亡くなった妻はバレンタインデーが四十九日目。夫と愛娘にメッセージとチョコを届けるために「にわかイタコ」となった女子高生が協力。
(Scene1)霊との邂逅
ほたほたと、街に大粒の雪が降ってきた。
弘前市内のケーキ店の娘、津島深雪が彼女の“存在”に気づいたのは、2月初めのある日の夕暮れ時、学校から帰宅途中、自宅兼店舗であるケーキ屋すぐそばの交差点だった。
「ねえ深雪、どうかした?急に立ち止まってさ。何見てるの?」すぐ隣を歩いていた友人の大森彩が深雪の視線に気づいて声をかけた。
やっぱり彩には彼女の姿は見えないんだ。彩の反応で確信するより前に、深雪には、その女性がこの世に存在する人でないことが分かった。深雪の家、津島家は。この地方で「イタコ」と呼ばれる霊媒師である祖母・八重を筆頭に霊霊感が強いと言われる家系だった。
深雪は子どものころから、普通の人には見えないものを見たり感じたりたりすることはしょっちゅうあった。街角にたたずんでいる人影や、なぜかお客さんをたくさん乗せて走って行く深夜の回送バスとか、気づいて気持ちいいものではなかった。怖い目に遭ったことはないけれど、その感覚が特別役立ったこともなく、まわりの人たちを見ていると、見えたり感じたりしない方がいいんだろうなー、と感じていた。絶対音感を持っている友人が、町にあふれる音を脳が全部音譜に変えてしまって辛いと言っていたが、それに近い感覚なのかもなんて思っていた。
交差点に立つその人は、降りしきる大粒の雪を照らし出す街灯の下で傘もささずに中空を見上げるように立っていた。よく見ると雪は彼女のあたまや肩に積もることなく、まるでからだをすりぬけて地表に降り注いでいた。彼女の身体が淡紫色のコートに包まれているのは見えるのだが、どこか心もとない影法師のように、その姿はなかば透き通っていた。
深雪には、彼女がこの世に存在する人でないことが分かった。それどころか深雪はこの女性が誰であるのかが分かっていた。
(Scene2)深雪と美雪の出会い
その人は、約1カ月前のクリスマスイブの日の、ちょうど今ほどの夕方の時間に、美雪の父が経営するケーキ店へ予約していたケーキを受け取りに来た女性だった。柔らかな色合にピンクのコートに、淡い空色のマフラー姿に深雪は、清潔感と品のよさを感じた。
接客したのは深雪本人だった。深雪は思い出していた。予約票には深雪とは字が違うけれど藤崎美雪と書いてあった。この人のお名前もみゆきさんっていうのだなと深雪は思った。深雪は「字は違いますが、あたしもみゆきっていう名前なんですよ」と短く会話したのだった。美雪はケーキの上に乗せるチョコレートのプレートに「MaryXmasさくら」と書いてほしいと深雪に頼んだ。さくらというのは娘の名前なのよ、といい「漢字では咲良って書くんだけどプレートの名前はひらがなでいいわ」と言い「おととしの12月生まれなんだけど今月2歳になったんです」と嬉しそうに微笑んだ。深雪は、美幸さんの声は、私が好きな深夜アニメの、あの声優さんの声に似てるな、と感じた。
ケーキが包装されるまでの間、美雪は店内を見渡し、チラシサイズポスターに気付いた。それは、早くもバレンタインデーの予約を承りますという気の早い父が用意したものだった。
「昨年こちらでいただいた、このバレンタインデーのチョコレート菓子の詰め合わせ、とても喜ばれたわ。今年もいただきたいわ。もう予約ができるのね」と美雪。
「その詰め合わせは《ラパン》のバレンタインデーの定番商品です、お買い上げありがとうございます父もきっと喜びます。なにか変更になったらお電話差し上げます」と答えて、深雪は、予約票とボールペンを美雪に渡し、記入を求め、美雪の予約を受けた。
(Scene3)交通事故
だが、藤崎美雪は、ケーキを持ってお店出て間もなく、まさにこの交差点で、突然歩道に突っ込んできた自動車にはねられるという事故に遭遇した。
事故の原因は、運転手が運転中にペットボトルのふたを開けようとしてハンドルから手を離してしまったのが理由だったらしい。
