翌朝
午前六時。
元也は長年の友住家での生活によって、毎朝六時に目覚まし時計もなにもなしに起きるのが習慣になっていた。しかしもう少し布団の中で丸まっていたいのが本音であり、特に凍るような冬の朝などは一日中布団から出たくないと心から思っている。
「…………ふぁ」
だがしかし、当の本人の思いに反して身体の方は勝手に布団をはね除け、起き上がるのだ。眠気の僅かに残った頭と視界で、ぼんやりとした景色を捉えながら元也は大きく伸びをした。
「……そうか。今日からは友住の家でも公園のベンチでもないん……」
三日前に来てから未だ着替えていないシャツの袖で未だぼやける目を擦りながら、彼は自分にあてがわれた部屋を眺めようとして、そこで自分の視界に部屋の景色とは全く違ったものが映り込んでいるのを発見した。
「おはようございます」
ピントの外れた視界の中を埋めていたのは顔、だった。
「は……? え、お、おはようございます?」
「ええ。おはようございます」
にっこりと、目を細くして微笑んだその顔は、女の子のもの。丸顔の、けれども決して太っているわけではない彼女は、くっきりと頬の隅にえくぼを作りながらいた。
「え? だれ? は?」
あまりに突然に現れた彼女に対し、元也の脳内では疑問符が幾つも跳ね回る。寝起きで頭が回らず、かついきなりの出来事に戸惑いながら、もしかしたら寝ぼけているだけなのかもしれない、というよく分からない結論に達し、とりあえず彼はもう一度目を擦った。
すると目の前の少女はいなくなっていた。
「ん? あれ? やっぱ見間違いなのか?」
背後も左右も確認してみたが、どこにもつい数秒前まで視界を埋めていたはずの女の子の姿は無い。おかしい、と首を傾げながらも、今の出来事でようやく覚めた頭と視界で元也は部屋を見渡す。
木のデスクと椅子一式に洋服ダンス、自分が今腰を下ろしているシングルベッドだけが置かれた簡素な部屋。中心に、昨夜寝る前に脱ぎ捨てたトレンチコートがあるくらいで、その他には全く何も無かった。
「本当に、友住の家じゃないんだな」
本棚やら勉強机やらタンスやらその他もろもろの家具が置かれていたかつての部屋と比べると余計に殺風景さが際立つ部屋であり、同時にその殺風景さが、自分が友住の家による束縛から逃れたのだという事実を伝えてくれる。
一つ息を吐いてベッドから立ち上がり、腕を大きく天井へ向けて伸ばした。ゴキゴキ、と関節が小気味よい音を立てて、元也の頭だけでなく、身体全体も覚醒させてくれる。
「それにしても、さっきの女の子は……?」
まさかここはでる家なのか、と妄想に近い推測を立てるが、すぐに自身で首を振って否定した。 そんなわけはないな、と。
とりあえずヴェロニカに朝の挨拶をしに行こう、と少し皺の付いた服を伸ばし、恐らく寝癖で凄まじいことになっているであろう髪の毛を感覚で直して部屋のドアを開けた。
まだ薄暗い廊下を挟んだ正面には、『PROF』という黒いプレートが掛けられた部屋。おそらくは昨日、ヴェロニカが言っていた、プレートの掛かっている方の部屋だろう。
と。
「あ」
「え」
元也の視界の先、正面の部屋の扉がゆっくりと開き、部屋の主がゆっくりとした足取りで廊下へと出てきた。
丸みを帯びた、元也よりも二十センチ近く低い身体。二本足で自立しているその主は、片手に枕、片手にスマートフォンらしき薄型の機械を持って立っている。頭の脇に垂れ下がった両耳、正面に空いた鼻の穴。そして、極めつけは薄ピンクの体毛。
紛う事なきブタ、であった。
「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
数秒の間があった後、先に相手の正体をはっきりと知覚した元也がまず叫んだ。そして僅かに遅れを取るように、こちらの大声に驚いた様子でブタの方も叫び声をあげた。
咄嗟に元也は部屋へ引き返し、扉を閉める。
扉に背で寄りかかり、同時発生した戸惑いと興奮と衝撃を落ち着けようと、深く何度か深呼吸をする。大きく息を吸い、ゆっくりと肺の中の空気を外へと吐き出した。掻いてない額の汗を拭うようにして手の甲を当て、目を瞑って一つ呟く。
「……二足歩行の、……ブタぁ?」
