光と陰の彫刻 〜100年前に消えた天才と、奇跡の像〜』
「なんだこれは!」
師匠の怒鳴り声に、ルカは小さな体をさらに小さく丸めた。
癇癪持ちの師匠は、気に入らないことがあるとすぐ怒鳴り散らし、時には手近なものを近くの弟子に投げつける。目立たないに越したことはない。
「至高の美を宿すのに、石に傷があってはならない!やめだやめだ!」
師匠は掘りかけていた神の子の像をなぎ倒し、大股で出ていった。「ピッコロ!戻るまでに片付けておけ!」どうやらルカがいたことには気がついていたらしい。こちらも見ずに吐き捨てた。
ルカはここではピッコロと呼ばれている。引き取られたときまだ小さくて、師匠は「オレがグランデならお前はちび(ピッコロ)だな」と言い、それ以来ルカの呼び名はピッコロになった。
ルカは、打ち捨てられた像をそっと起こした。師匠の言う石の傷、それは右頬に黒く小さく細い筋であった。
気に入らないものを目にいれると怒られるので、ルカは像を工房裏のゴミ捨て場のさらに奥、弟子たちの宿舎の裏に運んだ。
石の像はルカより背が高く、目深にかぶったフードだと手元は見えても像の顔はよく見えない。
ルカはフードを少し上げた。背を伸ばし、彫刻の右頬にそっと触れた。
「かわいそうに。傷があるのはあんたのせいじゃないのにね」
伸ばした足を下ろし、フードの口元を握りしめてルカは足早に工房に戻った。師匠より先に戻らねばまた怒られる。
「おいピッコロ、新しい水をくんでこい」
兄弟子に言われ工房の裏の井戸に向かった。裏に行くと、ルカはいつも像を見に行く。ルカが胡桃色の目で見上げると、あの像は今日もルカから少し顔を背けていた。
釣瓶を上げ、水を木桶に満たし、ルカは工房に戻る。今日は暑い。フードの中に熱がこもるが、ルカはけして人前でフードを脱がなかった。
ここに来たばかりの時に、兄弟子にからかわれフードをはがれたことがある。兄弟子は息を呑んだ。
ルカの顔の右側には、ただれたやけどの跡があった。
師匠が打ち捨てた像の傷より、はるかに広く。
「お前ら何やってんだ、仕事にもどれ」
誰もが言葉が出ないなか、師匠はいらだたしげにそう言った。傷のことは、何一つ言わなかった。
バルダッサーレ・グランデは、彫刻以外には何も気を払わない男だった。ルカが見る師匠はいつも同じ服で、石の粉にまみれている。妻もいなかったし、娼館に行くこともない。食事も石を掘りながら硬いパンをかじることさえあった。そのうちパンを木槌にするんじゃないか。時々野菜を売りに来る行商の女はルカにそういった。
グランデはもちろん弟子にも気を留めない。頼まれて子供を預かることもあるが、なぜここに来たのかも興味がない。住み込みの弟子がたまにある休みの日に何をしているのか、どこにいるのかも気にもしていなかった。
だからルカは一人で像の頬を美しくすることにした。
この傷は癒えないけれど、せめて見た人が怖がらないように。
ルカは一心に師匠に教わった通りノミを打ち込んだ。
石の傷は、神の子の涙に見える。
ルカの涙は、神の子が身代わりに流してくれるのだ。
ルカは像の頬を優しく、優しくなでる。かつて母がルカにそうしてくれたように。
グランデは、ここのところピッコロがよく姿を消すことに気がついた。もともと目立たないように振る舞うやつだが、目端が利くのか、いつもグランデが何かを欲しいと思ったその時にはまさにすっと差し出してくる。最近、それがなく声を荒らげることが増え、いつもこちらにちょうどいいノミを差し出してくる細い手がないことに気がついたのだ。
仕事の終わり、いつもの酒場に飲みに行こうと話す兄弟子たちを尻目に静かにでていくピッコロの後を、何となく、本当になんとなくつけた。そしてそこでグランデの目はピッコロが向き合う『美しいもの』に目を引き寄せられた。
あの時捨てた像。その顔は傷さえなければ完全な神の子のものだった。今はどうだ。傷さえも完全の一部ではないか。
「何をやっている」
突然師匠に言われ、ルカはぎくりと肩を震わせた。
「あ、あの」ルカはうろたえて地面を見つめた。
「お前が一人で彫ったのか」
「あの、もうしわけありません」。
師匠にまた怒鳴られる…ルカは消え入りそうな声で先に謝ることにした。
だが、像を見つめた師匠の次の言葉は思いがけないものだった。
「……お前の名が知られたら、世間も教会も受け入れん」
グランデは像から目を離さずに言った。
「顔に傷のある者が尊顔に触れた神など、不敬だなんだと叩き壊す奴らがいる。……不完全から完全は生まれない。そう言って神話をでっち上げるのが教会だ。神はただれたものにも愛を示されたというのにな。だがどうだ。この傷は。まるで神の子が血の涙を流しているようじゃないか」
巨匠は初めてルカの顔を直視した。フードに隠れて見えないはずの奥の傷を睨みつけるように見つめ、しばらくして低く呟いた。
「いいか。これはお前が作ったものじゃない。俺の『未完』の作品だ。……だがいつか、お前と同じノミを打つ奴が、お前を見つける。……いいな、ルカ。お前の名は世に出ない」
初めて師匠はルカ、と呼んだ。
そしてそれはルカが師匠に名を呼ばれた最後となった。
ルカは俯いたまま、何も答えなかった。
この傷のある像か、ルカか。どちらかしか世に残れない。
ルカは迷った。火事で亡くなった父のような師匠ともっとこのボッテガで働きたい。ルカを庇って亡くなった母のような白く柔らかな頬のこの像を残したい。ルカは心を決めた。
