砂塵
人間の頭蓋骨を丸呑みできるような大きく開かれた口から、無数の牙が相手を捕食しようと迫ってくる。掲げたハンマーの柄で牙を食いとめた和美は大きく舌打ちした。アンデッド特有の肉の腐乱した異臭が鼻を刺す。
「ち、こう大きくては……」
国土の東部に広がるアグニ砂漠の真ん中、とうに日は西に傾いている。アンジェリナたち一行はオアシスに向かう最中で五メートルを超える巨大なアンデッドのワームと対峙していた。照りつける日光と足元の熱砂は、冒険者の体力を容赦なく奪っていく。既に数時間に及ぶ戦闘はどちらかが動かなくなるまで続くと思われた。
「ケイ殿、奴の注意を逸らして」
口の中に舞い込んだ砂を吐き出して和美が叫ぶ。自慢の肌理細かい肌と黒絹のような長い髪も砂で汚れていた。それでもハンマーを手にするその表情は、どこか生き生きしているように見える。
和美の声に呼応して、ケイが光の魔術を宿した矢を放つ。六つある複眼のうち左の一つに矢は命中し、体液を飛散させながら叫び声を上げたワームの敵意がケイに注がれる。ケイは次の矢を番える事無く、可能な限りワームの視界から逃れるように回り込みながら遠ざかっていく。
「上出来ですわ」
牙の恐怖から逃れた和美は一回転して体勢を立て直す。ナオの練成した癒しの魔法が発動し、和美の体力の回復を促進する。血液に含まれる酸素が体に行き渡るのを和美は感じた。「まだ行ける」そう確信すると、大きく息を吐き出し、肺の中の空気を入れ替える。
「グングニル。頭部と尻尾に同時攻撃をかけますわ。後ろに回り込んで。ユミさんは氷の魔法で直上から威嚇をお願いしますわ」
叫ぶと同時に砂塵を撒き散らしながらハンマーを振り回して和美は突進した。知能の低い大型の魔物と戦うときは、一人が防御に徹して注意を引き付け、残りのメンバーが攻撃を担当するか、出来るだけ相手の注意を分散させ、ヒットアンドアウェーで少しずつ体力を削る方法が採られることが多い。本来なら槍と盾が使えるアンジェリナがワームの攻撃を耐える役回りをこなせば良いのだが、アンジェリナは「足が無いもの」が極端に苦手で、巨大な蚯蚓のようなワームとまともに対峙する事が出来ない。顔を青白くさせて、暑さでのびているパンダを背負って逃げるのが精一杯の体たらくであった。脱水症状のパンダがアンジェリナの首にしがみついてうわ言を囁いているのを一瞥して和美はハンマーを持つ手に力を込めた。
「戦闘が終わったら、あの二人、何て言って罵ってやろうかしら」
歯軋りをしながら、いつもと全く別人になっているアンジェリナに一頻り呪詛の念を送って、和美はワームの横っ面をハンマーで振りぬいた。この戦闘一番の手応えを感じ、ワームの口から何本か牙が飛び散るのが見えた。毒を含むワームの体液から逃れるように飛びのくと、グングニルの剣が深々とワームの尻尾に刺さっているのが見えた。
「駄目、剣を抜くのは諦めて。離れないと危ないですわ」
和美の忠告は一瞬だけ遅く、剣を握ったままのグングニルは尻尾に振り回され、大きく宙を舞って砂漠に落ちた。受身を取ったので大事には至っていないが、回復を待つ必要はある。ワームは尚も健在で雄叫びを上げて和美のほうに向かってくる。
気付けば、ユミからの援護も無い。振り向くと体力と魔力を使い果たして片膝を付いているユミの姿が視界に入った。
「これはいよいよ、”カズミさん大立ち回りの巻”ってところかしらね」
減らず口を叩いて己を鼓舞すると、手にするハンマーに冷気の魔力を宿す。アンジェリナほどではないが、和美にも魔力の心得はある。マナの力を宿した属性攻撃を繰り出す事は可能だ。ただ、連発は出来ない。虎の子の一撃は最後に残しておいたのだ。
「ケイ殿、ナオ。勝負を掛けるわ。出来るだけあいつの注意を尻尾に集中させて」
魔力の注入を終えた和美は向かってくるワームから視線を逸らさず叫んだ。握り締めた黒曜石のハンマーが和美の魔力に応え、妖しい光を明滅させる。属性攻撃が放てる機会は一度きり。しくじれば一転、パーティー崩壊の可能性もある。
「了解」
「了解です」
後方でケイとナオの声が聞こえた。リーダーが使い物にならなくても部下は実直に戦ってくれる。「これが仲間同士の信頼と言うものかしらね」と心の中で和美は嘯いた。
ナオの風の魔法が砂を巻き上げ和美の姿を隠す。ケイが放った火矢がワームの尻尾に刺さり、グングニルの剣に付けられた傷から流れ出た体液に引火して煙を上げる。ワームは前進を止め、火を消そうと尻尾を砂に叩きつける動作を繰り返し始めた。
「好機到来ですわ。往生なさい」
既に死んでいるアンデッドに向かって「往生」も無いのだが、その事を指摘する人間はこの場には居なかった。和美はハンマーを構えて跳躍し、ワームの真上を取った。ただ一点、ワームの頭蓋を狙って高く振りかぶった魔力の込められたハンマーが砂漠の日光を反射させ一際妖しい光を放つ。
黒髪の美女が破壊衝動に駆られた薄い笑みを浮かべて巨大なワームに上空からハンマーを打ち下ろす光景は超現実であり、生涯忘れる事はない。と、アンジェリナはその日の報告書に綴っていた。
振り下ろされたハンマーから放出された氷の魔力は狙い通りワームの頭蓋を打ち砕き、頭部を氷が覆っていく。勝利を確信した和美は頭蓋を砕く手応えの余韻に浸っていたが、長くは続かなかった。
「まだ生きてるですって」
頭蓋を粉砕されても、覆われていた氷を破り、アンデッドと化したワームは尚も和美を喰らおうとする。開け放たれたワームの口の中に闇の深淵を覗いた和美は全身の肌を粟立たせた。渾身の一撃によって、和美の魔力は打ち止めになっている。この状態から抜け出す策はなく、ワームに丸呑みされる自分の姿を想像し固く眼を瞑った。
その刹那。
和美の耳元を無数の空気の塊が擦過し、振動が耳朶を打った。
恐る恐る瞼を開いた和美は数えられない程の穴を空けられたワームの姿を眼下に捉えた。ワームの体に穿たれた穴からは、体液が蒸発する緑色の煙と異臭が立ち込めている。
「そんな。どこから」
声を上げた和美は自分の直上の空から逆光の中、まるで祁の国の神話に出てくる太陽の遣いの様な漆黒の鎧を身に纏った美女が、金髪を靡かせながら舞い降りて来るのを見た。