確かに二足で自立していた。どこからどう見てもブタであったのに、たった今元也の目の前に現れたものは片手に枕、片手にタブレット端末を持ち、人間と何ら変わらない姿で存在していたのだ。犬やネコが二足歩行で歩く姿は時々見ることがある。勿論芸の一種なのだろうが、しっかりと二足で立ち、歩行している。だから、二足でブタが歩いていたという事実もまだ否定は出来ない。しかしネコや犬と決定的に違うのは、人間で言う手、つまり前足の部分に、人間が使うはずの日用品を所持していたという点だ。こればかりは何がどうなっているのか、元也には見当が付かなかった。
「ブタ……ブタ?……ぶた……」
呟きを繰り返しながら閉じていた目をゆっくりと開ける。
と。
つるつるの額、鼻の下にある目、なぜか一番上に口がある不気味な顔が眼前の宙に浮いていた。化け物かと思いきや、ただ逆さまに天井からぶら下がっているだけである。
「ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
それでも叫ばずにはいられない。
「どうしました?」
対する顔の方は笑みを浮かべ、何事も無いようにこちらを案ずる言葉を作った。
「だ……だれ……デスか?」
震えながら、喉の奥に引っかかりを覚える唾を飲み込みながら、ようやく発した言葉は極々単純なものである。
「私ですか? 私は、細丸奈子といいます」
逆さまになった顔を反転し、つまり空中で転回して声の主は部屋の床へと音もなく着地した。
「あなたが友住元也くんですね。同じ特三配送同士、よろしくお願いしますね」
目の上で綺麗に切りそろえられた前髪、肩の辺りまで伸びた後ろ髪は濃い黒で、何もかもを吸い込んでしまいそうな妙な魅力がある。太っているわけではないがボールのように丸い輪郭に、収まった瞳も同じように大きく丸い。笑みとともに浮かび上がるえくぼが印象的な、かわいらしい少女だった。
「あ、よろしくお願いします」
屈託のない笑みに何の疑いも無く言葉を返す。身長は百六〇センチ程度だろうか。自分よりも少し小さい彼女を半ば見下ろすようにしながら、元也はふと浮かんだ疑問の内容を発した。
「さっき、僕の目の前にいました?」
「いましたよ」
「僕の寝起きですよ?」
「ええ。いました」
「……やっぱり。ちょっとビックリしましたよ」
「そうですか? それはよかったです」
何がよかったのかは分からないが、奈子が笑みを見せたのでこちらも合わせて笑みを返す。見たところ目の前の少女は同い年くらいのようで、昨夜ヴェロニカの言っていた同年代の女の子ならばできるだけ早く打ち解けようと、元也は会話を広げる努力をしてみた。
「さっきの、天井にぶら下がるの凄いですね。ひょっとして忍者だったりするんですか?」
「忍者?」
「ええ。伊賀者甲賀者の忍者です」
「伊賀でも甲賀でもないですが、そうですよ」
ちょっとした社交的ジョークのつもりだったのだが、全く嘘偽りのなさそうな笑みで奈子は首を縦に振った。こちらにその笑みへ対しての笑顔を返す余裕はなく、ただただどう次の言葉を繋げばいいのか迷っていた時だ。
寄りかかっていた部屋のドアがいきなり後ろへと引かれた。
「へぁっ?」
支えを失った元也の背中が、重力に従い倒れていく。咄嗟の反応で後ろへ受け身を取り、転倒の衝撃を無に返して、床の上で彼は仰向けになった。
「あっぶねえなあ!」
「あ? ああ、悪いな。まさか人が寄りかかっているとは思わなかった」
フローリングの廊下に寝たまま、天井を見上げていた元也の視界に入ったのは先ほどのブタ。
「ブタぁっ!」
「なんだ。文句あるのかお前。ぶっ叩くぞ」
「…………」
鋭い目つきを向けながら、当たり前のように日本語を返してきたブタにこちらは思わず口を閉じてしまう。
「奈子ちゃん。コイツが特三の新人?」
「そうです。友住元也くんですよ」
「なるほどな。よろしく元也くんよ」
そう言ってブタは仰向けのこちらへ向けて手を、正確には前足を伸ばしてきた。
「あ、ああよろしく……おねがいします」
「敬語なんか使うな。堅苦しくてかなわない。普通にタメ口で話してくれよ」
「え、ああ」
「あ、私にも敬語は使わないで下さいね」
「あはい。わかりま………った」
ブタの前足を取って元也は立ち上がると、乱れた服を少しだけ整える。
「さ、朝食の時間だ。元也くん、それ一昨日からずっと着てるだろ?」
「え? ああ、着てる」
なぜ、という疑問がまず頭に浮かぶ。なぜこのブタは一昨日から自分が同じ服を着ているということを知っているのだろうか、 と。
「部屋の中にちっちゃいタンスがあるだろ? あの中に入っている服は勝手に使っていいから、それに着替えてきな」
