在る物は在る。無い物は無い。だけど、必要と願うものは無くても在るんだよ。
―――在る物は在る。
―――無い物は無い。
―――だけど………。
―――必要と願うものは。
―――無くても在るんだよ。
‡‡‡
ピンポーン……。
それは蝉の鳴き声がする、とても暑い夏の昼下がりだった。
昼寝をしていた僕は、前触れも無く鳴らされたその呼び鈴に。
無理矢理、現実へと引きずり戻された。
ピンポーン……。
「んー……。誰だ?」
二度めの呼び鈴が鳴らされ、僕は渋々玄関に向う。
怪訝な表情を浮かべ開けた玄関の前には、悲しげな表情を浮かべながら佇む、一人の女性がいた。
その女性を見た僕は――
――この世には不思議なことが在るんだと知る。
それはその女性が、少し前に別れた筈の、彼女だったから……。
彼女の顔色は青白く見え、とても悪く、唇もまた紫色に染まっている。
そして彼女が着ているワンピースは、泥がベッタリと付着していた。
その白いことを拒絶したワンピースは、僕がプレゼントしたもの。
そして、彼女と別れた時、最後に着ていたワンピースでもあった。
久しい彼女の訪問だというのに、その姿を見た僕は、腰が抜けたようにその場に座り込む。
座り込んだ僕の頬は、微かに引き攣り、身体を支えている手も、小刻みに震えている。
「どっどうしたんだ?……そっそんな格好で……」
「………」
彼女は僕の問い掛けに、何も答えてはくれない。
それもその筈、僕は彼女にとても酷いことをしたのだから。
彼女はただ何も言わず――じっと、僕を見つめ続けてていた。
その瞳に見つめられ、僕は彼女の前にいることが、いたたまれなくなる。
否、いたたまれないのは、見つめられているからではない。
そのことを認めたくなかったからだろう。彼女が僕の前にいることを……。
―――なぜなら。
―――彼女はもう。
―――この世にはいないのだから。
‡‡‡
もう終わりだな、俺達別れようぜ……。
彼女に最後に言った言葉、今はその言葉をとても後悔している。
些細な口喧嘩、僕は思わずそう言ってしまった。
もちろんそれは本心ではない。
それでもその言葉は、彼女にとってはショックだったのだろう。
まだ真っ白なワンピースをなびかせ、泣きながら僕の家を飛び出していった。
その三日後、彼女の友達から突然電話がくる。
それは彼女の訃報を知らせるものだった。
その知らせを受け、僕は病院に向かい。その霊安室で彼女と再会した……。
その霊安室の中が、夏だというのに、とても涼しかったことを覚えている。
机の上には話すことも、笑うことも、怒ることも……何も出来ない彼女が寝かされていた。
彼女がワンピースをなびかせ、泣きながら僕の家を飛び出していったあの日。
その帰り道、通り魔に襲われ、首を絞められ殺されたのだと……。
彼女は草むらに無造作に隠されていたのだと……。
その通り魔が、今も捕まっていないのだと……。
警察の人に聞かされた。
―――今はもう……。
―――彼女と別れた些細な理由すら……。
―――思い出すことが、出来なかった。
‡‡‡
眠る彼女の隣には、泣きじゃくる彼女の母が、何度も彼女の名前を呼んでいる。
そんな彼女の母を見て、僕は彼女の死に顔を見ることをためらう。
僕には、彼女の死に顔を見る資格なんて無いのだ。
僕に責任があるのだから。
「さっ……見てやって」
僕の責任なのに、彼女の父は頷き、僕の背中を押してくれた。
僕はもう何も答えてはくれない、彼女の顔を見る。
その顔はとても穏やかで、口元には微かに笑みさえ浮かんでいる。
とても通り魔に殺されたようには思えない。
それでも彼女の首筋には、しかっかりと絞められた跡が見えた。
僕は人差し指で、その跡を優しくなぞる。
「死んでるように見えないだろ?……今にも起き上がりそうだろ?……でも死んでるんだよ……」
彼女の父は、そう言うと、口を抑えて涙を零した。
少し前まで付き合っていた彼女の亡きがら、それでもぼくは、涙を流すことが出来なかった。
それは、彼女が彼女で在って、もう彼女では無いことを、知っているから。
魂の抜けた彼女の体は、もう動くことは無い。
身体が動か無いのなら、それは死体でしかない。
それもう彼女では無い。
―――無い物を在ると言うのは与太である。
―――在る物を無いと言うのも。また……与太でしかない。
―――在る物は在る。
―――無い物は無いのだ。
‡‡‡
僕の耳には、自分の心臓の音が聞こえていた。
それはどんどん大きく、早くなっていく。
僕の目の前には無い物………否、いない人が、立っているのだから。
自然に鼓動が早くなっても仕方ないのだ。
「俺のこと……怨んでるんだよな……」
「………」
「だから来たんだろ?」
「………」
彼女はやはり何も答えてはくれない。
「ん?……あれ?……」
僕の頬を冷たい何かが、流れてくる。
「どうしたんだ?……俺……涙……?」
僕の目から、自然と涙が溢れ出していた。
彼女の亡きがらを見ても流すことの無かった涙が、溢れ出し、止まらなくなっていた。
その涙は、僕の顔をすぐにクシャクシャにする。
彼女には見せたくない顔なのに、僕の口は勝手に動き出す。
「ごめん……ごめんな……俺のせいだよな……本当にごめん……」
自分でも何を言っているのか、よく解らない。
「ごめん……ごめん…ごめん……ごめん……」
僕は何度も彼女にあやまり続けた。
すると彼女は、何も言わずニッコリと微笑み、スーッと、姿を消してしまった。
そして僕は、彼女が現れた理由が、今。やっと分かったような気がした。
彼女の亡きがらに何を言っても、ぼくの気持ちが伝わることはない。
彼女に伝えたい気持ちが、僕の胸の中で、わだかまっていた。
彼女が僕の前に現れたのは、僕が彼女を望んだからなんだ。
僕が彼女の前で、泣きたいと願っていたから。
僕が彼女に、謝りたいと願っていたから。
僕が彼女を……必要だと願っていたから。
そして……僕は今でも、彼女が好きだと、伝えたいと願ったから。
彼女は、僕のそんな願いが作り出したんだろう。
―――彼女は……。
―――幻なんだ。
―――妄想なんだ。
―――僕自身なんだ。
‡‡‡
この街を一望できる小高い丘、春になると綺麗な花を咲かせる桜の木。
僕はその丘に座り、夕日でオレンジに染まった街の景色を眺めている。
僕は立ち上がると、桜の木の枝に縄を垂らした。
それは彼女への罪悪感などからではない。
それは僕が彼女を必要だと願っているから……。
僕の目には高揚はあれど、浮かれはない……。
その視線はただ一点を見つめている……。
視線の先には微笑む彼女の姿があった……。
「首を絞めてごめんな、苦しかったろ……」
―――在る物は在る。
―――無い物は無い。
―――だけど……。
―――必要と願うものは。
―――無くても在るんだよ。
END