予兆
ケイに代わりアンジェリナの部屋に入ってきた女性は、万年雪の様な白い肌をしていた。長く美しい毛先だけ巻き毛になっている黒絹のような髪と、吸い込まれそうな夜空の色をした瞳。いかにもおしとやかな奴国美人と言った、アンジェリナとはまた別の美しさを湛えた顔立ちだ。
「こんばんは。ご機嫌麗しゅう」
少女趣味の権化とも言うべき衣装の女性は、非の打ち所のない所作でアンジェリナに一礼した。この無駄のない動作は生まれついてすぐに礼節を身体に染み込まされた人間の立ち居振る舞いだとアンジェリナは常々感じていた。
「わたくしが居ない間に、ミーミル山脈で随分楽しい想いをしていらしたそうですわね」
女性の慇懃な言葉の中にに親しい者のみに投げかける皮肉が込められているのを感じ取り、アンジェリナは苦笑いした。
「ああ、和美殿。今お帰りですか」
アンジェリナは恭しく返礼した。
「こちらは別段楽しかった訳ではありませんよ。相変わらず山道は険しいですし、規制緩和された大魔法のお陰で、あちこち掘削されていつもより歩き難い状態でしたからね」
アンジェリナは、はぐらかす様に言うと卓に置いてあった珈琲を一口啜った。芳ばしい珈琲の香りと匙一杯分の砂糖が疲れた身体に染み込んで行くのが判る。
「わたくしの言いたい事はそのような事ではなくってよ。お二人で目標を討伐してしまった事を申し上げておりますの。どうしてわたくしの帰りを待ってくださらなかったのか、心外ですわ。それにわたくしの名前は和美ではなく“カズミ”ですわ。エルドラゴ風に発音して下さらないかしら」
アンジェリナの素っ気無い返事に和美と呼ばれた女性は腰に手を当てて抗議する。
「仕方ないでしょう。和美殿がブリギッドに新たな犠牲者を量産するために新調した武器を受領しに行ってる間に、オベリスクストーンにギルド運営本部から緊急出撃の書き込みがあったんですから。ケイさんに周辺市民の避難をさせてから、私一人で討伐して、血に飢えた和美殿の愉しみを奪ってしまったのは申し訳ないかったですが、私たちは相手の出現時間と場所を選べませんからね」
含み笑いをしながら随分誇張した言葉をアンジェリナは二口目の珈琲と一緒に口にした。
「人を吸血鬼のように仰らないで頂きたいですわ。確かに目標と接触出来なかったのは残念ですけど、それは相手を知る為に必要な事だからです。どうしてアンデッドと分かっている相手に炎の魔法を使わないのか。どうしていつもと違う、特殊なクォーツを持っているのか。その調査をしに来たのではなくって。わたくしたちは何も解っていないのよ」
アンジェリナの冗談を真に受けてムキになってしまうのは和美の真面目さの表れだろう。
「その件に関しては、勿論調査中です。ただ、依頼主からの情報も少ないですし、結論はおろか推論すら立てられる状態ではありません」
アンジェリナの言葉の歯切れが悪くなる。和美の言うとおり何ひとつ判っていないのだ。今回の件は結果が急がれる案件であると言うのはアンジェリナにも充分解っていた。
和美は元々アンジェリナの組織「Angel Halo」の構成員ではない。以前に所属していたギルドの仲間であり、ギルド長の五郎丸から同行させて欲しいとの打診を受け、今はアンジェリナの指揮下に入っている。歳はアンジェリナと同じ二十四歳。様々な武器を使いこなす腕は確かだが、生来のお姫様っぷりを遺憾なく発揮して、自分の住む邸宅で召抱えている使用人との間でいざこざが耐えないと言う噂をアンジェリナは耳にしていた。和美ではなくカズミと呼ばせたいのは、恐らく奴の国風に呼ばれるのを快く思っていないからだ。アンジェリナは詳しく詮索していないが、奴国は今、旧政府軍と新政府軍との間で衝突が絶えない状態だと聞く。その政府要人の中に、彼女の名前に近い人物が居た事をアンジェリナは朧気に覚えている。何故、そのようなやんごとなき人物がエルドラゴに居り、尚且つアンジェリナと行動を共にしているのかは、また氷菓子が好きなあの大男の思惑が絡んでいるのは疑いようの無い所であるが、貴重な戦力であることに変わりはないので、アンジェリナはそれ以上の事を考えないようにしていた。
「千客万来だな」
部屋の奥から幼い女性の声がした。二人が声のした方に眼を向けると、ラビニー程の大きさの白地に黒の斑点模様の毛皮が特徴的な熊のような動物が、自身の背丈ほどのゴム鞠と戯れている姿があった。
「何ですの、この熊は。いったいどうやって部屋に入り込んだんですの」
思いもかけない珍客に和美が声をあげる。
「いや、窓が開いておったのでな。二人が漫才をしている間にあがらせてもらったわ。それにわしを熊と呼ばんでくれるか。わしはパンダじゃ。あんな獰猛な肉食獣と一緒にされたら、ご先祖様に申し訳が立たんのでな」
パンダとは奴の国の西にある大国、祁の国の山間部に極少数のみ生存が確認されている稀少生物で、一日のほとんどを眠って過ごし、鋭い爪と牙を持つにも関わらず、主食は笹と呼ばれる木の葉であると言う珍しい生き物のことだ。
「熊もパンダも先祖は一緒なんじゃ……」
アンジェリナが聞こえるように呟くと、鞠と戯れていたパンダの動きが止まった。どうやら図星を突かれたらしい。
「何と言う屈辱」
こみ上げてくる怒りに声を震わせながら、何と言って言い返してやろうかと思案していると、事態は一変した。
「アンジェリナ殿。オベリスクストーンに緊急入電。見かけない集団が宿場に向かっているとの事。近隣の冒険者は直ちに迎撃に迎えとの国からの依頼です」
部屋に駆け込んで来たケイが血相を変えて報告する。
「……本当、千客万来だな」
アンジェリナは苦笑いすると、一つ頭を振って立ち上がった。先程に続き魔物と思しきアンノウンの襲来。偶然にしては出来すぎていると感じたが、口に出したのは別の言葉だった。
「すぐに向かう。ケイさんは住民の避難誘導を。和美殿は先行しているグングニルとナオの二人を呼び戻してください。私が宿場の入り口で相手を引き付けておきます」
「了解」
アンジェリナの指示にケイと和美が即答する。
新たな戦いの歯車は、こうして少ずつお互いの運命を手繰り寄せながら回り始めていた。