車は美雪をはねたあと、電信柱にぶつかって止まった。深雪は、大きな音に驚いて、店を飛び出し、雪が積もった冷たい舗道に倒れ込んでいる美雪に声をかけた。そして通りすがりの人に「早く救急車を」と要請して、深雪は濡れた歩道に膝まづいて、救急車が到着するまでの間、雪に濡れて冷えてしまっていた美雪の左手を握りしめていた。激しい出血を伴うような外傷はなさそうだったが、右手で腹部を抑え苦しそうにうなっていた。電信柱にぶつかって止まっている車の下にケーキの箱が潜り込んでいるを見つけたとき、深雪は、事故とはまた違う、悲しさといらだちを覚えた。深雪が、品のよさを感じた美雪のピンクのコートも泥んこだらけになっていた。
運転手は、運転席で呆然としているようだった。ネクタイを締めた、どこにでもいそうな、サラリーマン風の男性だった。「この人だって起こしたくて起こした事故じゃないのに、この先、とても重たい後悔を背負ってていくことになるんだろうな? ご家族だっていらしゃるだろうし、交通事故って、被害者はもちろん、加害者だって、ある意味では被害者だわ」
テレビで見た交通事故の特集番組で、コメンテーターが言っていた、そんなコメントを思い出して、深雪はやりきれなかった。
交通事故の現場に立ち会うのも、ケガをして倒れている人を見るのも初めてで、深雪は怖かったけれども、声掛けはせずにはいられなかった。何よりも美雪さん自身が今いちばん怖くて心細いはずだと思った。
「美雪さん、娘さん咲良ちゃんのためにも頑張って」深雪は声掛けしながら、祈り続けていた。
やがて救急車のサイレンが近づいて来た、交差点に停まると、救急隊員が急いで飛び降りて来て、美雪の身体をストレッチャーに移動させて、救急車の車内へと運び込んだ。
救急車はすぐには発車せず、車内では隊員たちが、応急処置をしているのが、曇りガラスの車窓越しに伺えた。
別の隊員は電話をしている。受け入れ先の病院と連絡し合っているらしかった。そして間もなく、救急車は、交差点とビルの谷間に再びサイレンの音を響かせながら、走って行った。
3日後、警察官が、ラパン」へ訪ねてきた。「事故の時、こちらのお嬢さんが、現場に居合わせたと、伺いました。詳しいお話しを聞かせていただけませんか?」と深雪に協力を求めて来た。
深雪は「事故の瞬間を目撃したとかいうワケではありませんが・・・」、と言いながら「はねられた女性の方、藤崎・・・美雪さんのご容態はいかがでしょうか」と、警察官に尋ねた。警察官は「残念なことに藤崎美雪さんは、搬送先の病院でお亡くなりになりました。事故から3日後の今朝のことでした」と、伝えてくれた警察官の表情も、悲痛だった
(Scene4)影法師
深雪が、美雪の影法師にはじめて気づいたのは、立春を過ぎたばかりの2月上旬の、日暮れ早い雪の日だった。
市役所の外壁に掲げられたデジタル表示の温度計がちょうど0度を示していた寒い日だった。
深雪は、友人の彩と交差点で別れ、店舗兼自宅へ向かった。帰宅するなり、美雪は祖母である八重の部屋を訪ねた。
「おばあちゃん、聞いてほしいことがあるんだけど、ちょっといい?」
深雪の祖母はこの地方でイタコと呼ばれる女性霊媒師だった。深雪は、祖母八重の部屋へ飛び込むなり、昨年末にお店のケーキを買ってくれたあと、交差点で亡くなった女性のこと覚えてる? と息せき切って言った。
「だめだよ」
八重は、深雪がまだ何も言わないうちにダメと言う。
「おばあちゃん、あたしまだ、何も言ってないよ」
「わかるさ。交差点の人のことだろう? あんた、事故のとき、あの人の手をにぎっていたんだっけ? あんたの背後にあの人の影が見えるんだ。あの人が交差点に立ってる様子なら、あたしも昨日の夕方、仏具屋へ行った帰りに見たよ。寂しそうにしてたね」
「そうなのよ。寂しそうに降って来る雪を見つめてたわ」