部屋の中、入口から見て左隅に置かれているタンスを指差してブタは言った。
「では、私たちは先に下のリビングに行っています。着替え終わったら元也くんも来て下さいね」
そう告げて、奈子とブタは部屋を去っていく。二人で何事かを話し合いながら一階へと下りていく背中を見送り、元也は再び部屋の中へと入った。
必要最低限の洋服しか入っていないのか、タンスは三段程度の非常に小さなものだった。その中から適当にシャツとジーパンを取りだして、着る。とりあえずは身に付けられればよかった。
脱いだ洋服は、さすがに二日間着続けていたせいか鼻を刺激する嫌な臭いが漂う。しかしそうはいっても洗濯できるような場所はこの部屋にないので、仕方なく丸めてタンスの側に置いておいた。あとでヴェロニカにでも洗濯機の場所を教えてもらえばいいだろう。
恐らくおろしたての、糊の利いた服を着て、元也は一階へと向かう。
階段を下りると、既にリビングには特別配送課の面々が集まっているのか、賑やかな話し声が耳に入った。主にそれはあのブタの声であり、時たまそれに混じってヴェロニカの声も聞こえてくる。
楽しそうだな、と思いつつ、早く仲間に溶け込もうと元也が決意を固めたところで、
「ごふぅっ!」
突然彼の身体は地面から離れた。横からの垂直の衝撃を受け、横向きに身体をくの字に曲げながら、地面と平行に一階の廊下を突き進む。
宙を高速スピンで突き進み、一メートル近く飛んでしたたか床にたたきつけられた後、
「あっ! 今なんかいたぁっ! けどいいやっ! いってきまあああああああああすッ!!」
高い声が響き、激しい物音が数度してドアの閉まるような音がして、また一階の廊下は静かになった。正確にはリビングの方から話し声が聞こえてくるのだが、今の嵐と形容してもおかしくない何かが過ぎ去った後は、その話し声が音と認識できないほどだ。
壁に打ちつけた後頭部をさすりながら、元也は少しふらつきながら立ち上がる。自分の身に何が起こったのか、全く持って理解できない。かろうじて分かるのはこの身に受けたダメージのみ。
「いってぇなぁ…………」
声が聞こえたのと、その声が高い女声だったことから、恐らく衝撃源は女の子、あるいは女性。文句の一つでも言ってやろうかと思ったが、その主がどこにも見当たらないので元也は断念した。
「……おい」
今度は頭上からの声。
現在元也がいるのは一階の廊下、それも付近に棚や踏み台の類はない。これでも元也の身長は百七十センチ後半はあるから、頭上から言葉を掛けられることは滅多にないことだった。
「……はい?」
少し遅れて声の先を見上げる。傾けた首が、思わず痛くなる角度。彼と声の主との身長差は二十センチ近くはあるだろう。
「いつまでもそんなところでボサッとしているな。朝食の時間だ。早くリビングへ行け」
ドスの利いた、静かな声。声が空気中の何もかもを死滅させてしまうような、そんな迫力がある。そして声が発されるその身体 も、相応のものだった。
二メートル近くはあるような巨体。冬だというのに、黒いタンクトップに薄手の迷彩ズボン。タンクトップが覆いきれていない腕や胸元には、まるで鋼のような筋肉が目に見える形で浮き上がっている。そして顔。眉は太く鋭く、顔の中央に向けて傾いている。覗く二つの三白眼に、絶壁のようにそそり立つ角刈り。生まれてくる時代を間違えたかのような風貌で、元也の目の前には一人の男が立っていた。
「…………」
恐怖からか、それとも何か別の感情なのかは分からないが、言葉が口から発せられない。
「同じ事は二度言わない。お前も今日から特別配送課の一員なのだから、仲間に迷惑を掛けるような真似はするな」
「…………」
「返事」
「は、ッはいっ」
思わず敬礼のポーズを取ってしまった元也に、何を言うでもなく、ただ一瞥して男はリビングへと入っていく。一人残された元也はしばらくその場を動けず、廊下から完全に男の気配が消え去ってからようやく前へと足を一歩踏み出すことが出来た。
「ぶはあッ……!」
安堵の息を、肺が空になるほど吐き出す。そのまま床にへたり込み、何度も深呼吸を繰り返してようやく元也から緊張や恐怖が抜けた。
「あんな人と仕事をするのかよ……」
たった二言三言会話しただけでこれだけ緊張するのだ。これから先まともに仕事をやっていけるのか、初日の朝にいきなり彼は挫折しかけた。