3LDKの南向き。地上二階。地下一階。
学力テストと体力テスト三十分ずつ。計六十分。一時間はあっという間に終わった。
結論から言えば、学力テストの問題はビックリするくらい簡単で、家での教育が厳しく、小さい頃から企業の跡取りとして勉学に勤しんできた元也にとっては朝飯前にも満たないほど。それでも六分という制限時間の中であるから、集中力をその短時間で維持し続けるのはかなりの労力を要した。
とりあえずは合格点に達した、とそう確信が元也の頭のなかには既に出来上がっている。
体力テストの方も何の問題は無く、もともとの運動神経に加えて、毎日平均二時間の運動を家庭教育の一環として取り入れられていた彼にすれば、逆立ちの状態でもクリアできるような温いものであった。
「はい。じゃあお疲れ様」
学力テストを受けた部屋のすぐ隣にあった大部屋で体力測定をした後、再び元の部屋に戻ってきた元也に、女性はそう労いの言葉を掛ける。
「結果はすぐに出るんですか?」
「ええ。合格よ」
「あ、今もう出るんですね。上司の人とかと決めたりしないんですか?」
「しないわよ。テストの答えなんて見れば分かるし、体力テストも記録が分かれば合格ラインも当然のようにわかるのよ。テストの結果は六百三十二点。体力テストもAランク。正直なところもう少し余裕で合格して欲しかったのだけれどもね」
「えっと、この成績ってギリギリなんですか?」
「そうよ。もう今日から同じ課の仲間となるあなたにプレッシャーを与えるつもりは無いのだけれど、うちの課のメンバーはみんなまともじゃないわ。背景だけを見ればあなたも相当だけど、あなた個人を見たら常人程度の、至って平凡な人間よ」
「まともじゃない……?」
さらりと会話の途中に混ぜられた言葉に元也は僅かな疑問を抱く。
今改めて考えれば。そもそも『特別配送課』という課の詳細も聞いていない。それに加えて『まともじゃない連中』がいるという女性の言葉。元也の中で、今まで抱いていた警戒心がまた少しだけ強まる。やっぱり辞退しようかと、そういう考えが極些細ながら浮かんだ。
「あら。そんな身構えなくてもいいのよ。まともじゃない、って言っても危険な人間じゃないわ。至って安全。いい人ばかりよ。確かにまともじゃない、という表現には語弊があったわね。そうね、具体的に言えば身体能力や知力が常人の域を逸脱してるの。化け物じみた、あるいは常人の理解の範疇を超える、そういう人の集団。それが特別配送課よ」
「はあ……」
まだ完全に理解しきったわけではないが、とりあえずはそこの人間はまともではないまともらしいので、元也はひとまずの安心を得る。警戒心が無くなったわけではないが、少なくとも働くことを躊躇うということは無くなった。
「ところで、特別配送課って、何が特別なんですか?」
「そうね、まあいろいろよ。とりあえずいつまでもココにいても何だから行きましょう」
そう言って女性は歩き出した。こちらの質問をはぐらかされた気がするが、何か理由があるのかと考えあまり気に留めないでお く。
正面に設置された長机の脇を通り、入口とは反対のスチールドアを通って外に出る。
「あ、っと」
一歩外に出て、電気の消し忘れに気がついたらしい女性は再び中へ戻って電気を消してから戻ってくる。ポケットの中から幾つのもの鍵が付いた束を取りだし、しっかりと施錠をすると、
「さあ、車はすぐそこだから」
にっこりと微笑んだ彼女と、それにただただ従い付いてくしかない元也がいたのは、四方をコンクリート打ちっ放しの壁に囲まれた空間だった。そこは営業所の一階や地下廊と同様に薄暗く、申し訳程度に天井に付けられた蛍光灯が余計に薄暗さというか不気味さを醸し出している。かび臭さが僅かに鼻を突き、それと混ざって排気ガスの臭いも漂ってきた。
「駐車場、ですか?」
「ええそうよ。車で移動するのだから、ね」
「車で? どこへですか?」
対面する車同士の間を歩きながら、元也は先行する女性に疑問の言葉をつくる。が、すぐに思考を巡らせて自身で答えに達し、ボソリと呟いた。
「ああ、寮か」
「寮? 何を言っているの?」
「え? 違うんですか? 住み込みバイトだから、てっきり寮で生活するのかと」
「バカねえ。それじゃあ住み込みじゃないないじゃない。……と」
