雷鳴 (挿話其一)
数ヶ月前。
季節外れの前線の通過により、エルドラゴには雷が鳴り響いていた。厚い雲の間から雷光が地上に向かって走ると、耳を劈くような轟音が襲い掛かる。いつ止むとも知れない雨は石畳を激しく打ち、流れ込んだ水は川の水位を上昇させ濁流へと変貌させていった。
城壁から数キロ離れた邸宅の四メートル四方程の小さな部屋の中、跪くアンジェリナの前に一人の男が立っている。自分より頭一つ分背の高いその男に、いつもの気さくさは無く、アンジェリナの顔を見ずに窓に叩きつけられる雨を当ても無く眺めている。重い沈黙が部屋を支配していた。雨粒が屋根を叩き続ける音だけが虚しく部屋に響いている。
二人が居る部屋の中はおろか、この邸宅の敷地内に他人の姿は一切なく、いつも部屋で回転を続け、情報を収集しているオベリスクストーンも今は機能を停止し、ただの石の塊となっていた。この会話を誰にも聞かれてはならないと言う暗黙の了解は二人が言葉を交わす前から成り立っていた。
「済まない、アンジェリナ殿。方便とは言え、功績あるお主を追放しなくてはならぬ事になってしまった」
ゆっくりと語り始めた男の手に常に抱えられている氷菓子はなく、両の拳は滲み出る口惜しさによって固く握られていた。
「いえ、情報が漏れたのは、我等の責任でもあります。どうかお気遣いなさいませんよう」
方膝をつくアンジェリナは深く頭を垂れた。ドラゴニアの件が解決してから、国政は一変している。軍部と議会の腐敗により元老院が勢力を増し、女王フィーナを蔑ろにした政が平然と罷り通っている。六人からなる元老院は先日七人構成となり、内政、外交、財務、土木、環境、教育、軍事と国の政治の柱のほぼ全てに介入し、その権力を欲しいままにしている。
「ここで国直属の我々が直接調査に乗り出せば、いらぬ混乱を招き、フィーナ様に嫌疑を掛ける機会を奴等に与えてしまう。魔王スルトの軍勢と言う倒すべき相手が事実上滅んで五年。国の内外には戦争をしなければ困る人間が掃いて捨てるほど存在する。そのような輩を喜ばせるような事態を招く事は避けなければならぬのだ」
苦虫を噛み潰したような口調からアンジェリナは相手の心境を容易に読み取る事が出来た。
「心中、お察し致します。微力ながら使命を全うできるよう尽力させて頂きます」
極めて冷静にそれだけ口にすると、アンジェリナは部屋の主の次の言葉を待った。
「そう言ってくれると助かる。後日こちらからも数名の援助は出す。しかし機関の人選は基本的にアンジェリナ殿が現地で行って欲しい。我々が派手に動くと奴等に感づかれる危険性がある。いずれ共に闘う事もあるだろうが、それまで生き延びてくれ」
「御意のままに。マスター」
アンジェリナの言葉は短い。長く話せば話す程、この場を離れる事が困難になると思われたからだ。大戦が終結してから今日まで所属していたギルドである。未練が無いと言えば嘘になる。その帰る場所をこのような形で去るのはあまりにも惜しい。
しかし、今は一個人の感情を優先させるべき時ではない事はアンジェリナにもよく判っていた。
「全てはエルドラゴの平和の為に」
遣り場の無い感情と揺ぎ無い大儀を心の天秤に掛け、結果が出るまでに数秒の時間が必要であったが、再び顔を上げて退出するアンジェリナに、もう迷いは無かった。
扉を閉め退出するアンジェリナを見送る事もなく、男は息を大きく吐き出すと眼を閉じて呟いた。
「エルドラゴの平和の為に……か」
雨は変わらず激しく屋根を叩き、一瞬の稲光が窓ガラスの中の自分の姿を虚しく映し出していた。