「深雪はなにかにかしてあげたいんだね。でも亡くなった人に関わるのは、ちょっと危険なことなんだ。だからダメって言ったのさ。お花をあげるぐらいなら全然いいんだけどね。あたしもあの人のそばへ行ってみてきたよ。あの人自身はとてもいいひと人だね。いい人の霊のそばには、あんたみたいな、いい生者も引き寄せられやすい。だけどその、いい生者を利用しようとしているタチの悪い霊もいるんだ。だから安易には関われないのさ。ちょっと気を付けないといけないんだよ」
「うん」
「でもうちの孫娘が、亡くなった人のために、なにかをしてあげたいって思えるようなやさしい子になってくれたのは、すごくうれしいよ。そんなあんたの願いも叶えてあげたいとは思ってるよ」
「ありがとう、おばあちゃん」
「あの人が亡くなったのもあの交差点だっけ?」
「事故のあと、病院へ運ばれて3日後に亡くなったって聞かされたわ」
「じゃあ、あの交差点には強い思念はきっと残ってないね。」
八重は少し考えて、
「それなのに交差点に出てきたってことは、あの人もあんたに会いたいと思っているのかもしれないね」と言った
「あたしに?」
「救急車が到着するまでそばにいて手を握っていたことにお礼が言いたいとか、かな?」
「それもあり得なくはないけれど・・・・・・。その人とはケーキを買ったくれたお客様っていう以外にも、何かつながりはあるの?」
「うーん・・・ワリとよく来てくれていたから、けっこうごひいきにはしてくださっていたと思うわ・・・。そういえば、今思い出したけれど、今月のバレンタインデーの予約をいただいていたんだったわ。もしかしたら、それについて何か思い残していることでもあるのかも?」
「だけどあんたから、声をかけるのはダメだよ。あたしの見立てじゃあ、あの人は誰かにとりついたりするような気配のある人じゃないけど、人間の、そういうやさしさが現れた瞬間や、隙間をねらってる、ほかの悪い浮遊霊もいるんだよ」
「じゃあどうすればいいのかな」
「向こうがあんたに気づいて、話しかけて来るのを待ってなさい。話しかけられた声に返事をするのはいいのさ。ただし、返事をしていいのは、そのときの相手の声に、あんたが冷たさ感じなかったときだけ。なにかぞっとしたり、背筋に冷たいものが走ったら、無視して帰っておいで」
「あたしに感じられるかな?」
「なに言ってんの。あの人の姿が見えただけでもたいしたもんだよ。さすがあたしの孫さ」
「じゃあ明日またあの人・・・・・・藤崎美雪さんのそばへ行ってみる」
「くれぐれも気を付けるんだよ」
と言って八重は自分の手首に付けていた数珠状のブレスレットを「お守りさ」と言って美雪に手渡した。
(Scene5)美雪の願い
翌日夕方、深雪は藤崎美雪と肩がぶつかりそうなほど、そばへ近づき、美雪が声を掛けてくるのを待った。
しかし美雪は、隣りにいるのが深雪だとは気づいていないようだった。通り過ぎる車をうつろな視線で追っているばかりだった。深雪は声をかけてはいけないと言われていたけれど
「ひとりごとならいいよね」とつぶやき、スマホを取り出して画面を見るふりをしながら「さくらがさくのは、今年も例年並みかな~」と独り言ちた。
美雪の娘の名前を口にすれば、きっと反応があるだろうと思ったのだ。スマホの画面を見ながら言ったのは、画面表示を読み上げてるんです、というパフォーマンスだった。通りかかる人たち向けのカモフラージュだ。
すると、美雪の顔が、左隣に立っていた深雪の方を向いた。あいかわらずどこかぼやけてはいたが、深雪には、美雪の整った目鼻立ちが見えた。
「《ラパン》の深雪さんね?」藤崎美雪の声がした。
話しかけられた声は、少しだけトーンの高い、甘えたようなやさしい響きがあり、クリスマスのときにお店で会話を交わした時に感じた、深雪が好きな深夜アニメの声優さんの声によく似た、美雪の声だった。
聞こえたというよりも脳内に直接響いてきた感じがした。まるで超能力のように。そしてその声のトーンには透明感はあったが、祖母が気を付けなよと言っていた背筋を凍らせそうな冷たさは感じられなかった。
「はい。《ラパン》の津島深雪です」
