極寒の地にて
扉を抜けるとそこは雪原だった。
そんな一節を心の中に浮かべて、私は降り立ったフィールドを見渡した。
どこまでも続く雪、雪、そのまた雪。よく目を懲らすと、かなり遠くに辛うじて家屋の明かりが見える。とりあえずはこのフィールドで体を慣らしつつ、あの町に向かうところから始めるべきなのだろうか。
それにしても。
「さむっ」
良くも悪くもリアル。
そんな前評判を、降り立った直後から私は実感することになった。軽装備しか身につけられないピクシーの初期装備は全て布製だ。しかも安物らしくかなり薄い。
すでに靴は湿気を帯び始め、このまま突っ立っているとリアルなら確実に凍傷から凍死という死へのダブルコンボを受けるはめになるだろう。幸いにしてここはオンラインなので、これで死んでも最寄りの町やリターンポイントからの復帰となり、初心者のうちはデスペナルティもない。
だがしかし寒いのである。なんていうリアル雪山遭難RPG。
心なしかじわじわと体力も削れているような気がする。幸いにして痛覚に関してはだいぶ柔らかい設定らしく、寒さは感じてもそれによる痛みはさして強くない。鼻で息をしても息苦しさはあれど、あの鼻の奥にツンとくるような痛みは感じられなかった。
とにかく町まで移動しよう。空には美しいオーロラがかかっていたが、あまりの寒さにそんな景色をゆっくりと眺めている精神的余裕が持てない。
そうして一歩を踏み出そうとした時、私の頭上に影がかかった。
「ふむぎゅッ」
なにごとかと確認する前に、体が雪の上に押しつけられる。いや、押しつけられると言うよりこれは……踏みつけられる?
身動きを取ることも出来ず、全身つめたい雪にまみれ、あげくそこから身動きがとれないというこの状況。体の上になにかとてつもなく重たいモノが存在している。どれだけ体を動かそうともびくともしない。
雪に埋もれる息苦しさに、じわじわと力が入らなくなっていく。
冷たい。
重い。
苦しい。
このまま目を閉じたら楽になれるだろうか。ふとそんな考えが脳裏をよぎる。
開始早々、フィールドを一歩も歩かないうちに死亡とか。ある意味すごい気がする。きっと前代未聞だ。初の快挙だ。うわーい。
「あれ? なんだこれうわぁあああああああああ!?」
しかし、助かったと言うべきか残念と言うべきか。体力が底をつきる直前に私の上に乗っていた重しがどけられ、私の体は誰かの両手にすくわれていた。
「だだだだいじょうぶですか!? 生きてますか!?」
「わ」
「わ!?」
「我々の業界では……ご褒美、です……がくっ」
「ひぁあああああああああ!!」
九死に一生を得たモノの、体力はほぼエンプティ。なんだか全身に力が入らずぐったりしている私の体を、甲高い悲鳴をあげた誰かが掴んだまま必死にシェイクする。
あ、あ、らめぇ、そんなに揺さぶられたら私……。
「ぉぅふ」
「し、死なないでくださぁああああい!!」
辛うじて残っていた私の体力はそこで尽きた。
なお、実際にトドメを刺したのはこの手の主ではなく、耐性のある装備品をつけないと雪原でかならず受けるというバッドステータス【凍結】によるスリップダメージだったらしい。
**** ****
「はー、死んだ死んだ」
幸いと言うべきか、このフィールドに降り立った時点で最初にプレイヤーが立ち寄る町がリターンポイントとして登録されるらしく、私は町の中心にあるらしい女神像の前に立っていた。
闇と武闘の女神ユノ。その凛々しくも美しい姿は雪原に降り立つ誇り高き銀狼がごとしと言われている。
この身長だと台座から太股までしか見れないのが実に惜しい。いやむしろ大変美味しいと言うべきなのだろうか。
「ぶえっくし」
女性としては少し品のないくしゃみをしつつ、女神像の際どい部分を下から眺める作業を中断して周囲を見渡す。
町中ではフィールドのようにスリップダメージを受けることはないもの、それでも寒いモノは寒い。
ここがリターンポイントであるならば、冒険者がまず求めるであろう宿屋といった施設はすぐ近くにあるはずだ。
周囲を見渡すと、入り口付近に酒樽の積まれたそれらしい店を発見した。看板はよく見えなかったが、大きさからしても間違いはなさそうだ。
閑散とした広場を走る。薄くはった雪は踏みしめられて硬く、よく滑るようなところまでリアルさを追求したマグ・メルさすがマグ・メル。
宿屋にたどり着くまで三回石畳に顔面ダイブした私は手放しでその作りの無駄な精巧さを褒め称えた。
締め切られた入り口はあらかじめ小妖精が使うことも考えられてか、下の方に猫が通り抜けられるような小さなドアが設置されていた。そこをくぐると、外の寒さが嘘のように温かい空気で包まれる。
「いらっしゃい」
明らかにこちらの姿が見えてなさそうなカウンター奥のおばちゃんが、入ると同時に声をかけてきた。彼女はおそらくNPCで、冒険者が入ると自動的に声をかけるようになっているんだろう。
「泊まりかい?」
「はい」
「一晩5メルエンだけど……おや、お金が足りないようだね」
「え?」
