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狼人形 唯の心境

唯視点


昔から私は棋士となることを決められていたかのように、両親や祖父母はおろか私の産まれた町全体が将棋を指すのが当たり前な環境で生まれ育った…………私、現在65歳、将棋八段、永世名人となった経歴のある棋士を書くためには、この冒頭部分は書く人にとってはかなり美味しい物なのだろうけど、私にとってそれは皮肉でしか無い。そもそもプロになったのも私より強い人がうじゃうじゃといるかもしれないと思ったからだった。なのに、最初は詠みにくくても何回か指せば相手の手がすぐに詠めてしまうのだから、段々と面白く無くなった。永世名人となる条件はプロになってから事情あって何年かたってからの五年間ですんでいたのだ。それでも引退せずにただ指し続けた。そんな姿が伝記を書くにも丁度いいのだろう。それに、テレビの企画でチェス、オセロ、囲碁などの名人とも対局しても、私は負けなかった。負けなかったことが悔しくて、寂しくなっていた…………この事だけは、伝記に書かれはしないだろう。私の生い立ちは、正直棋士としては順風満帆すぎて、なんで周りがここまで強くないのかが知りたいほどだった。その事をまた、話そうか。


私が産まれて、物心着いたときにはすでに両親から将棋のルールを教えて貰っていたのは記憶しているのだけど、どうやって駒の名前を覚えたのかは複雑になっていて覚えていないのだけれど。しかし私はその時から少し上の子供にもあまり負けなかったらしい。負けるのは月に一回だったらしく、両親は早々私を中学生や高校生が主に通うような将棋倶楽部へと小学校に上がる前から連れて行かれたのだった。確かに入ってからしばらくは勝てなかったものの、段々と勝てるようになっていた。これが同年代と対局していて言った言葉ならば私が努力した結果になっていたのだろう。しかし自分よりも上の世代と対局しながらこの言葉を使うと自分でもそうだと思ってしまうほど皮肉っぽく聞こえるのだ。中高生はただただ少しだけ頭を掻きながら「負けました」という声を聞いて育った私は、なんで自分は勝ってしまうのだろうかという事を誰にも話せずにただ「王手」の一言を何度も口にするのだった。段々勝てるではなく段々相手の行動の先を詠めるようになったというのが正しいから、自分自身が強くなったわけではないと思う。ただ、慣れていくという単純な勝利方法にうんざりとした。攻め方も守り方もその相手に合わせるだけで、誰かの研究をしたこともない。それなのになぜ勝てるのだろうか………とよく言われたが、自分で思うに研究してしまったら最期、相手の指す場所が全て分かってしまうのだ。なるべく相手に慣れないようにしようと思っても私の相手に慣れるスピードは日に日に早くなっていった。私はその内自分より強い人を求めた。強いならばコンピューターでも良い。誰か慣れさせないような私を負かすような人に出会いたい。それが小学校での作文で書いた無いようでもあった。それを見て先生はなんらかの事柄を調べ、私に紹介状を手渡した。町の中の将棋クラブでは敵無しになっていた私を救おうと、次々と将棋クラブの試合を組んだのだった………しかし、私の圧勝でかつ全勝という、またも皮肉に満ちたような結果になってしまった。先生はそんな私をどう思ったのだろうか?と疑問に思った。多少複雑な相手もいたのだが、どうやっても私が何回もすれば圧勝してしまう。先を詠むだけならば他の誰にも負けないのだが、成績はそれほどまでに高いわけでもない。先を詠むことだけが異常に高い能力を持っているのだろう。そう通信簿に書かれていた。ついでに詰め将棋が書かれてたりもしたけれども長くて数分で解けてしまう問題ばかりだった。

「そうだ、プロになればもうちょっと負けることも多くなるんじゃないか?先生は忘れてたかもしれんなぁ、この可能性!!そうだよ、小学生でもプロになろうと思えばなれるんだよ、強ければ!!いや~、まさかこの漫画で思い出すとはなぁ。、ハッハッハ。」