「藤崎美雪です。事故のときは、とてもやさしくしていただいて、ありがとうございました。とても嬉しかったわ」美雪は深雪の顔を見つめながらひとしきり礼を語った。
「亡くなってしまったと、聞かされときは、あたしもとても残念で悲しかったです。お葬式へ伺うような間柄ではなかったけれど、残されたご家族のこととか、ずっと気になっていました」
深雪は会ったことのない咲良のことも、旦那さんのことも気になり心配だった。咲良ちゃんにはぜひ会ってみたいと思っていたし、旦那様にはお悔やみの言葉を伝えたいということも考えたりもしていた。
(Scene6)相談
「津島さん・・・深雪さん、あなたにお願いがあるの。叶えてもらえるかどうかはわからないけれど、お話しだけでも聞いてもらえるかしら」
深雪は、スマホを耳にあてて通話しているふりをしながら、隣りにいる美雪と会話を始めた。スマホなしでそのまま美雪と会話していると、美雪の姿はほかの人には見えないために、はた目には、深雪が虚空に話しかけているふうに見えただろう。「ねえ。あの子ケーキ屋さんの子じゃない。事故があった交差点で、見えない誰かと会話してるよ」なんて思われてしまうかもしれない。
それでは家業の売り上げにも差し障るかもしれない。深雪のこの判断は、美雪にも伝わり、美雪も深雪が耳を当てている左耳の側へと回り込んでくれた。もっとも、美雪の声は物理的な音声ではなく、テレパシーのように、深雪の頭の中へ、届いてくるだったが。
美雪が語り掛けてきたお願いは、深雪ひとりでは判断できかねるものだった。深雪は「うちにかえって家族に、特におばちゃんに相談してみないと分からないから、今日はそのお話し、持ち帰らせて」と言った。
深雪は家に帰り、さっそく祖母八重の部屋へ飛び込み、藤崎美雪が深雪に依頼してきた内容について話した。
「おばちゃん。聞いてくれる?あの人、美雪さん、地上から消えてしまう前に、あたしの体に乗り移って、娘さんと旦那さんにもういちどだけ会いたいんだって。そして、旦那さんには、クリスマスのときに、うちのお店にオーダーを残してくれていたバレンタインデーのチョコレート菓子の詰め合わせをお渡しして、感謝を伝えたいんだって。娘さんのほうは、咲良ちゃんって言うんだけど、もう一度抱きしめてママって呼んでほしいんだって。どうしよう。できることなら叶えてあげたいんだけど。身体を貸すなんて、できるの、そんなこと?」
「できるよ」八重はあっさりと言った。
「はあ?」驚いたのは深雪の方だった。そんなことは絶対にダメだと怒られるだろうと思っていただけに《できるよ》ってあっさりと。むしろやってみるかい、みたいなニュアンスで返されるなんて、思いもしなかった。
「憑依も降霊の一種ではあるけれど、その相手の願いさえ受け入れられたら、割と簡単さ。逆に問題は、その術がわりとすぐに解けてしまうことなのさ。乗り移っているとき、誰かが乗り移っているっていうことが、相手にバレた瞬間に元に戻ってしまうのさ。
私らイタコは、わざわざあの世まで行って誰かを呼びに行って、その亡くなった人の思いを生者に伝えたりするから難しいんだけどね。それには、マナーも礼儀も行儀も大切だし、霊媒師としての技量はもちろん、貫禄というか経験や信用だって大事なのさ。
何の知識や技術もない素人が、降霊術を見様見真似で行うことはとても危険だし、霊を怒らせたらたいへんなことになるっ・・・てことは、あんたも想像できるだろう。でも身体を貸すこと自体は難しくないんだよ。もちろんマナーも礼儀も行儀も大切だけどね、
「元に戻れなくなるとか、そんな危険はないの?」深雪が訊いた
「まあ、思っているほど危険じゃないよ。ちゃんと元に戻れるよ」
「素人でも、身体に迎え入れるために使える媒体ってものもあるのさ。乗っ取られたまんまなんてことは、まあない、と言っていい。それよりも今言ったみたいにわりとすぐに術が解けてしまうからコントロールがむずかしいのさ。ホントはちゃんと修業をした人でなければ、しちゃいけないんだけど、あたしも、あの人・・・美雪さんになら身体を貸してもだいじょうぶだと見た。そうすれば浄霊(鎮魂)にもなって、美雪さんきっと安心して旅立っていくよ。そうなるんだったら霊界に関わって生きてきたばあちゃんとしても、うれしいよ。
