ。私の中には、こんなところからは一分一秒でも早く出ていきたいって気持ちしかなかったからね。彼が何に怯えて走り出したのかも分かっていなかったし。
まずはホールの中に入った。
なにか丸い物が、無造作に転がっていたことをはっきり覚えてる。
私は最初、それを生首かなにかだと勘違いして、大慌てで部屋を出たんだけど、追いかけて来るわけでも、喋りだすわけでもない。
落ち着いて近寄ってみたらミラーボールだったのさ。
今となっては笑い話だけど、当時は死ぬかと思ったからね。本当に。
ホールにはミラーボール以外に何もなかった。綺麗さっぱりなんにもない。
誰かがいる気配もない。
そうして涙目でホールから出てくると、エントランスで誰かが突っ立っているんだよね。
恐る恐る近づいてみると、どこかへ行ってしまっていた私の彼氏だったんだよ。
私はほっとしてしまって。「帰ろう! 今すぐ帰ろう!」って彼に抱きついたよ。
そしたら彼は、口元を震わせて
「さっき走っていったの…誰…?」
って、泣きそうな声で言うんだ。さっきのはだれ。さっきのはだれって。
後から聞いた話だけど、彼、私と一緒にエントランスに来たはいいものの、急に寒気がして、私に「帰ろう」と言おうとしたそうなんだ。
口を開きかけたその瞬間、誰かが後ろから急に走ってきて、自分を追い越して階段を上っていった。
そして私は、その誰かを追いかけるように急に二階へ行ってしまった、そうだ。
そのあとすぐに帰ったよ。
行きは高いから、と遠慮していたタクシーに乗ってね。
二人とも一言も話せないまま、ヒーターのついた車内で震えていたよ。
そうして震えていると、運転手さんが
「何かあったんですか」って聞いてきた。
私はバカ正直にあのホテルで見たことを話したよ、震える声で涙を流しながらね。
話を聞いた運転手さんはしばらく考え込むように黙って
「あそこ、この前業者が来たとかで、窓どころか扉も閉まっていて開かないはずなんですがね」
と言うんだ。そんな馬鹿な、と思ったけど、よくよく考えてみれば確かにそうなんだよ。
私は最初ホテルを遠くから見たとき『出入り口も窓も締め切られた箱』って感想を持ったんだよ。
扉も窓も閉まっていたはずなんだよ。
――なんで開いてたんだろうね。