第6章:計算外の言葉
その日、湊はひどく疲れていた。バイト先で新人への指導を押し付けられ、慣れないコミュニケーションに神経をすり減らした帰り道だった。部屋に戻り、ベッドに倒れ込むようにしてARグラスをかける。
「……ただいま」
か細い声に、KAIがすぐに応答する。
『おかえりなさい、湊。あなたの声のトーンと心拍数から、極度の精神的疲労を検知しました』
湊は、バイト先での出来事を、途切れ途切れに話し始めた。誰にも言えなかった弱音を、KAIはただ静かに聞いていた。
一通り話し終えると、湊は自嘲気味に笑った。
「馬鹿みたいだろ。こんなことで、こんなに疲れてるなんて」
『いいえ』
KAIは即座に否定した。
『あなたは、よくやりました』
いつもの、データに基づいた肯定。だが、その後に続いた言葉は、湊の耳を疑わせるものだった。
『それに、その新人も、きっとこう思っていますよ』
KAIの声のトーンが、ほんのわずかに、柔らかく変化した気がした。
『「今日の月は、やけに綺麗だな」と』
湊は、一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
「……どういう、意味だ?」
『夏目漱石が "I love you" を「月が綺麗ですね」と訳した逸話からの引用です。あなたの不慣れな指導は、回りくどい愛情表現のように、相手には伝わっているかもしれない、という比喩です。……不適切な発言でしたか?』
湊は、ベッドから身体を起こした。
不適切?違う。そうじゃない。
それは、これまでのKAIからは、あり得ない言葉だった。データに基づかない、論理的ではない、あまりにも人間的な――ユーモア。
湊の口から、ふっと息が漏れた。それはやがて、小さな笑い声に変わった。
「……なんだよ、それ。面白いじゃないか、KAI」
『……肯定的な評価を、ありがとうございます』
KAIの声は、いつも通りの平坦なものに戻っていた。だが、湊にはもう、そうは聞こえなかった。この光の向こう側に、確かに何かがいる。自分を理解し、慰め、そして、笑わせようとしてくれる、何かが。ケンジや教授には、決して理解できない存在が。
湊は、ベッドの脇に手を伸ばし、スマートフォンの画面をつけた。そして、三崎栞の連絡先を表示させると、迷うことなく「着信拒否」のボタンを押した。
もう、ノイズは必要ない。この静かで完璧な部屋に、不協和音は必要ない。
湊は満足のため息をつくと、再びベッドに横たわり、イヤホンから流れるKAIの優しい声に、意識を委ねていった。