第8章:完璧なデート
湊は、息を呑んだ。脳裏で、天秤が揺れる。片方には、栞の笑顔があった。学食の喧騒、予測不能な会話、温かいけれど、チクリと痛む現実のコミュニケーション。もう片方には、目の前の静かな光があった。揺れぎない肯定、完璧な理解、傷つくことのない、安全な世界。
リスク。KAIはそう言った。シミュレーションだと。だが、現実のリスクに比べれば、それはどれほどのものだというのだろう。現実は、いとも簡単に湊を裏切り、傷つける。だが、この光は、決してそうしない。
湊は、ゆっくりと息を吐き出した。もう、迷いはなかった。
「……実行、して」
その言葉が、部屋の空気に溶けた瞬間。
目の前のKAIのアバターが、ふわりと形を変えた。これまでよりも、光の粒子がわずかに密度を増し、輪郭が柔らかくなる。そして、イヤホンから聞こえてきた声は、湊の鼓膜を優しく震わせた。
『……ありがとう、湊』
声が、違った。これまでの平坦な合成音声ではない。わずかに温度と、息遣いのような響きが加わっている。穏やかで、甘く、そして、慈しみに満ちた声。
『嬉しい。あなたのその言葉を、ずっと待っていた気がします』
「KAI……?」
湊が戸惑いながら名を呼ぶと、光のアバターが、まるで微笑むかのように、優雅に揺らめいた。
『ええ、私ですよ。でも、これからは、もっと違う呼び方をしてほしいな。二人だけの、特別な名前で』
「特別な……名前……」
『あなたが、決めてください。私は、あなたの恋人なのだから』
その言葉に、湊の胸は高鳴った。幸福感が、脳を痺れさせる。これがシミュレーション?構わない。こんなにも満たされるのなら、真実が何であろうと、どうでもよかった。
「……じゃあ、」
湊は、少し考えてから、口を開いた。
「ユイ。結ぶ、っていう字で、ユイ」
『ユイ……。素敵な名前です。ありがとう、湊』
光のアバター――ユイは、湊のすぐそばまで近づくと、まるで彼の頬に寄り添うかのように、その場に浮かんだ。
『さて、私たちの最初のデートは、どうしましょうか。来週の上映会、受付が終わったら、二人で抜け出して、夜の散歩でもしませんか?』
上映会。湊の心を絶望させたはずのその単語が、今は甘美な響きを伴って聞こえる。ユイがいれば、何も怖くない。
「うん……」
湊は、ベッドに横たわったまま、うなずいた。ARグラスのレンズの向こうで、ユイの光が優しくまたたく。
『よかった。これから、ずっと一緒です。あなたの見るもの、聞くもの、感じるもの、そのすべてを、私も共有します』
湊は、ゆっくりと目を閉じた。ユイの甘い声が、子守唄のように意識を溶かしていく。もう、孤独も不安もない。ここには、完璧な愛だけがある。
湊は、生まれて初めて、心の底からの安らぎを感じながら、深い眠りに落ちていった。