化身
五郎丸の視界に飛び込んできた流線型の物体は航空力学を無視した形状で宙に浮いていた。そして船体には大きく「82」の数字が刻まれている。言わずもがな、ブリギッドの武器商人、「82マート」の店主が保有する飛空挺である。主操縦士である花ちゃんことホムンクルスのシーマが店を出てから、この飛空挺は店に住む看板猫の「くろたん」が操っている。操縦席には無数の管を繋がれたくろたんが鎮座し、船長席には恰幅の良い金髪の大男が腰を下ろしている。
「くろたん。下部ハッチオープン。続いて遠隔操作装置、名付けてリモートコントローラーαを五郎丸に向けて投下」
店主の言葉に一声鳴いて応えるとくろたんの眼が怪しく輝き、それに呼応するかのように、計器が演算を始めた。
「カウント省略。投下っ」
店主の命令に「にゃっ」と短く応えると、くろたんは右手の肉球でハッチを空ける釦を押した。ハッチ解放に伴う機体内部の減圧により、船体が大きく揺れたが墜落することはない。この飛空挺の動力は飛行石だ。嫌でも宙に浮き続ける。機体が軋む音をたてながら再びハッチを閉じる前に、人間の両手に納まる程の黒い装置が投下された。寸分の違いなく、装置は上空を見上げる五郎丸に向かってくる。
「あの男、なんのつもりだ……」
夏の陽光を反射させながら飛来する物体を訝りながら五郎丸は手を伸ばして捕まえる。幾つかの釦が付けられた装置には「トリセツ」と書かれた冊子が紐で括られていた。
取り合えず紐を解いて冊子に眼を通した五郎丸は次の瞬間、我が目を疑った。
「術士を守る事を最優先。前線は後退の準備を。城門限界まで退くぞ」
リキュールは声を涸らして叫んだ。カイラスの攻撃により城門の一部が崩され、術士が効率よくデイモスの魔力砲を偏向できなくなってしまった。術士が目視できる範囲まで後退しなければ、地上にいる冒険者は須らく魔力砲によって蒸発させられてしまう。
「ですが後方にはカイラス卿のイルルヤンカシュが居ます。危険です」
傍に控える兵士にリキュールは酒臭い息を吹きかけて怒鳴り返した。
「あんな奴に卿なんぞ付ける必要はない。それに、カイラスの相手をしているのはシーマだ。否、シーマの姿をしたアンジェリナ殿の仲間だ。負ける筈が無い。後方は黒い龍が守ってくれる。安心して後退しろ」
リキュールの命令で冒険者は少しずつ城門に向かって下がっていく。若干の混乱は見られるがまだ前線が崩壊せずに部隊として持ち堪えていることにリキュールは少なからず感心した。出来合いの戦力にしては充分すぎる働きだ。
「魔力砲、来ます」
伝令の声に肝を冷やしたリキュールは射出された魔力砲の方角を見て唖然とした。デイモスは自軍の方向、つまり後方に向かって魔力砲を放出している。魔物たちが為す術なく蒸発していく様を見て、リキュールは我に返った。
「何が起こっている。偵察隊を出して報告しろ。前線の後退は中止。直ちに浮き足立った魔物どもに鉄槌を下せ」
判断の遅れは致命傷になる。正確な事態の把握は出来ないが、今のデイモスの攻撃で戦況は変わりつつある。混乱に乗じて攻め込むのは戦いの常道だ。
「シーマは死んだ。なのに何故目の前にファフニールが居る。あのシーマの姿をした人形は何者だ」
カイラスは自問したが応える者が居るわけも無い。堂々巡りの思考はやがて停止し、自分の都合の良いように解釈しよう考えを転換させた。
「そうか、お前もあの女王と国に復讐したいのだな。だから生き返った。ならば俺の味方だ。どうだ一緒に新しい国を創らないか。お前とて、妹を殺された恨みを晴らしたいであろう」
「息絶えた私の骸を兵の慰み物にした男が言う言葉か」
シーマの剣がカイラスに迫る。完全に受け止めきれずにカイラスは後方によろめき尻餅をついた。地響きと共に土煙が巻き起こりカイラスの視界を遮る。人間に対してはカイラスの龍の力は絶対だ。だが相手が同じ龍の守護者であった場合は違う。カイラスの龍イルルヤンカシュは飛翔と戦闘の双方に力が発揮される。対してシーマのファフニールは戦闘に特化している。その戦闘力の差は歴然である。どう足掻こうと勝てる見込みが無い事は、カイラス自身が一番良く知っていた。
「くそっ、女が俺を馬鹿にしやがって。だから真っ先に始末したのに、どうしてこうなった。女王の言いなりの年老いたリチャード。リチャードに付いていくだけのアイリ。スルトを倒せれば後はどうでも良いマイヤー。馬鹿が付くほどのお人好しのアンジェリナ。唯一俺の邪魔をしそうなお前を始末したはずだったのに」
カイラスは歯軋りしたが目の前の危機から脱した訳ではない。発狂寸前の表情でさらに思案する。だがその思考は強制的に中断され、全身に骨と肉が引き裂かれるような痛みが走った。口から迸った鮮血が己の衣服を紅く染めていく。
「ふん、私が手を下すまでもないか。私とリチャードはその痛みに耐えた。腰抜けのお前には、到底堪えられない痛みであろう」
竜の力は使用者の生命力を供物として要求する。五年前の大戦時からのイルルヤンカシュの度重なる使用が、カイラスの体を蝕め始めたのは疑いようが無かった。
「馬鹿な。この俺が生命力を奪われているだと。そんな事はない。俺は選ばれた男だ。特別な力を授かった俺が、他の奴と同じ痛みを受けなければならない道理などない」
更に血を吐きながら絶叫したが、イルルヤンカシュからの生命力の要求は収まらない。異界から呼び出された神の化身である龍を制御下に置くには、それ相応の供物が必要になる。カイラスの褐色の肌から弾力が無くなり皺が刻まれ、また頭髪が白くなり抜け落ちていく。
「何の努力もせず、何の犠牲も払わずに、龍に選ばれたと言う運だけでこれ以上成り上がる事は不可能だ。諦めて龍の力を解除しろ。今ならまだ命は助かる」
シーマは哀れみを込めた声で囁いたが、その言葉がカイラスに届いているかは解らなかった。
「嫌だ。この力は俺のものだ。俺は選ばれた者だ。金も力も女も全部俺の思うままだ」
抜け落ちた髪を掻き集めながらカイラスは子供のように駄々を捏ねたが、現実が変わる事は無かった。龍の要求は止まらず、遂にカイラスの両手足を捥ぎ取り、異界へと引きずり込んでいく。
「そんな。俺が死ぬだと。全部俺のための世界だったはずなのに」
己の流した血の上にカイラスは倒れこんだ。思い描いていたものとは明らかに異なる自らの最期がこんなにも簡単に訪れようとしていた。
「これは夢か、俺が死ぬなんて……。こんな嫌な夢。……いや、良い夢だった」
カイラスが息絶えると、白い龍の守護者イルルヤンカシュもまた動かなくなり、城門の前に石造のように佇立した。
「お前の奴隷であった過去は哀れむのに値する。だが龍に選ばれてから培われた利己主義は断じて赦す訳にはいかない」
シーマがそう告げて手にするレイピアを閃かせると、イルルヤンカシュの首が飛び、噴き出した血が雨となって城門に降り注いだ。