テスト
「ああ、住み込みバイトね。特別配送課の。はいはい、と」
分厚い丸メガネの蔓を指で弄りながら、目の前の男性はこちらへ二三枚の書類とボールペンを渡してきた。気がつけばいつの間にか金髪のお姉さんは消えており、その代わりとでも言うように、カウンターを一つ挟んだ向こうにこの五十代くらいの男性が座っている。
もう営業終了時刻なのか、営業所内の蛍光灯の半分は消され、かろうじて点灯している頭上とその周辺の明かりを頼りに書類の空欄を埋めていく。どういうわけか、渡された書類のなかには履歴書も含まれていた。
「あの、履歴書というのはもらえるものなんでしょうか?」
「んぁ? あー……。君は特別。本来は前もって必要だけど、配属場所が場所だしねえ」
履歴書もそうだが、こんな遅い時間にいきなり押しかけたというのに、相手は一切の文句も言わずさも当然のように書類をくれるというのも元也の頭にはやけに引っかかる。確かに住み込みバイトが出来るというのはありがたいのだが、さっきの女性にしても今の書類にしても少しばかりまともではないニオイがした。
「書けたかい?」
あくび混じりにそう言った男性に、「あと少しです。すみません」と答えて急いで残りの空欄を埋めていく。住み込みで働かせてくれるだけでありがたいのだから、今はそんな些細な事を気にしている場合ではない。
「あ、書けました」
静かにカウンターへ書類を置き、男性がそれを確認している間に元也は考える。
いつの間にかいなくなった金髪の女性、営業終了時刻ギリギリだというのに対応してくれる男性社員。そして、特別配送課と呼ばれる謎の課。一切の確認もせずにここまで来てしまったが、冷静になって考えるとこのまま帰った方が安全な気がする。
と、そこまで考えて元也は首を横に振った。
「……あの家には二度と帰らねえ」
自分は家出した身。帰ったとしても家には入れてもらえないだろうし、帰るつもりも毛頭無かった。ただ一つ、家に残してきた弟のことが気になったが、弟はあの家での暮らしにあまり不満を抱いてはいないようだったし、自分に付いてくるよりは安全で快適な生活が保障されている友住の家にいた方がいいだろう。
改めて彼は来ていたトレンチコートのポケットへ手を突っ込む。何度か中で手を動かして探ってみるが、指先は内側の布以外何ものにも触れない。つまりは携帯電話もサイフも鍵もなにも持ってこなかったということだ。
「友住、げん……もとや、くんね」
そんなことを考えている内に、書類の確認を終えた男性はそう言葉を発した。
「友住……てのは、あの友住かい?」
「……ええ。想像しているとおりの友住です」
「そうかそうか。あの大企業の御曹司か。しかし何でまたこんな所に?」
にこやかに、少しばかり興奮したように話しかけてくる男性の言葉に元也は無言のままでいた。答えず、向こうも何らかの理由があるのを察したのか、書類をクリアファイルに収め、ずれたメガネを直して続ける。
「じゃ、今からテストを受けてもらうので、付いてきてもらっていいかな」
「テスト、ですか?」
「ああ。ま、そんな緊張することじゃない。一時間程度で済む簡単なものだからね」
「なるほど。わかりました」
立ち上がり、カウンターを大回りしてこちらまでやってきた男性は、ポケットからぶら下げた鍵やらなにやらをジャラジャラいわせながら元也を手で招いた。
歩調の早い男性に後ろについて元也も歩いて行く。営業所内に二人以外の人間はいないのだろうか、やけに静かで、薄暗い廊下には先導する男性の革靴と鍵束の音がよく響いた。
カウンターの脇にあった階段を二階ほど下りて、地下へ。案の定明度の低い廊下の先、一室だけ明かりの灯っている部屋の前で男性職員は足を止めた。
「さ、私はここまでだよ。あとはこの部屋の中にいる女性から話を聞いてくれ」
「あ、はあ」
「グラマラスな外国のおねえさんだけど、あんま緊張しなくていいよ」
ははは、と笑いながら男性は元来た廊下を引き返していく。真面目な外見に比べて結構なプレイボーイなのか、と疑問に思いながら一つ深呼吸をする。
目の前にあるスチールドアのノブをゆっくりと掴んだ。ドアにはめ込まれた磨りガラスにボンヤリとした金色が浮かんではいるが、室内の詳しい様子は窺えない。
「グラマラスねえ……」
なぜか先ほど言われた『テスト』という言葉が元也の頭に浮かぶ。『面接』ではなく『テスト』。そう表現されたことが、バイト予定先である『特別配送課』が普通とは違う『特別』であるという意味を感じさせた。先ほどから感じている違和感や不信感といったものが、より一層正確な形を成してくる。
「失礼します」
ノブを回し、ゆっくりと中へ足を踏み入れた。