八重は、深雪が美雪のためにひと肌脱ごうとしていることが、うれしかったのだ。
「あたしの見立てじゃあ、あの美雪さんって人はすごく清く生きてた人なんだね。もうすぐ七七日/四十九日を迎えて六道の中でも天道か、あるいは、もう一度人間道に生まれ変わりそうだね、旦那さんにバレンタインデーのチョコレートを渡したいだなんて、いじらしいじゃないか」
「バレンタインデーっていつだっけ?・・・来週の土曜日・14日だね。あの美雪さんっていつ亡くなったんだっけ?事故の3日後だっけ?ということは12月27日か。ん?ちょっと待ちな。」
といって八重はいつも着ている割烹着のポケットからスマホを取り出して何かを検索し始めた。
「やっぱりね。美雪さんの(七七日/四十九日)は2月の14日、バレンタインデーの日なんだね。彼女自身、自分の運命を知ってるんだね。どうもバレンタインデーにこだわっていると思ったらそういうことだったんださ」
「深雪、あんたも霊媒師の孫娘だ。この人助け、霊助けやってみるかい。できる人とできない人はいるけど、深雪なら、あっちの美雪さんの大切な思いを、あんたは自分のことのように大切に思ってるから、あんたにはやっていい資格がある。
「もうひとつは、イタコの孫娘だっていう血筋と霊筋のよさがある。そしてこの憑依をやることで、あんた自身の霊格も上がるんだよ」
「霊格が上がるといろんな厄災がアンタから遠ざかっていく。自分を守れるようになるんだよ。将来、イタコの道へ進むようなときにも有利な経験になる」
八重は最近後継者不足のイタコ業界に、深雪が興味を持って、あわよくば・・・なんていうことも考えていた。イタコは最盛期の明治初期には、南部地方(青森県東部から、岩手県北部)を中心に500人以上はいたと言われている。それが現在では正統なイタコは、両手の指で数えられてしまうという。
(Scene7)憑依の術
「おばあちゃんが言う、その媒体を使えばあたしも美雪さんに安全に身体を貸してあげられるの? 媒体ってなあに」
「過去に三人以上の霊媒師の手を経て伝えられてきた古いお数珠と、ねこを一匹使うのさ」
「ねこ?⤴」八重の意外過ぎる答えに驚いて、深雪の声がひっくり返った。、
「あたしのミケを連れてお行き。霊媒師のそばで暮らして15年になるベテラン霊媒ねこさ」
「あたしのお数珠は、あたしの師匠とそのお母さんが使ってた、明治時代から三代に渡って伝えられてきた、強力な霊力がしみ付いているお数珠なのさ。それを持って相手の前でお念仏を唱えれば、相手はすぐ憑依できる。そして自分の体に憑依されている間、自分の魂を乗せておく容れ物としてねこの身体を使うのさ」
「もちろんベテランのイタコは、ねこなんて使わないけど、ね」
そう言って八重は、深雪の身体を美雪に一時貸すことができる方法を説明しはじめた。
「あまり離れた場所じゃなく、お相手さんの旦那さんの家の前まで行って、その場で憑依させなさい。憑依させたあと、あんたの魂は連れて行ったミケの身体に入るから、ミケも旦那さんの部屋へ入れさせてもらえるかどうかは事前に、美雪さんに確かめてお願いしなさい。そしたらあんたは、あとはミケの中で静かにしていればいいのさ。でも不測の事態に備えて眠っちゃわないように気をお付け」
「旦那さんと咲良ちゃんががねこアレルギーだったらどうしよう」
「なんで、あんたっていう子は、こんな時に、そんなことにまで気が回るのかねぇ。でもまあ確かにあんたの言うとおりだ。そのときは、ミケは、玄関ドアの外で待たせてもらって、用件は手短にすませるしかないね。ミケみたいなおばあちゃんネコに、2月の外の風は毒だからね、この猫は、このあとに動物病院で定期健診を受けさせることになっていたので、連れて来てしまいました、とか何とか言って、お部屋に入れさせてもらいなさい」。
