第8話 換毛期という名の、雪景色
巨大獣が去り、バルガルド帝国の影が迫る中、ジヴとパルゥにはそれ以上に差し迫った「自然の驚異」が訪れていた。それは、季節の移ろいと共にやってくる、伝説の獣ゆえの壮絶な儀式――「換毛期」である。
「……これは、想像以上だね」
朝、ジヴがパルゥの寝床の扉を開けた瞬間、視界が琥珀色の「雪」で埋め尽くされた。パルゥが小さく身震いをするたびに、極上のシルクよりも細く、綿雲よりも柔らかい琥珀色の毛が、まるで春のタンポポの綿毛のように、王宮の廊下へと溢れ出していく。パルゥ自身は、自分の体から抜け落ちる膨大な毛の山に埋もれ、首だけをひょこっと出していた。
ジヴはすぐさま、掃除係としての本能と揉み師としての使命を燃え立たせた。
「パルゥ、じっとしていて。この古い毛を溜め込んでおくと、皮膚の呼吸が止まって、自慢の『極上の毛並み』に湿気がこもってしまうからね」
ジヴは専用の特大ブラシを手に取ると、パルゥの琥珀色の海へと飛び込んだ。
たん、たん、たん
いつものリズムでブラシを入れるが、今日ばかりは手応えが違う。一掻きするごとに、洗面器一杯分ほどの黄金の毛が収穫されるのだ。ブラッシングというよりは、もはや「琥珀色の雪かき」に近い状態だった。パルゥは「ぷきゅ〜……」と目を細め、浮き上がる古い毛が取り除かれる快感に身を委ねている。耳は幸せそうに垂れ、尻尾はいつも以上に膨らんで、ジヴの手を包み込んでいた。
数時間が経過した頃、王宮の北側一帯は、パルゥから抜けた琥珀色の綿菓子のような毛で埋め尽くされていた。通りかかった兵士たちは、廊下に積もった黄金の絨毯に思わず足を止め、そのあまりに柔らかく温かな感触に、任務を忘れて膝をつき、顔を埋め始める始末だった。
「ジヴ、これは一体何の騒ぎだ!」
銀髪を琥珀色の綿毛まみれにしたサフィニが、目を白黒させながら現れた。彼女は「肉球観測員」を自称しているが、現在の光景は彼女の理解を遥かに超えていた。
「サフィニさん、いいところに。この抜けた毛、捨てるのは勿体ないので、再利用しようと思うんです」
ジヴは、山のように積み上がった黄金の毛を器用にまとめ始めた。前世の揉み師時代、指先の器用さには定評があったジヴだ。彼はパルゥの毛を丁寧に圧縮し、魔法のような指使いで形を整えていく。
数分後、ジヴの手の中に完成したのは、手のひらサイズの「パルゥのミニチュア」だった。本物のパルゥから抜けた毛で作られたその身代わりは、本物と全く同じ琥珀色の輝きを放ち、触れる者の指を一瞬で虜にする究極のぬいぐるみに仕上がっていた。
「……な、なんだそれは。……そ、それを私に貸せ。いや、没収だ!」
サフィニは騎士のプライドをかなぐり捨て、ミニチュアパルゥに飛びついた。その圧倒的な弾力とバニラの香りに、彼女の理性が瞬く間に霧散していく。そこへ噂を聞きつけたアリア王女までが「お父様国王に内緒でそれを私に!」と駆け込んでくる事態となり、王宮はパルゥの毛を巡る狂騒曲に包まれた。
だが、そんな平和な「雪景色」を切り裂くように、王宮の外門を叩く轟音が響き渡った。
ドォォォォォン……!
城門の向こう側から放たれるのは、かつてのメゼール将軍をも凌ぐ、重厚で暴力的なまでの魔力だ。ジヴはブラシを置き、パルゥを抱き上げて門の方を見据えた。
「……来たみたいだね。どうやら、お客様はパルゥのミニチュアじゃ満足してくれそうにない」
門を開けて現れたのは、全身に宝石を纏った男――そして、その隣には、パルゥを遥かに凌ぐ巨体を持った、地響きを立てるような「剛毛獅子」が控えていた。




