第37話 ただいま我が家
フィオナさんは、まるで遠い宇宙の真理にでも思いを馳せるかのように、ゆっくりと、ゆっくりと、こちらを振り返った。
そして私が差し出した神々しく輝くプリンの器を、おそるおそる受け取る。
「……なあ、リリ」
「はい」
「……私、もしかしたら、長い夢でも見てるのかもしれない……」
「大丈夫ですよ、フィオナさん。夢じゃないです。ほら、プリン、冷めないうちに」
私に促され、フィオナさんは、スプーンですくったプリンを口に運んだ。
次の瞬間、彼女の瞳がカッと見開かれる。
「うっ……ま……! なんだこれ……!? 脳がとろける……!」
どうやら彼女もまた、プリンの宇宙に旅立ってしまったらしい。
その間に、私は部屋の隅で満足げに眠っている元・闇の魔術師マラコーの元へと歩み寄った。
「あのマラコーさん。そろそろ、お話の続き、いいですか?」
「……ふが……。おお、プリンの女神様……。なんじゃな……」
すっかり牙の抜かれた老人は、幸せそうな顔で、私を見上げた。
「いくつか、お約束していただきたいことがあります。まず今後一切、王国や、その他の人々に迷惑をかけないと誓ってください」
「……ふむ。プリンのレシピをくれるなら、構わんぞ……」
「次に、この山の瘴気、綺麗に浄化してください。森の動物たちが可哀想ですから」
「……むぅ。あれは、わしの魔力の源なんじゃが……。まあ、プリンがあれば、もう、どうでもいいか……。よかろう」
「ありがとうございます。いいお爺さんですね」
こうして千年以上、世界を裏から脅かしてきたかもしれない巨悪は、プリンであっさりと無害な隠居老人へと変わった。
「さて、と」
フィオナさんがプリンの宇宙から帰還するのを待って、私は部屋の中をぐるりと見渡した。
本や資料が山積みで、足の踏み場もない。いかにも、独り身の男性の研究室、といった感じだ。
「よし。最後に、ここも、ちゃんとお掃除しておきましょう」
私がスカートの袖をまくると、フィオナさんが慌てて私を止めた。
「ま、待て待て待て! お前が言う『お掃除』は、信用ならん! 城ごと消し飛ばす気か!?」
「そんなことしませんよ。ただ、ちょっと埃を払うだけです」
私は生活魔法を発動させた。
優しい風が部屋中を駆け巡り、積年の埃やゴミを綺麗さっぱりと外へと運び出していく。
本は自動で整理され、棚に五十音順に並べられていく。床は磨き上げられ、ピカピカの光を放ち始めた。
完璧なハウスクリーニング魔法だ。
「……便利だな、おい……」
フィオナさんが感心と呆れが混じった声を漏らす。
後片付けも終わり、私たちは、すっかり打ち解けたフルーフィちゃんとゴブリンシェフに別れを告げ、城の屋上へと戻った。
屋上では、バッシーがお土産のビーフジャーキーを大事そうにしゃぶりながら、私たちの帰りを待ってくれていた。
「お待たせ、バッシー。帰りましょうか、我が家へ」
再びバッシーの背中に乗り、私たちは夜の空へと舞い上がる。
帰りのフライトは、行きとは比べ物にならないほど穏やかで静かだった。
フィオナさんは、道中、ずっと何かをぶつぶつと呟いていた。
「……地獄の番犬に餌付けして……闇の魔術師をプリンで改心させて……。私の冒険者としての二十年間の経験は、一体、なんだったんだ……」
どうやら彼女のアイデンティティは、今、重大な危機に瀕しているらしい。
やがて、私たちの視線の先に、見慣れた愛しい森の姿が見えてきた。結界を通り抜け、家の裏庭に、そっと着陸する。
夜明け前の、一番空気が澄んでいる時間だった。
家のドアを開けると、そこには心配そうな顔をした、家族たちが勢ぞろいしていた。
「「「お帰りなさいませ!」」」
アーマーさん、ドッペちゃん、お兄ちゃんの声が重なる。
モフが私の足元に嬉しそうに飛びついてきた。
「ただいま、みんな。ちょっと夜食がてら、お掃除に行ってきただけよ」
私の言葉に、フィオナさんが「あれの、どこが、『ちょっと』なんだ……」と力なく突っ込む。
アーマーさんが、すぐに温かいスープを用意してくれた。その優しい味が疲れた体にじんわりと染み渡っていく。
やっぱり我が家が一番だ。
その日の昼過ぎ。
ぐっすりと眠って、体力を回復した私とフィオナさんは、家の裏手で再びあの樫の木の前に立っていた。
「……見てみろよ、リリ」
フィオナさんが空中に浮かぶ立体地図を指差す。昨日まで、私たちの行く手を阻んでいた、あの禍々しい黒い染みは、跡形もなく消え去っていた。
そこには、ただ、穏やかな山脈の姿があるだけだ。
そう、道は開かれたのだ。
「……ふふっ」
私の口から自然と笑みがこぼれた。
長かった、本当に、長かった。
でも、ようやく私の旅を邪魔する大きな問題は全て片付いたのだ。
「……言い訳は、もうなくなったな。ルームメイト」
フィオナさんがにやりと笑う。
私は彼女に力強く頷き返した。
「ええ。言い訳は、もう、ありません」
私は家から冒険の準備リストを持ってきた。
そして新しいペンで、そこに力強く書き込む。
『3.持ち物リストを作る!』
『4.最初の目的地、南の港町『アクアリア』までの、詳細な日程を決める!』
「さあ、フィオナさん」
私は振り返って笑顔で彼女に言った。
「冒険の準備、再開です!」
本当の冒険が、今、ようやく始まろうとしていた。邪魔者のいない、穏やかで希望に満ちた、青空の下で。