澄んだ声で小さく笑い、彼女は足を止めた。場内に反響するヒール靴の音より僅かに遅れて元也も足を止める。
止まったつま先が向くのは黒塗りのスポーツカー。クーペ型の、恐らく日本製であるその車は手入れが行き届いており、傷や埃一つ無い。ボンネットだけ見ても、鏡の代わりとして何ら差し支えないほどだ。
「さ、乗って頂戴。もう十一時近いし、さっさと行きましょう」
「あ、はい」
女性に続いて元也も中へと乗り込む。車独特の臭いがあまりしない車内はまるで新車そのものようで、今日が初乗りなのでは、と疑ってしまうほどに整頓し尽くされていた。ティッシュ箱や、CDケース、地図本なんかも置かれていないし、小銭が散らばっていたりもしない。
「いい車ですね」
「そう? ありがとう。でも、この程度の車君の家にもあったでしょう?」
「そう……ですね。あ、ありますね多分」
「正直ね。いいわよそういうの」
「あ、え……はあ」
記憶を少し探してみれば、確かに友住の家の駐車場にこれと同じような車はあった。ただし、色違いの白ではあったが。特に親に親に車の趣味があったというわけではないが、車は権力の象徴だ、という事を父親は時たま言うことがあり、自宅の駐車場には十数台の、高級車からそうでないのまでが並んでいた。
座り心地のよいシートへ深々と腰を下ろしつつ、しっかりとシートベルトを袈裟懸けに固定する。
「…………」
少しだけ目を閉じ、家にいる弟の事を考える。まだ小学校低学年である弟も、昔の自分と同じように厳しい教育を受けて、過酷な毎日を過ごしているのだ。友達と遊びたい年頃だろうが、遊ぶ時間は微塵もない。家に帰れば、優秀な家庭教師や人物の元で勉強と体力作りに励む毎日。望めば芸術の類も好きなだけやらせてやる、と父親は言うが、とてもじゃない。そんな余裕のある生活ではなかった。
だから家出したのだ。
束縛され、制限され、自由など欠片もない生活。何を期待されているのか知らないが、元也にとって期待などは余計な重荷でしかない。十数年間耐え続けてきて、しかしそれももう限界だった。
逃げ、と取られるかもしれない。それでも、逃げることも勝つための手段の一つである、と元也は思う。逃げることで次に繋ぐことが出来るなら、迷わず逃げる道を取る、と。
「……俺だけ、か」
逃げてきた、という自覚があるから置いてきた弟に対しての罪悪感が生まれる。彼は何も言わずに家を出てきた。勿論弟にも、 だ。まだ小さい弟には家出するだけの勇気も、力もない。一緒に連れてくればよかったとも思うが、自分と弟の二人で生活をする自信は元也にはなかった。
ゆえに、結局は一人で出ていくしかなかったのだ。
「どうしたの? そんな思い詰めた顔で」
「いえ。少し考え事をしてて」
「そう。あまり緊張したり不安に思ったりしないで頂戴。うちの課の仕事は冷静さも結構重要だからね」
こちらの不安を和らげるためか、優しくゆったりとした声で女性はそう言った。それからクラッチペダル、シフトレバー、ハンドブレーキ、アクセルペダルの順に手慣れた様子で動かし、車を発進させる。
「そういえばまだ私の名前を言ってなかったわね」
丁寧にハンドルを回しながら彼女は続けた。
「私はヴェロニカ=ワーグナー。見ての通り日本人じゃないわ。アメリカ人よ。よろしく」
「友住元也です。よろしくお願いします」
「ええ。知ってるわ」
「はあ」
「そうそう、うちの課には元也君と同い年の子が二人いるの。十七歳の、二人とも女の子よ」
「女の子、ですか」
「ええ。可愛い子よ。同じ特三配送配送だし、いろいろと仕事の面でも協力することになるから、できるだけ早く打ち解けてね」
「特三配送?」
「まあ、役職、ね。部長課長係長のようなもの。特別配送課、まあ略称があるのだけど、それは今度で良いわ。ここには四つの役職があるけど、その中で一番下っ端なのが特三配送。でも、やる仕事の内容は上司と同じだから、あまり関係ないのだけれどね」
「そうですか。あの、やっぱり今は特別配送課のことは教えてもらえないんですか」
「ええ。今はね。仕事をする前に教えちゃうと、やっぱり止めるって人がいるかもしれないのよ。以前それで逃げられたから。だから、せめて一度は仕事を経験させてから教えることにしてるのよ」
「それって、危険な仕事だからですか?」
