第5話 毒舌外交官とバニラの香り
「――ふん。これが噂に聞く『伝説の神獣』か。随分と小さく、頼りないものだな。我が帝国の軍馬の足元にも及ばぬ」
オース・エルフェン王国の応接室に、傲慢な声が響き渡った。声の主は、バルガルド帝国から送り込まれた外交官、バドック。彼は豪奢な毛皮の外套を羽織り、鼻持ちならない様子でジヴの膝の上で丸まっているパルゥを、値踏みするような目で見つめていた。
その傍らには、一人の大男が彫像のように控えている。かつて帝国の将軍としてこの王宮を襲撃したメゼールである。先日、パルゥに完敗して以来、彼はジヴの「たん、たん、たん」という魔法の指先に魂を抜かれ、現在は帝国への帰還を拒否。「ジヴの技術を間近で学ぶ技術協力者」兼「パルゥの自主的警護員」という、極めて曖昧でシュールな立場で王宮に居着いていた。
「ジヴ殿……。バドックは帝国の外交部でも一、二を争う強硬派だ。その言葉の裏には、パルゥ殿を帝国の軍事力と比較して貶め、不平等な協定を飲ませようという薄汚い意図が見える」
メゼールが低く、重々しい声で警告する。かつての同僚であるバドックに対し、メゼールの視線は冷ややかだ。ジヴは「まあ、落ち着いてください、メゼールさん」となだめながら、パルゥの琥珀色の毛並みを専用の豚毛ブラシで整えていた。
「おい、聞いているのか下働き!我が帝国は慈悲深い。その貧相な獣を差し出すならば、ひとまずは停戦に応じてやろうと言っているのだ!」
バドックはテーブルを叩き、まくしたてる。彼の傲慢な言葉は、外交という名の脅迫に近かった。しかし、ジヴは全く相手にしていなかった。ジヴの【黄金の指】が捉えていたのは、バドックの「ひどすぎる首筋の凝り」と、それによって損なわれた「血色の悪さ」だった。
「外交官さん。そんなに眉間にシワを寄せていると、せっかくの帝国の高級な仕立ての襟が、ストレスで吹き出した脂で汚れてしまいますよ。……それに、パルゥがあなたの『トゲトゲした匂い』に困っています」
「な、何だと……!?無礼な!」
「少し静かにしてください。……パルゥ、出番だよ」
ジヴはそう言うと、パルゥをバドックの膝の上に「もちっ」と音を立てるような勢いで乗せた。その瞬間、殺伐とした応接室に、濃厚で甘いバニラの香りが立ち込めた。パルゥの全身から放たれる神獣特有の「癒やしの波動」が、バドックの神経細胞に直接、超高速で介入を始めたのである。
「……ッ!?なんだ、この……圧倒的な『柔らかさ』は……」
バドックの表情が、一瞬で崩れた。膝の上のパルゥは、琥珀色の毛並みをバドックの手に「すりっ」と押し当て、小さな肉球で彼の指を「だっこ」するように掴む。ジヴの手入れによって究極の質感に仕上げられたパルゥの毛並みは、触れる者の闘争心を瞬時に融解させる、最悪の「平和兵器」だった。
「たん、たん、たん」
さらにジヴが、バドックのこめかみのツボを正確に射抜く。
「……ああ、もう。帝国だの、協定だの、どうでもよくなってきた。私は……私は何のために、こんなに肩を怒らせていたんだ……?」
バドックの瞳から険しさが消え、代わりにトロンとした恍惚の色が宿る。もはや交渉どころではない。バドックはパルゥを抱き抱えたまま、「ふふ、バニラの匂いだ……お日様の匂いもする……」と、幸せそうに頬を緩ませ、そのままふらふらと立ち上がった。
「……今日はもういい。こんなに素晴らしい毛並みがあるのなら、戦争などしている時間はもったいない。私は……帰って、自分の家の犬を洗ってやることにする……」
不平等条約の書類も放り出し、バドックは夢見心地のまま、這々の体で本国へと逃げ帰っていった。
メゼールは、その光景を腕組みしながら、複雑な表情で見つめていた。
「……やはり、ジヴ殿の指とパルゥ殿の質感は恐ろしい。帝国の精鋭師団を動かすよりも確実に、人の理性を根こそぎにする……」
「メゼールさんも、仕上げに毛玉取り、手伝ってくれますか?」
「心得た、師匠。……喜んで」
こうして帝国の外交攻勢は、一本のブラシと神獣の温もりによって、あっけなく鎮圧された。しかし、去り際のバドックが、馬車に揺られながら、ふと正気に戻ったかのように青ざめて呟いた。
「……私が手ぶらで帰れば、次はあの男が送られる。『宝石を食らって狂った獅子』を連れた、あの残酷な貴公子が。あの毛並みが汚されるのは......惜しい!」
王宮に、新たな不穏な予感が漂い始めていた。




