師弟 (外伝一話)
本編と全く関係ない、アンジェリナの一人称によるお話です。
午後の日差しが地上にある全てのものに短い影を作っている。吹き渡る風が齎す葉擦れの音が心地よく、私は眼を閉じた。奴の国様式の建物の縁側と呼ばれる庭に面した長細い板敷きに腰掛け、額から首元に流れる汗を拭う。白い胴着に黒い袴の居住いを正し、私は盆に乗った湯のみを両手で持ち口へ運ぶ。緑茶特有の苦味と甘味が口に広がった。
ここはナーモ平原にある、私が通う剣術道場だ。ギルド内には手入れの手間が掛かる刀を遣う冒険者が極端に少なく、手合わせをする相手も居ないため技量を向上させる事が難しい。そのような理由で私は、大戦中に出逢ったこの道場の主を刀術の師と仰ぎ、今でも迷惑と知りながらもしばしば教えを請いにやってきている。
二口目の茶を飲み下し一つ溜息をついたが、それで私の心に溜まった澱が洗い流される訳でもなかった。まだ茶の残る湯飲みを盆に戻し、自分の両の掌を見つめる。冒険者として過ごしてきた時間の中で奪ってきた命の重さを受け止めきれずに、私の手は微かに震えていた。後ろめたい戦いは一度も無かったと言い切れる。どれも己の正義を貫いての結果だ。それでも、彼等の命を奪ってまで私が生き残る価値はあったのだろうか……。生き残った者が正しいと言う事は、つまり強い者が正しいと言う事と同義であり、私はその理論を到底受け入れる事が出来ないでいた。
「姫。何を迷っているのかしら」
突然後ろから声を掛けてきた華奢な体つきの中年の男が私の隣に音も無く腰を下ろし、先程まで私が飲んでいた湯飲みを手にして茶を啜る。奴国では熱い物を口にする時は音を立てて食するのが作法だそうで、風邪をひいた子供が鼻を啜るような盛大な音を立てて、隣の男は茶を飲み干した。
「師匠。それは私の湯のみですよ。茶を御所望なら、御用意しましたのに」
私の話も聞かず「結構なお手前で」と言って湯飲みに向かって三つ指をついて礼をする男に、私は聞こえるように嘆息した。
「固い事言わないの。私と姫の仲じゃないの」
右手を口に当てて笑う男に「どんな仲です」と言う私の言葉はやはり聞こえていないらしく、立ち上がると空になった湯飲みを盆に乗せて流しに片付けに行ってしまった。
この男こそ私の刀の師であり、エルドラゴ随一の刀術の遣い手と謳われ、奴国由来の刀を奴国人より巧く遣い、国の剣術師範を勤めた事もある剣聖ウィリアムその人である。この男は刀や剣はもとより、細長い棒状の物なら何でも武器にしてしまうような達人で、初めて手合わせした時、愛剣カラドボルグを持つ私はたった二十センチ程の箸で闘う師匠に負けたのだ。
ミュケナイ帝国での件があった後に私を何故か「姫」と呼び、五年以上ほぼ無償で稽古を付けてくれている恩人にして奇人である。私より頭一つ背が低く少年のような細い体つきでまともに筋肉がついていない。金髪の巻き毛と口髭は丁寧に手入れされており、歳は四十を超えるはずだが、肌は艶めいて、青い眼は生気に満ち溢れている。
膂力で劣る肉体的に不利な条件を技量のみで克服した強さはいったいどこにあるのか、私は知りたかった。しかしこの男の遣う剣術に流派や流儀と言えるものは存在しない。実際私は師匠から刀の握り方一つ教授されておらず「ただ、思うままに刀を振るえ」と言うのが唯一にして無二のこの道場の教えだった。
ウィリアムによれば「人を殺める為の剣術に名前や形を付けるほど悪趣味ではない」と言うのがその理由で、形に捕らわれない剣術を遣う常勝無敗のこの男から、私は未だ一度も一本を取った事がない。
「だいぶ色っぽくなったわね、姫。憂いを帯びた顔で汗を拭く仕草なんて、世の男が見たら卒倒してしまうわよ」
流しから戻って来るなり好色そうな眼差しで、私の体を舐めるように観察し述懐する四十過ぎの男に、私は一瞬悪寒を憶え胴着の胸元を両手で隠したが、それも無益な事だと思い出した。剣聖ウィリアムが女性に興味を持っていないと言う事実はこの国では有名な話だ。
「もう五年も経つのねぇ。時の移ろいは残酷なもの……」
眼を細め息を吐き出すウィリアムの声色には、私には測り知れない感慨が込められていた。
「はい。師匠に命を救われて、もう五年になります」
私の脳裏に五年前の悪夢が甦る。裏切りの騎士との屈辱に塗れた戦い。「たまたま、きのこ採りに来た」と言うウィリアムが通りがからなければ、私は間違いなくあの時命を落としていた。胸元を隠していた両手を膝に置き硬く握り締める。後日、何故私を助けたのかを問い質すと「あんな美女二人が見物人も居ない所で殺しあうのはもったいないでしょう」との返答を賜り、私はその時自分の生まれ持った器量に少しだけ感謝したものだ。
「師匠。もう一本お手合わせをお願いします」