「安全な仕事なんか無いわ。ただ、その逃げた人に向いていなかっただけ。大丈夫。マフィアとかはあんまり関係ないから」
「あんまり?」
そう疑問の言葉を向けると、急に車のスピードが上がった。
窓の外の景色が横に高速で流れていく。街灯やビルの明かり、クリスマスの綺麗な飾り付けが生み出す幾つもの色彩が、芸術的な模様となって夜の闇へ浮かび、動く。
それにしても、速すぎる。
元也の背中は座席の背もたれへと押しつけられ、まともに動きが取れない。眼球だけを動かしてスピードメーターを見れば、心なしか一周しているように思える。
「ちょっ! ヴェロニカさん!?」
「なあに? どうしたのかしら?」
にこやかに彼女はアクセルを踏み込む。右手はハンドル、左手はシフトレバーを握り、手元を見ずに激しく動かした。足下にある三種類のペダルを何度も器用に踏み分け、ハンドルを右へ左へと目まぐるしく捌く。タイヤの回る音が、風を破る音が車内にいるはずの元也の耳にはっきりと聞こえてきた。感覚的にはまるで、フレームの取り去られた車に乗っているようだ。
「速すぎますって!」
「まだまだよぉ!」
興奮したような大声を上げ、更にヴェロニカの足が奥へと踏み込まれる。更に車が加速する。
一つ信号を過ぎれば、もう既に次の信号へと到達している。エンジンの唸りを深夜の町へ響かせ、地面を抉り取るような動きでコーナリングを決め、さながらサーキットを独走しているような、そんな錯覚に陥りさえした。
「危ねええあああああああッ!」
幾度叫んだか分からない。声は枯れ、喉の奥が燃えるように熱くなったと思えば、運転席のヴェロニカが余裕の表情でアクセルからブレーキへと踏み換え、車は甲高い音を立ててようやく停止した。
「がっぁ!」
反動で元也は正面のダッシュボードへと額を強打する。そして跳ね返って今度はシートへと後頭部をしたたか打ちつけた。
「はい、到着よ」
そう爽やかに言った彼女は、こちらの具合など気にもせず、少しだけ笑って車から出るよう元也に指示をした。
「私は車を停めてくるから、先に中に入っていて頂戴。あなたの部屋は二階の奥、プレートが掛かってない方ね。メンバーの紹介と
かは明日にするわ。今日は遅いし、もう寝ていいわよ」
「は……はい……」
頷き、車から出た正面を見る。そこにあったのは、極々普通のどこにでもあるような二階建ての一軒家。住人はもう寝てしまったのか、窓から小さな明かりがいくつか見えるが、家の中は殆ど真っ暗といっていいくらいだった。元也の正面、階段を数段上ったところに玄関ドアが設置されており、その脇の表札には『山田』とありきたりな名字が記されてある。どう見ても偽名としか思えな い。
「ここが、特別配送課……?」
「そうよ。今日からここが君の暮らす場所。特別配送課のオフィス、ってところかしら」
「普通の住宅、ですよね? よく見ればここ、住宅街ですし」
先ほどの暴走というか爆走というかで未だ纏まらない思考回路をたぐり寄せながら、周囲を見回した元也はそう尋ねる。
「ええ。3LDKの南向き。地上二階、地下一階の一軒家よ」
「はあ。あの、さっきの車の音は近所迷惑だったのでは?」
「そうね。でもあんまり気にしちゃダメよ。これからそういうのは毎日あるんだから」
「毎日!?」
「ふふ。冗談よ。じゃあ、私はあっちの車庫に車を入れるから。また明日の朝にね。おやすみなさい」
「はあ。おやすみなさい」
運転席の、開いたドアウィンドーから身を乗り出してヴェロニカは微笑んだ。そのまま窓を閉めようとして、ふと思い出したように、
「玄関の鍵は開いているから心配しないで。それから、私には敬語を使わないで頂戴。あんまり好きじゃないのよ」
そう告げて片目を閉じた彼女は、今度こそ車を動かした。器用にハンドルとペダルとを扱いながら、家に隣接したガレージ車庫へと入っていく。
「ふう……」
コートのポケットへ手を突っ込み、息を一つ吐いた。
「特別配送課、か」
階段を上り、玄関ドアへと手を掛ける。
もう明日からは友住の家のような厳しい生活も、寝床が無く苦しむ家出生活も待っていない。自分の自由と安全がある生活を送ることが出来るのかと思うと、それだけで元也の胸は高鳴る。
新しい生活への一歩を、彼はしっかりと踏み出した。