第3話 騎士団長、肉球に屈する
バルガルド帝国の将軍メゼールが、パルゥの腹毛に顔を埋めて号泣するという前代未聞の事態。広場に漂うバニラの香りと、パルゥから放たれた「癒やしの衝撃波」によって、帝国軍の兵士たちは戦意を喪失し、座り込んでいた。王国を救ったのは、ジヴの指先が生み出した「極上の毛並み」だった。
しかし、その平和な空気を切り裂くように、銀髪の騎士団長サフィニが鋭い声を上げた。
「……貴様、離れろ。その男から、そしてその獣からもだ」
サフィニはパルゥを、国難を救う「最高兵器」として、軍の管理下に置こうとしていた。彼女はジヴの喉元に冷たい剣先を突きつけ、厳しい表情で言い放つ。
「その獣は『天嵐獣』。我が国の至宝だ。どこの馬の骨かもわからぬ下働きが、気安く触れていいものではない。王命により没収する」
ジヴは顔色一つ変えず、パルゥの小さな前足をそっと持ち上げた。彼にはギフト【黄金の指】によって、サフィニの鎧の奥から立ち上る「黒いモヤ」が見えていた。それは職務への緊張などではなく、パルゥの輝く毛並みを目の当たりにしたことで抑えきれなくなった、猛烈な「もふもふ欠乏症」の渇きだった。
「サフィニさん、あなたも気づいているんでしょう?この子から漂う、抗いがたい匂いに」
「なっ……!何を根拠に……!」
「わかりますよ、揉み師ですから。それに、あなたも先ほどから鼻がピクピク動いています」
ジヴは、洗いたてのパルゥの肉球を、サフィニの鼻先へと差し出した。それは単なる動物の匂いではない。ジヴの『薬草洗浄オイル』とパルゥの神聖な魔力が混ざり合い、オーブンで焼きたてのナッツのような、香ばしく、どこか懐かしい魔性の芳香を放っていた。
「……っ!?」
サフィニの身体が、ビクリと震えた。香ばしいナッツの香りが鼻腔を駆け抜け、彼女の強固な理性の中枢を一瞬で焼き切る。
「な、なんだこれは……。温かい……そして、香ばしい……。全身の力が、抜けていく……」
白銀の剣が石畳に落ちた。サフィニは崩れ落ちるように膝をつき、夢遊病者のような手つきでパルゥの小さな足に顔を寄せた。
「ああ……。今まで、私は何のために戦ってきたのだ……。守るべきは国ではない……この、肉球だ……」
王国最強の騎士団長は、ピンク色のグミのようにぷにぷにとした肉球に顔を埋め、深く、深く呼吸を繰り返した。先ほどまでの厳格な殺気は霧散し、その表情は極上の幸福感に弛緩しきっている。
ジヴは、満足げにパルゥの頭を撫でた。これで敵国将軍だけでなく、自国の騎士団長までもが味方――もとい、この「極上の毛並み」の虜になったのだ。
「わかりました。ではサフィニさん、今日からあなたもこの子の『護衛役』として、僕のケアを手伝ってください。兵器としてではなく、この安らぎを守るために」
「護衛……。ああ、喜んで引き受けよう。いや、引き受けさせてくれ!」
こうして、王国最強の騎士は自ら「肉球観測員」を志願するに至った。だが、その様子を広場の影から、冷徹な計算を孕んだ瞳で見つめる男がいた。
糸目の細身な老人、宰相カドゥルである。
「ふむ……。天嵐獣の力で敵将を退け、我が国の騎士団長まで懐柔するとは。あの少年ジヴ……うまく使えば、最高の『外交カード』になりますな」
カドゥルは、天嵐獣パルゥを国家の道具として利用するべく、静かに歩み寄り始めた。




