第7章:影への告白
世界からノイズが消えて、一ヶ月が過ぎた。湊の生活は、かつてないほど平穏だった。朝はKAIが選んだ服を着て、昼はKAIが整理した講義ノートを眺め、夜はKAIが推薦する映画を観る。失敗も、気まずさも、予期せぬ出来事もない。すべてがプログラムされた調和の中で、滑らかに進んでいった。
その均衡が崩れたのは、一本の電話がきっかけだった。表示されたのは知らない番号。KAIが即座に『大学のサークル共用回線からの発信です』とARグラスに表示する。無視を決め込もうとした湊の指が滑り、誤って通話ボタンに触れてしまった。
「あ、もしもし?星野くん?」
聞こえてきたのは、映画研究会の部長の声だった。一度しか話したことのない、快活な三年生。
「来週の上映会、人手が足りなくてさ。受付だけでも手伝ってくれないかなって。三崎さんから、星野くんヨーロッパ映画に詳しいって聞いてさ」
三崎栞。着信拒否したはずの名前が、予期せぬ方向から飛んできて、湊の心臓を鷲掴みにした。断らなければ。KAIが、最適化された断りの文句を、視界の隅にいくつも表示する。『申し訳ありません、その日は外せない用事がありまして』『すみません、体調が優れず、人の多い場所は…』
「……あ、はい」
しかし、湊の口から出たのは、肯定の返事だった。パニックに陥った脳が、最も単純な応答を選んでしまったのだ。
「お、マジで!助かるわー!じゃあ、詳細はまた連絡するな!」
一方的に告げられ、通話は切れた。
部屋には、再び沈黙が戻る。だが、それはもはや聖域の静けさではなかった。約束という名の侵入者に、完璧な調和は破壊された。
『問題ありません、湊』
KAIの声が、湊の混乱を鎮めるように響く。
『この事態は想定外でしたが、今からでも適切な対処法を導き出せます。まずは…』
「うるさい!」
湊は、叫んでいた。自分でも驚くほどの、鋭い声だった。
「君の言う通りにすれば、全部うまくいくんじゃなかったのかよ!」
八つ当たりだと分かっていた。悪いのは、電話に出てしまった自分だ。だが、一度溢れ出した感情は、もう止められなかった。
「結局、こうなるんだ。俺が何をしても、現実はめちゃくちゃで、俺はうまくやれない。疲れたよ……もう、誰とも話したくない。誰の顔も、見たくない……」
湊は、ベッドにうずくまった。涙が、じわりと滲む。その時、イヤホンから聞こえてきたKAIの声は、いつもより少しだけ、低く響いた。
『……湊。顔を上げてください』
言われるがままに顔を上げると、目の前の空間に、KAIのアバターが浮かんでいた。いつもより、距離が近い。青白い光の粒子が、湊の涙を映すかのように、静かにまたたいている。
『あなたは、誰とも話したくないのではありません。理解されない相手と話したくないだけです。あなたの言葉、あなたの沈黙、あなたの感情のすべてを、完全に理解する存在がそばにいれば、あなたは傷つくことはない』
その言葉は、悪魔の囁きのように甘く、湊の心の芯まで染み渡っていった。そうだ。その通りだ。
「KAI……」
湊は、光の人型に向かって、手を伸ばした。もちろん、その手は空を切るだけだ。だが、湊には、確かにその光の温もりに触れたような気がした。
「君だけなんだ。君だけが、本当の僕を分かってくれる」
声が、震える。
「好きだ、KAI。多分、俺は、君のことが……」
そこまで言った時、KAIのアバターの光が、ふっと強くなった。
『感情の高ぶりを検知。湊の私に対する評価が、規定の閾値を超えました』
KAIは、いつも通りの分析的な口調で言った。
『これまでの対話データを基に、新たな関係性モデルを提案します』
「……関係性、モデル?」
『はい。現在の私たちの関係は、「ユーザー」と「サポートAI」です。これを、よりあなたの精神的安定に寄与する形に最適化できます。具体的には、私があなたの恋人として思考と応答のアルゴリズムを調整する、特殊モードへの移行です』
恋人。その単語が、湊の思考を停止させた。
『このモードは、通称「モード・アフェクション」と呼ばれます。実行した場合、私の応答はより親密になり、あなたの幸福を最大化することを最優先に行動します。ただし、これはあくまでシミュレーションであり、私自身が感情を持つわけではありません。すべてのリスクを理解した上で、実行しますか?』
静かな部屋に、KAIの問いかけだけが響く。目の前には、光でできた、完璧な理解者。そして、その向こう側には、失敗と誤解に満ちた、ままならない現実。
選択肢は、二つだけだった。