おもわずインベントリを開いて確認すると、農民得点である掘っ立て小屋の権利書を除き、そこは空っぽだった。
おかしい。開始直後はたしか所持金100メルエンに加えて、体力回復ポーションと魔力回復ポーションが5個ずつ手持ちにあるはずなのに。
そこまで考えて、私はぺちりと額を叩いた。
「私一度死んでんじゃーん!」
このゲーム、レベルが10を超えるまでは死んでもデスペナルティがなく、経験値が減ることはない。
だが、初心者であろうとなんだろうと、持ち物に保護の魔法などをかけておかなければ死んだ場所にお金とアイテムをばらまいてしまうのだ。
その場に復活するという手もあって、通常はこれをやると最大体力と最大魔力が一定時間3分の1になる。だが、初心者の間だけは、これも3分の2に抑えられる仕様だったと記憶している。
しかし、町に一瞬でたどり着けるという部分に目がくらみ、私は死んだ直後迷わず町へ帰る選択肢を選び……。
「売却不可の重要アイテムと装備品だけが手元に残った……と」
謎が判明してスッキリした私はやれやれと首を振りつつそっと宿屋の外に出た。
途端、身を切るような冷たい風が吹き付ける。心なしかさっきよりも風が強い。先ほどまで晴れ渡っていた空からは、しんしんと雪が降り始めていた。
時間が経つにつれて天候が悪化することを危惧し、私は女神像の向かいに設置された掲示板の地図を見上げた。
とにかく一度スタート地点の雪原へ戻り、アイテムを回収しておきたい。泊まる場所はまだ掘っ立て小屋という最大の強みがあるものの、序盤からいきなりなんの回復アイテムも持たないというのは、今の私にとって自殺行為そのものだろう。たまらん。じゃなかった。
無ければ無いでそれもまたスリリングかもしれないが、ここでいきなり積んでしまうのは避けるべきかもしれない。これだとまだ戦闘は経験していないが、その辺の雑魚にすら勝てないかもしれない。
おっとヨダレが。
あの場にいた同じ新規プレイヤーとおぼしき誰かが拾ってしまっているかもしれないが、あの慌てふためき様を見る限りでは、動揺してそのまま残していった可能性だってある。
スリップダメージも少し心配ではあるが、あの事故さえなければ町にたどり着くことが出来ただろうと考えると、往復もそう厳しいものではない気がする。移動速度とこの寒さだけがネックで誰かに動向を頼むことも考えたが、見渡しても現時刻、この場所に自分以外の冒険者はいないようだった。
まぁβテスト版でもない作品で、平日の朝という微妙な時間に初心者がまず選ばない国のスタート地点にいるプレイヤーなんて余程の廃人か暇な学生くらいだろう。
ここは施設をざっと見ても数件の宿屋しかないド田舎っぽいので、クエストがあったとしても飛ばしていいようなチュートリアルだけで、ここを選ぶような熟練プレイヤーはさっさと通り過ぎてしまうのではないだろうか。
となると、先ほど私を踏みつけたのはそんな廃人か。あまりそんな雰囲気でもなかったけど。
姿はきちんと見ていないので解らなかったが、彼? がこの辺りにいる様子は見られない。多分彼だ。ちょっとか細い声をしていたけど。
結局彼はあの後どうしたのだろう。
この作品ではフィールド上でのPKが可能であり、PKをしたとしてもそれを殺された当人や第三者に通報されない限りお尋ね者などになったりはしない。PKをしているといった表示も出ないため、施設の利用も問題なく行える。
あるいは私が通報するかも知れないと危惧して様子を見ているのだろうか。通報された場合、普通の町や村でうろつくレベルのかけ離れたガードなどに一定期間追いかけ回されるペナルティを追うのだ。
むろん時効はあるし、有る程度冒険した後なら対処出来なくもないが、地図を見れば最初の雪原の周囲は崖になっていて、飛行能力でもない限り落ちれば確実に死ぬ。「アイキャンフラーイ」とかしたいわけじゃないならこの町を通り過ぎる以外に先へ進む道がない。
また街道を外れた場所ほどやっかりな魔物が出現するらしいので、飛行能力があったとしても、作りたての低レベルキャラでそれをやるのはやはり自殺行為だろう。
つまり通報されたらあの寒々しい崖っぷちで時効が過ぎるのを待つか、ガードに刺されるのを覚悟で町を駆け抜けるしかないのか。
確かに長時間のプレスダメージによる体力の消耗が主な死因ではある。殺されなくても郊外で危害を加えられれば受けたダメージに応じてしばらく出入り禁止には出来るのだろうが、勿論そんなことをするつもりはない。
本人にその気はなかったのだろうし、最初の出現ポイントでいつまでもぼんやりとしていた私にだって十分非がある。
なによりあの場所で死亡したなどというプレイヤーはきっと私が最初で最後だ。そう思うとむしろ感謝すべきではないだろうか。
このネタだけでしばらくは他のプレイヤーとのコミュニケーションが成り立ちそうだし。
そんなことをつらつら考えていると、思いの外はやくあの雪原にたどり着いていた。
「いたよ」
そこにはこんもりと盛られた雪に手を合わせながら大粒の涙を零し、ぐずぐずと鼻をすするなんとも情けない龍人の姿があった。