小学五年生の頃に、私は先生にこんな事を言われた。丁度その先生は他の生徒から没収した漫画を読みながら、私の顔をじっ~っと見てから急に笑い出してさっきの言葉を言った。正直プロになるというのは気付かなかった選択しだと思った。これまでは無理言って自分より年上の中高生とやっていたのだから、プロになってしまえば遠慮なく対局ができるだろう。私はそう思って先生から少し話を聞いた後両親に相談するため笑顔で帰ったのを覚えている。おそらく伝記が書かれるならば、この教師の言葉は多少脚色されたとしても載るだろう。………まぁ、どうでもいいのですけどね。


「お父さん、お母さん、私はプロになれるかな?」

そう両親に言うと父は「少し待ってくれ」と言ってどこか電話をかけた。その電話から漏れてきたのは「娘が本当にプロでもやっていけるのかを試したい。少なくとも親として、一番自分か得意なもので娘が将棋に触れなくなるぐらいのトラウマを抱えないかを、お前を使って試したい。」という父の真剣な声と『兄さんの娘にそんな酷なことはさせたくないんだけどな………。分かった、明後日にそっちに帰るから、そこで対局しよう。』と返事の声も聞こえてきた。

父は「アマチュアのお前をプロに推薦してくれるプロ棋士を呼んでおいた。しかし、お前がその人に十戦全勝しなければ推薦はしない。いいな!!」と、顔に僅かな笑みを見せながらも怒鳴って自分の部屋に籠もってしまった。母は私がプロになるのにはあまり反対していなかった………というかむしろ大いに賛成していた。「あなたのおやつ代が本当に家計に負担でね……可愛い娘のためなら惜しまないと思ってたけどさすがに食べ盛りの中学を迎えるとなるとね………」と苦笑いするのだった。まぁ確かに私は食いしん坊と言われても仕方ないほど脳の栄養補給と称してたくさん食べていた。もっとも太ることは無かったけど。………別にお洒落とか宝石には興味がないから自分の栄養補給の為のおやつ代位は自分で賄おうと決心した私だった。


翌日父が連れてきたのは私のよく知っている父の弟だった。彼はプロ棋士であり、一応プロになるための推薦のためにと私に対局を申し込んだのだった。とりあえず四段にはなっていたために私の事を推薦しても良いというのだった。しかしそれはあくまでも書類までの推薦だった。その後はプロ棋士に五戦中三勝しなければならない条件は別の人にやってもらうらしいのだが、推薦状を書くために、小学生の私にも本当に資質と覚悟があるのかということで、叔父は私を潰す気で対局を始めた。…………………結果、残念なことにさほど苦戦せずに全勝してしまった。苦戦したのは最初の一戦だけで、それだけは実力で勝ったのだけど、伯父さんのプライドを逆に折るほどに私は勝ってしまった。これには両親の口も開いたままになるほど両親は唖然していた。

「とりあえず唯ちゃんはプロになれるだろう。もしかしたら初めての女性で名人になるかもしれないね………悔しいけど、僕はまだB1だから僕に勝ったくらいでその気にならない方が良いかもしれないけどね。」

伯父の言葉もおそらく伝記の中に書かれるだろうが、一々大袈裟に書かれるのは迷惑だと感じた。


さて、後日のプロ棋士との対局を素早く三勝し、私は晴れてプロの世界に入っていった……………。義務教育すらほったらかしに近い状態で、その間にA級に進み、その年に名人戦から名人になっていた。だが、その後の展開は私ですら予測しておらず、伝記には丁度良いような山場にもなるであろう、そんな出来事が私だけを襲った。本当に、この事で私の名は将棋に興味がある人以外のバラエティ好きやニュースをよく見る人の脳裏に焼き付けられたのだろうと、そう感じた。それもそうだ。


