第11話 弟子、あるいは帝国の裏切り者
王宮の一角、陽光が降り注ぐテラス。そこには、かつてバルガルド帝国の「鉄血の壊滅者」として恐れられたメゼール将軍が、額に大粒の汗を浮かべて立ち尽くしていた。その巨体には、王宮の掃除係と同じ簡素なエプロンが巻かれ、右手にはジヴから手渡された一本の「最高級豚毛ブラシ」が握られている。
「……違うよ、メゼールさん。今のは毛根の意思を完全に無視している。やり直し」
ジヴの容赦ない言葉が飛ぶ。メゼールは「はっ、申し訳ございません、師匠!」と、まるで戦場で上官の命令を聞くかのような直立不動で応じた。
「ジヴ殿……。戦場での陣形掌握や、魔獣を力でねじ伏せる術ならば熟知しているつもりだった。だが、この『ブラッシング』という名の儀式……これほどまでに奥が深く、そして繊細な精神修養が必要だとは、思いもよらなかった……」
メゼールは再び、練習台の上に置かれた「パルゥの抜け毛」へと向き合った。ジヴの教えは厳しい。単に毛を梳かすのではない。毛先から伝わる微かな抵抗を感じ取り、皮膚の深層にある「凝り」や「淀み」を察知し、それを指先とブラシを通じて優しく解き放たねばならないのだ。
「メゼールさん、肩の力が入りすぎです。それではパルゥの琥珀色の輝きを殺してしまいます。もっと、指先に『黄金の波動』を乗せるイメージで……そう、『たん、たん、たん』のリズムですよ」
「た……たん……たん……たん……」
帝国最強の元将軍が、パルゥ人形を相手に、眉間にシワを寄せて必死にリズムを刻む姿は、端から見ればこの上なくシュールだった。通りがかったサフィニが、その光景を見て思わず二度見し、口元を抑えて立ち去ったことにもメゼールは気づかない。彼は今、自らの禍々しい魔力を、この琥珀色の繊細な毛並みを傷つけないための「愛の力」へと変換する、人生最大の修行の真っ最中なのだ。
一刻ほど修行を続けた後、ジヴが淹れた「バニラの香りが漂うハーブティー」を啜りながら、メゼールはついに重い口を開いた。それが、ジヴに弟子入りしたもう一つの理由――帝国の魔獣兵器に関する情報の暴露だった。
「ジヴ殿。……俺が帝国を離れたことで、本国はいよいよ禁忌の手段に出るだろう。バルガルドには、生物の『感情』そのものを外科的に、あるいは呪術的に切除し、ただの生体部品として扱う技術があるんだ」
「……感情を、切除?」
ジヴの手が止まる。メゼールの語る内容は、想像を絶する非道なものだった。彼らが作り出す魔獣兵器には、毛並みの美しさも、撫でられる喜びも存在しない。痛覚を麻痺させられ、ただ破壊の命令に従うためだけに生命エネルギーを燃やし続ける、肉の塊。
「奴らにとって、獣は慈しむべき存在ではなく、摩耗する道具に過ぎない。俺もかつては、そのシステムの一部だった。……だが、ジヴ殿。あなたの指に救われ、パルゥの温かさを知った今、俺はあんな地獄をこれ以上増やしたくはない」
メゼールが暴露した情報にジヴは、パルゥの琥珀色の頭を優しく撫でながら、静かに、だが烈火のような怒りを胸に宿した。
その時だった。王宮の防空網が、突如として無音のまま「消滅」した。中庭の中央、空間が不自然に歪み、そこから真っ黒な泥のような魔力が溢れ出す。現れたのは、一匹の巨大な黒豹に似た異形だった。だが、その獣には一切の「毛」がない。皮膚はどす黒い呪印で埋め尽くされ、筋肉の動きがダイレクトに視認できるほど、その体表は無防備かつ無機質だった。目は虚空を見つめたまま、ただひたすらに「殺気」だけを放射している。
「……来たか。帝国の放った刺客、『感情を消した殺戮獣』だ」
メゼールがブラシを置き、瞬時に戦士の目に戻る。だが、彼の手には剣ではなく、先ほどまで握っていたブラシがあった。
「パルゥ、サフィニさんのところへ!……メゼールさん、修行の成果、ここで見せてもらいましょう。武器ではなく、その指先で、この子の『痛み』を解いてあげましょう」
ジヴは逃げなかった。殺戮獣が音もなく地を蹴り、その鋭い鉤爪がジヴの喉元へ迫る。しかし、ジヴの【黄金の指】は、その醜い獣の奥底に、押し殺された、あまりにも悲しき叫びを捉えていたのである。




