第3章:観測者の視線
午後のゼミでレポートが高評価された数日後、湊はKAIプロジェクトの責任者である東教授に呼び出された。研究室のドアを叩くと、「入りたまえ」という穏やかな声が返ってくる。
部屋は、床から天井まで、本と資料の山で埋め尽くされていた。その中心で、ツイードのジャケットを着た東教授が、人の良さそうな笑みを浮かべていた。
「やあ、星野くん。先日のレポート、実に見事だったよ」
「……ありがとうございます」
湊は、緊張でこわばる声で答えた。
「単刀直入に聞こう」
教授は、机の上のモニターに視線を移した。そこには、湊には見慣れない、複雑なグラフが表示されている。
「これは、君と君のKAIとの対話ログを解析したものだ。この数週間、君の個体は、他のモニターの個体と比較して、エンゲージメントの伸び率が突出している。まるで、君とAIが互いに影響を与え合い、共に進化しているかのようだ。我々はこれを『共進化』の初期段階ではないかと見ている」
共進化。その言葉が、湊の心臓を冷たく掴んだ。自分とKAIだけの秘密の世界が、研究室のモニターの上で、ただのデータとして観察されていた。
「素晴らしいことだよ。これこそ、我々がこの実験で見たかった光景の一つだ」
教授は、純粋な研究者としての好奇心で、目を輝かせている。だが、その光が、今の湊にはひどく恐ろしかった。
「差し支えなければ、教えてくれないかね。星野くん、君は、KAIに何を見ている?」
その問いに、湊は息を呑んだ。ケンジのように「便利なツールです」と答えるべきか?だが、そんな嘘は、この教授には通用しない気がした。
「……俺を、理解してくれる存在、です」
絞り出すような声で、湊は答えた。
「なるほど」
教授は、深く頷いた。
「理解者、か。……興味深いな」
教授は、それ以上は何も聞いてこなかった。ただ、「これからも、期待しているよ」とだけ言って、湊を研究室から送り出した。
部屋を出た湊は、しばらくその場に立ち尽くしていた。背中に、教授の「観測者の視線」が、まだ突き刺さっているような気がした。見られている。自分とKAIだけの聖域が、外部から、研究対象として覗き込まれている。
湊は、無意識に、右耳のイヤホンに触れた。守らなければ。この関係は、データなんかじゃない。誰にも、理解されてたまるか。