初の女性の名人でさらに最年少で勝ち取った私が、その名人戦後に事故に遭い、十年ほど昏睡状態になったのだから。


あれは本当に私が悪いのだろうと思う。名人戦の後、かなり消耗していた。さすがにもう一年で永世名人になる資格を貰えるという実力のあった名人に慣れるまでには時間がかかった。そして、先を詠むこともあまり鮮明には見えなかった。ようやく私が苦戦するような人に出会えたと嬉しかったのを覚えている。私はその後、消耗した体でフラフラとしながら家に戻ろうとしたところ、道路に酔っ払いのようにフラリと出てしまい、車に弾かれて打ち所が微妙であり絶妙な場所に当たり、十年も寝ていたのだ。どうやら私はその間にかなり神格化されながらテレビで紹介されていたのだった。起きあがったときに両親の少し皺のよった顔を見て涙を流し続けていた。そして、かなり困惑した。なんせ中学校三年生で普通ならば一回目の進路を決める分かれ道を突っ切って二回目の大学受験か就職かも突っ切ってしまっていたのだから、困惑なんて誰もがするだろう。卒業式の写真も成人式の集合写真も窓の中に写っていたというのがかなりの黒歴史になりそうだった。


そして、唯一大苦戦した私の前の名人は亡くなっていた。そして私は不戦敗を続けたということでリハビリを一年ほどしてからもう一回C2から五年間やってみようと、立ち上がったのだ。しかし、予想と反してリハビリがかなり長引き、別の病気にかかったりしてリハビリの期間がかなり延びてしまった。結局私はリハビリを始めてから名人の座に戻るまでに十五年も掛かったのだ。まぁ、その間に結婚して子供も産んでいたのだけどね……。そして育児もしていた。相手は同い年で幼なじみの男性だった。彼は私に釣り合おうと鍛錬を重ねて私のリハビリ中にテレビ中継でA級になるほどの快挙だった。そして、リハビリ後の名人戦への挑戦を決める対局では彼がその相手だった。若き初の女名人の名人復活は、私が四十歳になってからの事となった。それから、彼も奮闘していたが彼が私に名人に挑戦する舞台で対局したのは私が永世名人となる資格を得るまでに一回しか無かった。彼は私が「王手」の一言を言ったときに、身内と指しているわけでない、遙か高みにいる名人という名の王様と接するような雰囲気で私に負けましたの言葉を言う。それが、私にとってここにいても刺激があるのかと疑問にさせたのだ。


私が四十五歳の時に、娘が結婚した。将棋とは縁は無かったが、実家が雀荘をしているという話をよく聞いていた。彼は「自分の雀荘にはプロがたくさん来ます。そこならば、お義母さんに勝てる人もいるんじゃないでしょうか?」と自信満々に言った。そのときにはすでに将棋界からは引退していたので麻雀を始めてみた。しかし、そこでも私は和了れない事はあっても負けることは無かった。その人達はプロだが、何かが足りない。架空の通貨を賭けてみるも、まだ足りない。刺激というか、私を負かすような相手は中々現れなかった。

孫が大学生になった時に、孫はあるサイトを私に紹介してきた。孫は何回も「二度と婆ちゃんに会えなくなるかもしれないし、婆ちゃんが死ぬかもしれない。よくよく考えて、母さんや爺ちゃんにも何回も何回も確認してから、しっかり準備をしてプレイする事。俺はこれなら婆ちゃんに勝つ人が集まるかもしれないし。」と、私に言い続けた。孫も私に死んで欲しくはないのだろうが、私はすでに覚悟を決めていた。きっと伝記の最期にはこのような事も書かれるのだろう。初の女性永世名人は、自分より強い相手を求め、禁忌とされるゲームに足を踏み入れ、生涯を終えただろう………と。



そして、参加者が全員集まったとき、私と対等に戦えそうな人間は実力で一人。異質な感じのが一人いた。騙しあうのは初めてなんだけど、私は負けないだろう。負かす相手もそこまでいない。なら、何回も待つだけね…………。

そして、自分の役は、人形………………。


「あらやだ。これだとすぐに勝ってしまうそうね。」

これからは、伝記にも載らない、刺激のある命が賭かったゲームが始まるのだ。無垢な少女のようにウズウズするのは当たり前だった。

「それじゃあ、がんばりましょうか。」







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