第15話 毎日が、ぱふぅ。
「極上毛並み特区」の朝は、あまりにも平和で、そして香ばしい「ポップコーンの匂い」から始まる。ジヴの隣で丸まり、琥珀色の毛並みを朝日に輝かせながら眠るパルゥが、夢の中で肉球を動かしているのだ。そのあまりに幸福な寝顔と至高の触感に包まれ、ジヴは「ああ、今日も世界は平和だ」と確信しながら目を覚ますのが日課となっていた。
特区での生活は、今やオース・エルフェン王国の日常の一部となっていた。かつて滅亡の危機に瀕していた国は、今や世界中から「癒やし」を求めて人々が訪れる聖地へと変貌を遂げている。ジヴの仕事は、特区の最高責任者として、絶え間なく訪れる獣たちのコンディションを整えることだ。
「たん、たん、たん」
特区の広場では、今日もジヴの軽快なリズムが響いている。彼の【黄金の指】が、巨大な老犬の背中を叩き、長年の凝りを解きほぐしていく。その一打ごとに、犬の表情から険しさが消え、トロリとした恍惚の表情へと変わっていく。隣では、エプロン姿が板についた弟子・メゼールが、小鳥たちの羽を一本ずつ丁寧にブラッシングしていた。
「師匠、この子の左翼、わずかに風の抵抗を強く感じます。……修行が足りませんか?」
「いや、いい筋だよ、メゼールさん。慈しみの心が見事に指先に乗っている」
かつての「死神」と「揉み師」のやり取りは、特区を訪れる観光客たちに微笑ましく見守られていた。メゼールは真剣そのもので、パルゥの抜け毛で練習を積んだ成果を、今や小さな命のために捧げている。
広場の一角では、騎士団長サフィニが「パルゥ専用・特製お昼寝クッション」の検品に余念がない。
「ジヴ殿、このクッションの沈み込みは深すぎる。パルゥ殿の腰痛に繋がっては一大事だ」
彼女の騎士としての情熱は、完全に「パルゥの環境管理」だけに注がれていた。
さらに宰相カドゥルが、外交書類を手に糸目を細めて現れる。
「ジヴ殿、隣国の国王が『うちの秘蔵の馬を洗ってくれるなら、関税をゼロにする』と申し出てきましてね……」。
平和は、ジヴの指先が生み出す「ぱふぅ外交」によって維持されていた。
だが、その安らぎを切り裂くように、一人の伝令兵が血相を変えて駆け込んできた。
「ジヴ様!西の国境付近の村が、正体不明の『黒い霧を纏った猫』に襲撃されました!人的被害はないものの、その猫に触れられた家畜たちが次々と重度の『毛並み不全』に陥り、狂暴化しています!」
ジヴの顔から笑みが消えた。報告書には、バルガルド帝国の残党が使う特殊な呪印の紋章が記されていた。その「猫」は、人間に懐かないどころか、触れるもの全ての生命力を吸い取り、ガサガサの「不毛の」地へと変えてしまう呪いの媒体として放たれたのだ。
「……なるほど。帝国の技術を悪用しようとする連中は、まだ闇の中に潜んでいるみたいだね」
ジヴは静かにブラシを腰のホルダーに収めた。
「ジヴ殿、我ら騎士団の出番だな」
サフィニが鋭い眼光で剣を帯びるが、ジヴは首を振る。
「いいえ、パルゥと僕の出番です。そんなに凝り固まった子が放置されているなんて、揉み師として放っておけません。パルゥ、行こうか。世界を絶望させるほどの『ガサガサ』なら、僕たちが全部解きほぐしてあげないと」
「ぷきゅー!」
パルゥがジヴの肩に飛び乗り、勇ましく鳴く。例え相手が帝国の呪いだろうと、ジヴの指先が届く限り、その毛並みには必ずお日様の匂いが宿るのだ。
特区の入り口には、今日も世界中から「揉んでほしい獣」が列をなしている。ジヴはパルゥと共に、次なる戦場――いや、次なる「最高の手入れ場所」へと向かう準備を始めた。
特区の中央では、かつての「殺戮獣」、ジヴに救われた紺青の豹が、静かにその美しい毛並みを波立たせ、主人の帰りを待つように伏せている。メゼールは新たなブラシを研ぎ、サフィニは馬車に最高級のバスタオルを積み込んだ。
「毎日が、ぱふぅ。」
ジヴが呟くと、パルゥもまた満足げに鳴いた。琥珀色の毛並みが守られる限り、この世界はまだ、やり直せるはずだ。
(おしまい)