まだ夜も明けきらぬ誰もがまだ眠りを貪るなか、ルカは荷をまとめ、兄弟子を起こさないように静かに家を出た。足元は暗く見えないが、視界の端を石像の白い足がとらえる。ボッテガに連れてこられた時と同じ荷物を強く握りしめ、足早に通り過ぎた。ここを曲がればもう外だ。
ルカは最後にもう一度だけと振り返った。
昏い薄明かりに像は浮かび上がる。
これから世界を照らす前、その白みゆく朝の明かりのなかでは像には傷など見えず、ただルカに道を教えていた。
その日を境に、ルカの姿は工房から消えた。
ロレンツォ・ヴェリタは彫刻家であった。かれこれ百年ほど前のグランデという巨匠が作った、神の子の死を嘆く聖母の像を見て首都の教会で見たその時に彫刻家となることを心に誓った。
彼は罪なくして生まれた聖母の像をよく請われて作り、像を納めるときは自ら赴く。力あふれる若者の像があると聞けば、自らこの目で見たいと足を運ぶ。旅する彫刻家、と呼ぶものもいた。そしていつもその旅先では、どんな小さな教会へでも祈りを捧げに行く、敬虔な信仰の徒でもあり、神弟子の彫刻家と呼ぶ人もいる。
「この教会にも、弟子に道を指し示す神の子の像があるのですよ。どういうわけか未完成で、表には置けないのですがとても美しいかんばせなのです」神父はロレンツォが彫刻家だと知ると、聖母への祈りを終えたあと、裏の食堂の奥、神父の部屋に案内してくれた。歩くと、整然と敷き詰められた石畳の上で、どこから来たのか焦げ茶色の落ち葉がカサカサと音を立てた。
「これは、バルダッサーレ・グランデの未完の作品では…?」
神の子が弟子を振り返る横顔を、ロレンツォは見上げた。力強い腕。筋肉の一筋までもが今にも動き出さんばかりで、血管の筋1つに至るまでがまさに生命の躍動で動いているかのようだ。今にも神の子は右を向いて振り返り、何かを告げんしているようだ。ロレンツォは見入られた。
グランデは完璧主義で知られている。ただ一つの石の傷さえ許さないことで有名である。腕や足はまだのみの跡がのこっていて、未完のままにおかれていたことがうかがえた。だが、なぜ壊されることなくここにあるのか。
「私にこれを完成させてもらえませんか」
思わず口をついた。自分が続きを彫るなど巨匠への冒涜かもしれない。それでもロレンツォはこの像を完成させたくなった。神の子がもう一度十字架にかかるため踏み出すその足を。自分の手で。
ロレンツォはグランデに勝てるのだろうか?
どこからどう自分のノミをいれればよいのか。
ロレンツォは何日も、一つも手を入れないままただひたすらに像と向き合った。
十字架を持った神の子は弟子を振り返っている。振り返る顔に陰がかかり、さながらロレンツォを拒むようだ。
道具は何も持たず、明かりだけを頼りにただひたすら足、腕、十字架、ありとあらゆる箇所をありとあらゆる角度から見つめ続けた。神父の部屋では見られなかったところも、全て。
丁度真反対の側に回ると、十字架の上部に少し隠れながらも顔がすべて見える。
影に少し光がはいり、頬に陰がかかっている。動いてみても黒い筋はまだ残る。
ロレンツォは明かりをその影に近づけてみた。
いや、これは傷ではないか?これが巨匠がノミを置いた理由なのか。
翌日もロレンツォは像と見つめ合い続ける。ロレンツォが尋ねても、像は答えない。十字架に道を示そうとするだけだ。その次の日も尋ね続ける。神の子に、自分に道を指し示した巨匠に。だが答えはない。
そうして神の子が復活に要したと同じ三昼夜を向き合ううち、ロレンツォは気がついた。
この右の顔…?
何が、というわけではない。小さな違和感だった。完璧主義のグランデが、傷が浮き出た場所をこんなに美しく滑らかに彫り上げるだろうか?
黒い傷の周りを和らげなものとするだろうか?
像の頬に触れてみる。
あの首都で見た聖なる母の嘆き。
死を嘆く母の顔は静謐で、触れてはならない威厳に満ちていた。
だがこの像は石ながらまるで母のような、赤子が自然に手を伸ばしたくなるような、そう温かな血が通っている。
「これはグランデと、そして、もう一人別の誰か…?」
ロレンツォは、自分が仕上げるべきところ、いや『すでに完成したところ』をやっと見つけた。この顔はロレンツォが触れてはならない。すでに「天才」が完成させているのだから。
ロレンツォは、天才に挑むその最初の一刀を入れる。迷いはなかった。
布が取り払われ、見せられた像の美しさに思わず神父は声を上げた。
元の像の美しさは損なわれず、まさに今踏み出す足に浮かぶ血管、十字架を握る拳には、神の子の苦難を再び受け入れることを厭わない強い意志を感じる。優雅さと躍動感は両立するのだと神父は驚き、十字を切った。
「先生、像を仕上げた今、この復活した神の子に何と名をつけられますか?」
神父の問いに、ロレンツォは神の子の右頬——傷を包み込む柔らかな光の陰影を見つめ、静かに答えた。
「Luce Risorta。復活した光。そう呼びましょう」
ロレンツォは部屋を出る前、最後にもう一度だけと振り返った。
ステンドグラスから差し込む明かりの中に像は浮かび上がる。
世界を照らす前のその明かりのなかで、像には傷など見えず、ただ弟子たちに道を教えていた。
luce――光。
ロレンツォがなぜ「復活した神の子」に「光」をつけたのか。
それはもはや誰にも分からない、永遠の謎。




