花見(外伝五話)
本編に全く関係ない、完全一話読みきりです。花粉で頭がヤラれている状態で書いています。ご了承下さい。
エルドラゴには元来、「花見」と言う文化はない。春の時期に桜の花を愛でると言う風習は、開国以来交流を保っている奴の国から伝わったものだ。
そして、エルドラゴ王国内に桜が咲く場所は、旧スミュルナ公国領の水上宮殿跡地しかない。アンジェリナの調査機関と、国直轄の通称「牧場ギルド」の一行は、桜が満開に咲き誇る湖畔で、過ぎ行く春を満喫していた。国を担う冒険者と言っても、まだ若者である彼等にとって羽を伸ばす機会は不可欠である。今日は依頼や魔物の迎撃を全て別のギルドに任せて終日好きにさせようと提案したのは、国王のフィーナであった。花見には僅かな護衛を連れたフィーナも参加し、女王陛下の御前ではあったが、一行はひと時の自由を謳歌していた。
「しず心無く、花の散るらむ、か……」
盃と呼ばれる奴国製の酒を呑む小さな器に桜の花びらを浮かべながら、五郎丸は遠い祖国の詩を口ずさんだ。南寄りの暖かい風が吹き渡り、満開の桜の花びらを宙に運ぶ。淡い馨が鼻腔を刺激し、郷愁を誘った。
「俺としたことが感傷に浸るとはな。まぁ、この状態では誰も気付く者も無しか」
振り返れば宴会の場は阿鼻叫喚の坩堝と化していた。
ウルフが腹踊りを披露し、エンプレスが声を限りに童唄を熱唱し、リキュールが仲間の身の上話を聞いて号泣している。更にはホムンクルスの花ちゃんも「フローティングモード発動」と声を発すると、爆音を撒き散らして湖の水面を飛行している。五十人からなる一行で、泥酔状態になっていないのは、酒の呑めないアンジェリナと五郎丸だけであった。
ただ、アンジェリナはいつもの陰鬱な表情で水面を見つめており、近寄りがたい雰囲気を醸し出している。またぞろ暗い過去に想いを馳せているのだろうと結論付け、五郎丸は自分から接触するのは控えていた。
「真面目過ぎるんだよなぁ。人生楽しんだ者勝ちだって言うのに」
頼りにはなるが愚直すぎる仲間の横顔を一瞥すると、五郎丸は盃を煽った。下戸の五郎丸は飲み込めず、奴国産の清酒を吐き出した。喉を焼くような刺激にむせかえる。
「こぉらぁ、五郎丸。呑んでるか、呑んでるのかぁ」
胡坐をかいて座っている五郎丸の肩に手を回して体を密着させてきたのは、補佐のリンカだった。その片手にはアルコール度数が極めて高い清酒が半分ほどまで減った瓶が握られている。瓶から無くなった量は、大の男数人を軽く気絶させられるだけの分量だ。
自慢の美しい金髪は乱れ、色白の肌は酒で上気している。黒い法衣をはだけさせ、座った眼で五郎丸の顔を覗きこむ。戦場では感じた事のない恐怖を覚え、五郎丸は肌を粟立たせた。
「あ、ああ、リンカ殿。ご機嫌麗しゅう」
愛想笑いを返した五郎丸の態度が逆鱗に触れたのか、リンカの空の色をした眼がさらに危険に輝いた。
「麗しいモノか。日に日に失われていく肌の張りと戦い美しさを維持しながら、木の股から生まれたような朴念仁に、無償の愛を捧げて尽くしているあたしの気持ちをお前は考えた事があるのか」
手にした瓶の底で五郎丸の頬を突きながらリンカは詰め寄る。
「寝ても醒めても国の事を考え、エルドラゴの将来を憂い策を講じているばかりで、補佐官としてしか相手にされない三十路前の女心の機微を、お前は感じた事はあるのか」
「リンカ殿、酒乱だったのか……。いつもは酒など飲まないから全く知らなかった。取り合えず落ち着いて話をしようではないか」
頬を押さえている瓶の底をどけようとしながら五郎丸が必死に提案する。
「これが呑まずに居られるかっ。誰だ。誰が悪いと思ってるんだ」
華奢な体つきからは想像もつかない力でリンカは五郎丸の抵抗をねじ伏せ、更に瓶の底を頬にねじ込ませようとする。
「悪かった。国策にばかり明け暮れていた俺が悪かった。だから赦してくれ」
「うん、解った。赦す」
抵抗を断念した五郎丸が侘びを入れると、リンカは素直に謝罪を受け入れ、満面の笑みで五郎丸に微笑んだ。先ほどまでの粘着性の強い視線を霧散させたリンカを見て、五郎丸は呆気にとられてリンカを見つめ返した。
「本当か、赦してくれるのか」
「うん。りんかちゃんって呼んで抱きしめてくれたら赦す」
天使の様な微笑を湛えながら悪魔の様な声で囁くと、リンカは五郎丸の前に座り、大きく手を広げた。
「こやつ、俺より一枚も二枚も上手ではないか……」
完全に相手に主導権を握られている己を自嘲し、エルドラゴ王国随一の策士と謳われた日々が遠い過去の幻であったように五郎丸には感じた。冷たい汗が背中を濡らすのを自覚しながら、五郎丸は視界の隅に、国王がこちらを指差しながら腹を抱えて笑い転げているのを確認した。
「陛下の差し金であったか……。ギルドの仕事を差し置いて花見をして良いなどと、話が旨すぎるとは思っていたが」
一番信頼している部下に罵られ、一番信頼している仲間は助けに来ず、一番信頼している君主に笑い物にされると言う屈辱を甘んじて受け入れ、五郎丸は己と言う存在に疑問を持った。
「俺って、そんなに人徳がないものかなぁ」
自問に応える者は居らず、ただ優しい風が過ぎ行く春を惜しむように桜の花びらを舞わせていた。
「と、言う事が昨日あったのだが、憶えてないと申すか」
頬に丸い痣を作った五郎丸が驚いたように、声を上げた。目の前には卓に座り書物に眼を通すリンカの姿があった。
「いやデスよ。あたしが五郎丸様にそんな無礼な事をする訳ないじゃないデスか。それにあたし元々お酒はほとんど飲めませんし、五郎丸様を押さえつける事なんて出来る訳ないデスよ」
あの後気を失ったリンカは半日起きる事無く、五郎丸の邸宅に運ばれた。花見が始まったまでの記憶はあるそうだが、そこから先は全く憶えていないらしい。
「で、あたしは何を言ってたんデスか。何か五郎丸様から嫌われるような粗相をしてしまいましたか」
心配そうな様子で顔の前で指を組みながら、リンカは五郎丸を上目遣いで見つめた。
「い、いや。何もない。何も無かった。どうやら酔っていたのは俺の方だったかも知れん。リンカ殿がそんな事する訳ないからな。ははは……」
丸い痣を押さえながら乾いた笑い声を発する五郎丸を見てリンカも笑った。
「変な五郎丸様。もっと上手な嘘をつけるようにならないと、他国に侵略されちゃいますよ」
書物を置いて立ち上がって部屋を出て行くリンカの足元で何かが鈍い音を立てて倒れた。
それは昨日リンカが手にしていた清酒の入っていた瓶であった。空になり当ても無く床を回転する瓶を見て、冷たい汗が流れ落ち、五郎丸の顔から血の気が失せた。