第14話 極上毛並み特区の誕生
帝国の宮廷魔導師ゾルディスが、パルゥの放つ「お日様の匂い」に屈し、中庭で膝をついたあの日から数日。オース・エルフェン王国を覆っていた滅亡の影は、奇跡的な大団円によって完全に霧散した。王城の大広間では、国王自らがジヴとパルゥを前にし、仰々しく、しかしどこか晴れやかな顔で宣言を行っていた。
「救国の英雄、ジヴよ。貴殿の『黄金の指』と、伝説の神獣パルゥの力なくして、我が国の存続はなかった。この功績に対し、余は相応の報奨を与えたい。……そこでだ。王都に隣接する広大な離宮とその庭園一帯を、貴殿が管理する『極上毛並み特区』として定める。ここは王宮の直轄地であり、貴殿にはその最高責任者たる『琥珀浄化男爵』の称号を与えよう!」
ジヴは深く頭を下げた。彼が望んだのは権力ではなく、ただ獣たちが本来の輝きを取り戻せる「最高の作業場」だった。だが、この特区は決してジヴの独占物ではない。糸目の宰相カドゥルは、すでにこの特区がもたらす「圧倒的な外交的利益」を計算していた。
「ジヴ殿、この特区は我が国の『平和の象徴』となります。他国の要人を招待し、この至高の質感を体験させれば、誰もが剣を抜く意欲を失うでしょう。……いわば、世界最強の『癒やしによる抑止力』ですな」
カドゥルはそう言って事務的に笑ったが、一通りの説明を終えて文官たちが退室すると、彼はジヴにだけ聞こえるような小さな声で、ぼそっと付け加えた。
「……それと、ジヴ殿。公務が深夜に及んだ際……パルゥ殿の、あの『ポップコーンの匂いがする肉球』を、ほんの五分ほどで良いので貸していただきたい。私の不眠症には、あれしか効かぬのです」
さらに、国王までもが、去り際にジヴの肩を叩きながら耳打ちした。
「……余の愛犬のコーギーだがな、最近、足の調子が悪いのだ。……こっそり、あの『たん、たん、たん』というやつを頼めるか?誰にも言わないでこっそりとな」
王国の頂点に立つ者たちもまた、重い責任に凝り固まった身体を解きほぐす「個人的な癒やし」を、ジヴの指先に求めていたのだ。
特区の開拓は、かつてない熱量で進んだ。ジヴの右腕となったのは、騎士団長サフィニだ。彼女は今や、「特区の警備」という名目で、公務の大半をパルゥの毛並みチェックに費やしていた。「ジヴ殿、今日のパルゥは静電気の蓄積が微増している。ブラッシングのリズムを0.5秒早めるべきではないか?」もはや彼女の分析は、騎士の戦術分析の域を超え、重度の毛並み愛好家のそれとなっていた。
さらに、帝国を裏切りジヴの弟子となったメゼールも、特訓の成果を発揮していた。彼は巨躯に似合わぬ繊細な手つきで、特区に運び込まれる傷ついた獣たちの「予備洗浄」を担当している。「師匠、この野ウサギの毛並み……左足の付け根にわずかな凝りを感じます。私の指圧、見ていただけますか」かつての「死神」が、ウサギを愛おしそうに撫でる姿は、今や特区の日常となっていた。
ジヴの【黄金の指】の噂は、国境を越えて瞬く間に広がった。「あそこに行けば、どんなにガサガサになった肌も、針のようになった毛並みも、天上の感触に生まれ変わる」その噂を聞きつけ、特区の入り口には毎日、世界中から多様な獣たちが長い列を作った。
重い荷を運び続けて毛がゴワゴワになったラクダ。戦場を駆け抜け、泥と血がこびりついた軍馬。そして、人間に怯えて毛を逆立て、心が凝り固まった野良猫たち。
ジヴはそれら全てを、差別することなく迎え入れた。
「たん、たん、たん」
特区には、絶えずこの心地よいリズムが響いている。ジヴが指を動かすたび、獣たちの瞳から殺気が消え、代わりに柔らかな光が宿る。特区の空気は、パルゥから放たれるバニラの香りと、浄化された獣たちが放つ「お日様の匂い」で満たされ、足を踏み入れるだけであらゆるストレスが溶けていく、文字通りの楽園となっていた。
パルゥはといえば、特区の中央にある特等席――ジヴの膝の上で、「もちっ」と鎮座している。新しく来た獣たちが緊張していれば、パルゥはトコトコと歩み寄り、その琥珀色の毛を「すりっ」と押し当てる。それだけで、どんな猛獣も毒気を抜かれ、ジヴのマッサージを受け入れるようになるのだ。
平和は、暴力ではなく、至高の手入れによって維持される。ジヴとパルゥの理想郷作りは、国家の利益と個人の切実な要望を巻き込みながら、最高のコンディションで加速していた。