私は悪夢を振り払うように頭を一つ振り、木刀と言う模擬戦用の刀を持って立ち上がる。生きる事への懐疑、それと背中合わせ死への恐怖。相反する二つの心情に板ばさみにされ、無心になって体を動かさなければ身も世も無く叫び声を上げ、蹲ってしまう錯覚に捕らわれた。
「なぁに、今日はやけに積極的じゃない。じゃあ久しぶりに真剣で稽古をつけてあげようかしら」
思いもかけないウィリアムの言葉に、私は「真剣ですか」と鸚鵡返しする事しか出来なかった。
「そう、何かに迷った時はそれを乗り越える力がいる。死への恐怖を乗り越えて、自分の生を証明してごらんなさい。でなければ、あなたの師として奪ってきた命の代償をここで払ってもらうわ」
そう言うとウィリアムは道場から私の刀を放ってよこし、自分の刀を腰帯に挿した。
刀を構えた瞬間ウィリアムの姿は私の視界から消え去り、気が付いた時にはすれ違いにざまに叩き込まれた一撃で咽を裂かれ、声も上げられずに絶命する自分の姿を、私はありありと想像できた。今の精神状態でこの男と本気で剣を交えれば、私は絶対に死ぬ。
「怖いのかしら」
目の前の華奢な体つきの男は、刀を鞘から抜かずに左足を後ろに下げ右手を柄に掛けている。居合い(抜刀術)は「相手の刀を抜かせて斬る」と言うのが常道だ。無闇に鞘から刀身を抜いたが最期、勝ち目はなくなる。相手の抜刀術を打ち破るには、それより早く自分が抜刀術を放つしかない。
「本気ですか」
私は一縷の望みを掛けて乾いた口を開いたが、ウィリアムは無言を返事にして微動だにしない。
試しているのか、この男は。この先も人を斬ると言う因業を背負い続けるであろう私が、その覚悟を持っているかを。
ただ、こんな形で命を落とす事も、師匠と呼んだ相手を斬る事も望むところではない。それなら殺さずに勝つしかないと言う気概が私の中で目覚め、心を静める事が出来た。見極めて貰おう。この男に。それが敵わぬなら、畢竟それまでの運命と言う事。これまでの命のやり取りの清算をして自分の命を落としたとしても、最期を看取るのが剣聖と謳われた人物なら、剣を振るうものとして本望かも知れない。
「いきます……」
思うがままに刀を振るえ。その言葉に従い突進する。私は半身を捻り柄に手を掛ける。だが迎えうつウィリアムが自分より一瞬の半分早く抜刀する姿が視界に写った。
間に合わない。そう感じたが、自分の刀が眼前まで迫ったウィリアムの刃を防いだ。それでも神速の抜刀術を受けきる事は出来ず、私の刀はへし折られ宙を舞う。刀身を折る事で速度が減殺されたウィリアムの攻撃をかわす事は出来るかも知れない。ただ、体を入れ替えた瞬間に袈裟斬りされるのが眼に見えている。ならばこのすれ違いざまに勝負を掛けるしかない。ウィリアムの刃先が私の頬のすぐ脇を擦過する。
ここで死ぬ訳には行かない。その一心で全身を声にして叫び、私は本能に従って体を動かした。
「見事だったわよ。真剣を持って負けたのは初めてじゃないかしら……」
気が付けば道場に立っているのは私だけで、ウィリアムは刀を握ったまま大の字になって倒れている。自分がどうやってこの剣聖を生かしたまま倒したか覚えていない。右手に折れた刀、左手に鞘を持ち呆然と立ち尽くす私は、右頬から流れる血で我に返り、刀と鞘を投げ捨てウィリアムに駆け寄った。
見るとウィリアムの刀には刃が無かった。つまり私を袈裟斬りにしても死に至る事はなかったのだ。ただ、私が勝った時にはウィリアムの命の保証は無く、万一の時は死に直結する事を覚悟していたのだろう。
「どう。少しは生きていたいと思えたかしら」
力なく立ち上がろうとするウィリアムを制して、私は自分の膝の上にウィリアムの上半身を抱きかかえた。
「師匠、ずるいですよ。こんな方法で私を試すなんて……」
知らずに流れ出た涙が一筋頬を伝い、ウィリアムの金髪に落ちる。
「こうでもしなきゃ、姫には伝わらないと思ったからね。これで死んでも私は納得できたけど、姫はそれを覆した。人を守るために剣を振るう、そう決めたんでしょ」
声には出さず、私は泣き出さないように歯を食いしばって何度も頷いた。
「なら、それで良いの。なにも迷う事はないじゃない。姫は生きていて良いの。姫は幸せになって良いのよ」
ウィリアムの伸ばした手が優しく私の髪を撫で、微かに伝わる体温が私の心の芯をそっと包んでくれたようだった。
「師匠」
「なにかしら、姫」
髪を撫でる手を止めた剣聖の瞳を、私はじっと見つめた。
「少し、泣いても良いですか」
「あら、今日は随分素直なのね。女に泣きつかれる趣味はないけど、今日だけは特別よ。好きなだけ泣けば良いわ」
膝の上に乗せたウィリアムの上半身に顔を埋めると、涙腺から理由なく溢れてくる涙を私は止める事ができなかった。
道場には私の洩らす嗚咽の声だけが響いていた。
アンジェリナがウィリアムを倒した方法は敢えて伏せてあります。
また終盤で同じようなシチュエーションになって、そこで明かされます。手を抜いてる訳ではないので、ご容赦下さい。