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上空

「それは良いことを聞いた。是非ワシも一枚咬ませてくれぬか」

 沈黙が支配していた部屋に、突然声がした。立ち上がった和美が辺りを見回し、卓の下を覗き込む。そこには卓の天板の裏側に先程のパンダが鉤爪をめり込ませて張り付いていた。

「あなた。盗み聞きとは行儀が悪いわね。先程の侵入と言い、素行が宜しくないご様子。わたくしが人の礼儀の何たるかを教えて差し上げましょうか」

 立て掛けてあったハンマーを構えてパンダに視線を送る和美の声は殺気を孕んでいた。

「ま、待て。ここでそんな物騒な物を振り回したら床が抜けてしまうぞ。それにお主等とてワシの守護者としての力が必要になるとは思わんか」

 どうにか相手を交渉の場に着かせようとパンダは必死に提案する。

「そんな事を言って有利に事を進めようと思ってらっしゃるのかも知れませんが、あなた本当はそこから離れられなくなったのではございませんか。両手の爪が深々と食い込んでますものねぇ」

 目を細くした和美の口角が怪しく吊り上る。血を求めて手にするハンマーが魔力を漂わせるのが感知できるほどの殺気だった。

「おい。この嗜虐性の高い女をどうにかしてくれ。そこの女剣士が長なのであろう。お主はどうなのだ。竜の守護者を仲間に出来る機会など、そうあるものではないぞ」

 提案と言うより懇願に近い声でパンダが半笑いでアンジェリナを見つめる。

「珍しい生き物の剥製を集めている商人が知り合いに居ます。パンダは希少種。さぞ良い値が付くでしょう。我が調査機関も潤います」

 卓の下を覗き込みながら生真面目な表情で言い放つアンジェリナの声に、パンダの毛皮は見る見る汗で湿っていく。

「そんな真剣な顔で冗談を言うな」

「冗談と取って頂くなくて結構です」

「頼む」

 遂にパンダは主導権を取ることを諦めたようだ。

「さて、この事を知られてしまった以上、勝手に何処かに行ってしまっては困ります。一生口を噤んで生きるか、我々に同行するか、ここで剥製になるか。選んで頂きたい」

「し、仕方ない。ワシの偉大なる力。特別にお主たちに貸してやろうではないか」

 引きつった笑顔でパンダはアンジェリナを見返した。まだ恩を売ろうとしているようである。

「ほう。ここで剥製になる事を御所望か。それも一興……」

 アンジェリナはゆっくりと腰の刀を鞘から抜こうとする。

「待て。短気を起こすでない。ほんの冗談じゃ。この国の為、ワシの力存分に遣ってくれ」

 交渉は一方的勝利でアンジェリナに軍配が上がった。

「わかりました。守護者の力は己を滅ぼす事もありますから無闇に使う事を禁じます。それだけは守って頂きたい」

 立ち上がってそう告げたアンジェリナの横顔は、自分が経験した過去の記憶を反芻しているようだった。



 アンジェリナたち一行は明日の出立の為の準備を始めた。五人の同行者は其々部屋が割り当てられたが、突然の来訪者であるパンダには部屋はなく、アンジェリナの部屋の隅で自分の背丈ほどあるゴム鞠と戯れている。

「しかし、お主も平穏な生活から無縁な人生を送っておるようじゃな。あの守護者一行との旅の後は、各地で人知れず国の憂いを排除して回る生活か。運命の女神は、斯くも厳しい人生をお主に与え賜うたようじゃな」

 見た目の愛らしさからは想像もつかない年老いた老人のような口調でパンダが呟く。

「守護者と関わった時点で平穏な生活とは無縁な人生になる覚悟は出来ていました」

 湯浴みを終え、鏡に向かい亜麻色の水分を含んだ髪に櫛を通しながらアンジェリナは答える。

「守護者の力を持つあなたなら、それをお判りの筈だ」

 鏡に映る人間の半分ほどしかない体長の竜の守護者にアンジェリナは目を向けた。

「ふん、知ったような口を利く。三十年も生きておらん小娘が」

 鞠に抱きついたまま転がり続けるパンダの姿と、その口から発せられる言葉の統一感の無さにアンジェリナの顔がほころぶ。


 突然、部屋の窓ガラスが音を立てて大気の振動を伝えた。宿場は山脈の頂上付近、標高二千五百メートルの地点にある。絶えず風は吹いており、急な突風や天候の変化は珍しい事ではない。

「おい」

 パンダに声を掛けられるより早く、アンジェリナは窓に駆け寄っていた。これは気圧の変化が齎す自然の風ではない。巨大な扇で空の大気をかき混ぜるように一定の間隔で刻まれる律動はーー。

「ワイバーン……」

 空を見上げてアンジェリナは絶句した。こんな人間の居住区に野生のワイバーンがやってくる道理はない。しかも黒い鱗を持つ希少種とされる最も凶暴なレリクスと呼ばれる種だ。

 ワイバーンとは翼の生えた竜と思われがちだが、実際はリザードの突然変異体で、爬虫類と鳥類の中間に分類される。ドラゴンは全くの別種であり、腕と翼が一体になっているものがワイバーン。翼が独立して背中に生えているのがドラゴンと見分ける事が出来る。今アンジェリナが見上げているワイバーンは、鉤爪の付いた前足に細い骨格の自重を支えられるだけの揚力を生み出す翼を持っている。十メートルを越す体長の半分程の長さの尻尾は、上空での姿勢制御の役割を果たすだけでなく、その一撃は人間の練成した重鎧を紙切れのように切り裂く。

 守護者としての役割を担う竜とは異なり、凶暴で残忍な気性で知られている。


 部屋に置かれている軽装の鎧を身に付け、アンジェリナは愛刀「長曽禰虎徹」(ながそねこてつ)を手に取る。狙いは間違いなくこのクォーツ。凶暴な魔物を呼び寄せてしまった我が身を呪い、部屋を飛び出した。

「待て、闇夜に黒いワイバーンだ。とてもお主の剣の腕だけでは打開できる状態ではないぞ」

 パンダが冷静に置かれている状況の困難さを伝える。

「もう宿場が戦場になる事は避けられない。でも守護者になる事は禁止します。守護者の力をこんな所で解放させたら、犠牲者は増える一方だ」

 アンジェリナは振り向かずに階段を駆け下りていく。

「馬鹿な真似は止さぬか。ワシに任せれば、ワイバーンはどうにかしてやる」

「人の手で止めてみせます。この町の人も死なせはしない。守護者の力を解放し、あなたの命を縮めたりもしない」

 パンダの視界には既にアンジェリナの姿はなく、声だけが残された。

「お人好しが」

 吐き捨てた自分の声に愛着が微量に込められているのを感じ取ったパンダは、苦笑いをしてアンジェリナが開け放った扉から駆け足で出て行った。

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