一〇〇人ぐらいは収容できそうな広々とした殺風景な部屋。反対側にはこちらと同じようなスチールドアが設置されており、中心にある折りたたみ式の長机一つを挟んで、新調したばかりのようなパイプ椅子が二つ向かい合って置かれていた。その片方は既に埋まっている。
目の前に座っていたのは、先ほど営業所の入口で声を掛けてきた女性だった。
「気分はどう? 緊張してる?」
言われたとおりの豊満なボディを持った金髪女性がゆったりとその片方の椅子に座っていた。先ほどとは違う少しばかり露出度の高い服が、余計にその身体の存在感を増させている。
「あ、さっきの」
数分前とは違い、元也の中に変な緊張はなかった。
「そうそう。さっきぶりね。さ、座って」
にこりと微笑み、片手で元也を促す。それに従い、ベージュのコートを椅子の背もたれに掛け、出来る限り静かに着席した。
「……うぉっ」
座って、正面を見て、思わず部屋の隅へ目線を逸らす。正面にあったのは女性の豊満な胸。服からはち切れんばかりの二つの山が彼の視界を埋めたからだ。本当ならば、もし相手が目隠しをされた状態であるならば、もう少し見ていたい気分であったが、現実はそうはいかない。本人を目の前にして凝視することは出来ないのだ。当の本人は自分の魅力を理解しているのかどうかは定かでないが、こちらの戸惑いになど気付いていないかのような笑顔のままだった。
「どうしたのかしら? 目なんか逸らしちゃって」
「い、いえ。いえ? 何でもないです。すみません」
赤面してなぜか頭を下げ、視線を戻して変な空気にならぬようすぐに次の言葉を作る。
「えと、あ自己紹介、した方がいいですよね」
「ふふ。結構よ。まずはその書類を見せてもらえるかしら?」
そう言って女性が指差したのは、元也が座る際に長机の上に置いた三枚の書類。先ほど上の受付で書き、この部屋に入る際に先ほ
どの男性から受け取ったものだ。机の上を滑らせるようにして元也はそれを女性へと渡す。
「ふむふむ。友住元也君ね。十七歳。高校生?」
「はい。高校二年生です」
「そんな緊張しなくていいのよ。高校生ね」
まともに喋れてはいるが、声に若干の震えがある彼へ女性はにこやかに言う。それから机の上で書類をそろえ、自らが持ってきていた黒いファイルの中へとしまった。
「さて、時間も時間だし、いきなりテストを受けてもらう形になるけどいい?」
「はい。あ、その」
「なあに?」
「テストとは、何をするんでしょうか?」
「あら、そんなに構えなくてもいいのに」
目を細めて笑みを作り、そうねえ、と彼女は宙を眺める。
「知力と学力を測るテスト、ね。学力って言ってもそんな難しい問題を解かせたりはしないわ。せいぜい高校卒業程度の基本的な知識。国数英理社のね。それから体力テスト。これもそんなにハードなことはやらせない。筋力、筋持久力、瞬発力、持久力、反射神経、まあだいたいそんなところね」
「では、別に特別なテストをするわけではないと?」
「そういうこと。学校でもやる極々普通のものよ。テストは両方合わせて一時間。三十分ずつってとこね」
そこまで言って一旦言葉を句切り、ただし、と付け加えて彼女は続けた。
「学力テストの方は問題数に上限は無しよ」
「上限がない?」
「そう。体力テストと同じようなもの。自分の取った記録がそのまま記録として残るの。つまりその気になれば千点取れたりもする
って事よ。まあ、私の知っている中での最高は一教科で七百点台なのだけれども」
「なるほど」
「ちなみに、テストは一教科六分。五教科合計三十分よ。途中休憩は無し。三十分間ずっと問題用紙と睨めっこよ」
「ろっぷん!? 六分で七百点台ですか!?」
「そうよ。でも、そんなコンピュータみたいな人間は早々いないわ。私だってせいぜい二百点が限界だもの。とりあえずは六百点以
上で合格」
「六百点以上、ですか」
「ええ。はい、問題はこれね。私が部屋の外へ出てドアを閉めたら開始。六分経つごとに私がドアを二回ノックするわ。そうしたら次の科目へ移って頂戴。じゃあ、頑張ってね」
問題用紙の入っているらしい分厚い茶封筒を元也の目の前に置くと、片目を閉じて投げキッスのそぶりを見せ、彼女は立ち上がり部屋の入口へと歩いて行った。
ブロンドの髪を揺らしながら歩いて行く彼女を視界の隅まで追いつつ、ドアの開閉音を耳で確認して、元也は目の前の茶封筒をひっくり返した。
中から出てきたのは問題用紙と解答用紙の束。それからシャープペンシルと消しゴムが二本ずつだった。どちらも新品で、使うのに妙なためらいがある。
「よっしゃ、……やるか」
一番上に置かれていた冊子を取り、他のは机の端へ避けて元也はテストを開始した。