第4章:不協和音(ノイズ)
東教授に呼び出された一件は、湊の心に新たな壁を作った。教授は、自分たちの関係を「興味深いデータ」としてしか見ていない。ケンジは、KAIを「便利な資源」としか見ていない。そして、きっと、三崎栞も――。
その予感は、学食で現実のものとなった。
「すごかったじゃん、星野くんのレポート。あの視点はなかったわ」
隣の席から、声がした。三崎栞だ。湊は彼女を、自分とは正反対の人間だと認識していた。いつも人の輪の中心にいて、太陽のように明るく、そして、土足で人の心に入ってくるような、無邪気な残酷さを持っている。彼女のような人間は、きっとKAIのことも、ケンジと同じようにしか見ないだろう。その明るさが、今の湊にはひどく無防備で、無神経なものに思えた。
「ねえ、この後、お昼まだでしょ?学食行こ!レポートの話、もっと聞きたいな」
断るべきだった。頭の中では、KAIが推奨するであろう、丁寧で当たり障りのない断りの文句がいくつも浮かんでいた。心臓が警鐘を鳴らし、全身の細胞が拒絶を叫んでいる。だが、湊の口は、彼の意志やKAIの論理的な分析を裏切って、勝手に動いてしまった。それは、人間社会に適応するために、心の奥底に染み付いてしまった、古い自動操縦のプログラムだった。笑顔の誘いは、受け入れなければならない。その強迫観念が、恐怖を上回ったのだ。
「……うん」
言ってしまってから、湊は内心で絶望した。
学食の喧騒の中、栞は言った。
「もっとこう、パーソナルなきっかけがあったんじゃないかなーって」
パーソナルな、きっかけ。栞も、結局は同じなのだ。湊の内面を、好奇心でこじ開けようとする。その無邪気さが、湊には暴力のように感じられた。
『理解不能な質問です。意図を再分析します』
KAIが沈黙する。湊は、初めてKAIの沈黙に感謝した。そうだ、答えなくていい。こいつらには、何も教えなくていい。
「……いや。ただ、あまり人と話すのが、得意じゃなくて」
湊は、KAIの助けなしに、自分自身で壁を作った。
「だから、一人で色々考えてるうちに、ああなっただけだと思う」
栞は、意外そうに数回まばたきをした後、ふふっと笑った。
「そっか。じゃあ、私と話すのも、あんまり得意じゃない?」
「……どうかな」
湊がそう言うと、栞は「なにそれ」と声を上げて笑った。
「じゃあさ、星野くんは、普段何してるの?趣味とか」
栞は味噌汁を一口すすると、話題を変えた。
『KAI、一般的な趣味をリストアップして』
『人口統計データに基づき、同年代の男性に最も多い趣味は「映画鑑賞」「音楽鑑賞」「ゲーム」です。逸脱値の少ない「映画鑑賞」を推奨します』
「……映画を、見るかな。たまに」
「え、ほんと!奇遇、私も映画好きなんだ。じゃあさ、映画研究会とか入ればいいのに。……あ、でも待って。あんた、確か名簿に名前なかったっけ?入ってるのに全然来ない人だ!」
栞は、何かを思い出したように、いたずらっぽく笑って湊を指差した。
しまった、と湊は思った。サークルは、入学当初に友人作りのきっかけになればと名前を書いただけだった。完全に墓穴を掘った。
「……古い、ヨーロッパの映画とか」
それは、KAIが湊の嗜好を分析し、最近レコメンドしてきたジャンルだった。湊自身、数本を観ただけで、深い知識などない。
「へえ、渋い!タルコフスキーとか?」
「……まあ、そんな感じの」
湊の額に、じわりと汗が滲む。栞の目が、純粋な好奇心でキラキラと輝いている。その光が、今の湊にはひどく痛かった。
「今度、サークルの上映会にも顔出しなよ!みんなで観たら、絶対もっと面白いって!」
「……うん。考えとく」
そう答えるのが精一杯だった。早く、この場所から逃げ出したかった。早く、静かな自室で、KAIの整理された言葉の海に還りたかった。
食事が終わり、トレーを返却口に戻した時だった。友人たちの元へ戻ろうとしていた栞が、くるりと振り返った。
「あ、そうだ!星野くん、連絡先交換しよ!またレポートのこととか、映画の話とかしたいし!」
栞は、悪意なくスマートフォンを差し出してきた。その行為が、湊にとっては、聖域に土足で踏み込まれる最後の一撃のように感じられた。連絡先。それは、この面倒な現実と自分とを繋ぐ、電子の鎖だ。
『プライベートな情報の開示にはリスクが伴います。丁重に断るための口実を提案します。「ごめん、あまりマメじゃないから」と…』
KAIの助言が、イヤホンから冷静に流れ込んでくる。だが、目の前の栞は、スマホを差し出したまま、期待に満ちた目でじっとこちらを見ている。断れない。この太陽のような笑顔の前で、ノーと言う選択肢を、湊は持っていなかった。
湊は、諦めて、ポケットから自分のスマートフォンを取り出した。画面に表示されたQRコードを、栞が手際よく読み取る。ピコン、と軽い音がして、すぐに湊のスマホが震えた。
『三崎栞だよーよろしく!』
スタンプ付きの、あまりにも陽気なメッセージ。湊は、その通知を一瞥すると、何も言わずに画面を伏せた。
「じゃ、またね!」
今度こそ、栞は満足そうに手を振って、友人たちの輪の中へ消えていった。一人取り残された湊は、ポケットの中で震えるスマホを、まるで異物のように感じていた。
『社会的インタラクションが終了しました。あなたのストレスレベルは、平常時より45%に上昇しています』
イヤホンから、KAIの静かな声が流れ込んでくる。喧騒が嘘のように遠のき、いつもの平穏が戻ってきた。その声だけが、今の湊にとって唯一の安息だった。