ミケを入れて行くキャリーバッグには布団のように潜れるタイプの厚手のねこマットとホッカイロを入れておいてあげるけど、なんたって弘前の二月だからね。ミケのことも寒い玄関先に置いておけないからね」
という作戦であった。
「あたしがミケの中にいる間、ミケの魂はどこにいるの?」
「そこが、ねこって言う生き物が持っている不思議な力なのさ。人間の魂を入れても、自分の魂といっしょにそのまま、自分の身体に同居させられるのさ」
八重は自分のお数珠を両手でそっと包むように深雪に手渡した。
「超大切な、お数珠だから超々大切に扱っておくれよ」と言いながら、そして数珠を手渡したあと、八重による憑依の方法を指南する抗議が始まった「お数珠を右手の手のひらにかけて、左手で揉むように・・・そう大きな音が出るように。お念仏も、もっと大きな声でっ」
「おばあちゃんに付いてきてもらっていうことはできないの?」深雪が不安そうに八重に尋ねる。
「ダメさ。これは相手と1対1で向き合わなければ叶えられない術なんだ。媒体になる側の人間のそばに強力な霊媒師、なんてのがいると、その場の気の流れが乱れちまうからね」
(Scene8)ネコアレルギー
八重は、指南が終わると
「深雪、もうさっきと違って、あんたから話しかけても大丈夫だから」と言って、
「さっそく美雪さんへ作戦を伝えておいで」と深雪を促した。
「旦那さんと娘さんがねこアレルギーだった場合は別の作戦を考えなくちゃいけないし」と八重は思いはじめていた。だから早めに確認しておきたかったのだ。お数珠も大切だし、ミケのことも大切。お相手さんのご家族も、そしてもちろん孫娘・深雪がいちばん大切。
深雪が、交差点に着くと、美雪は相変わらずうつむいたまま、寂しそうだった。
深雪は祖母との会議の結果を美雪に伝えた。美雪は感激のあまりか、両手で顔を覆いをその場にしゃがみこんでしまった。肩が小刻みに震えていた。
それでも深雪は、美雪に尋ねた。「旦那様と咲良ちゃんにねこを近づけても平気ですか」と、祖母から言い仕った質問の答えだけは聞きだした。「咲良にねこを近づけたことがないからわからないけど、翔平さんはむしろネコ好きだから、平気なはずです」との答えだった。
(Scene9)作戦決行
翌週の土曜日14日、作戦決行のバレンタインデー。深雪は、以前「お守りさ」と言って、八重が美雪に手渡してくれた数珠状のブレスレットを手首につけ、身支度を整えて、自分の部屋を出た。
深雪は、父に「藤崎さまご注文のチョコレート菓子は、もう口座引き落としでお会計も済んでいるみたいだから、私が旦那さまへ届きてきます」
と言い、右手に菓子箱が入った紙袋を、左手にミケが入ったキャーリーバッグを持って店を出た。父の隆は「なんで八重ばあちゃんのミケを連れて行くんだろう?」と訝しんだが、父の背後から、八重が「動物病院で定期健診を受けさせることになっていたからそれもいっしょに頼んだのさ」と言った。
藤崎翔平と咲良のアパートは《ラパン》がある市役所そばの区画から南へ少し離れて大学病院近くの大柄な桜の樹影が並木となっている一角にあった。
その並木の下で、深雪は数珠を取り出し、通行人がいないことを確かめてから、「美雪さん始めますね、ミケもよろしくね」と言い、八重に教わった通りに、美雪と向かい合い、左手の4本の指に数珠の輪を通して親指で押さえて、手のひらに垂らしたお数珠を、大きな音が出るように右手でこするように揉みながら、お念仏を唱えた。
足もとにはミケが入ったキャリーバッグがある。深雪は自分の意識が小さくなっていくのを感じた。そして自分の身体が今、ミケの身体に吸い込まれていった、という感覚を認識した。
一方、深雪がキャリーバッグの中から見上げた元の自分の身体は、確かに誰かが操っているようだった。それはもちろん美雪によるものだった。やがて頭上から「みゆきさん」?と呼びかける声が降って来た。その声自体は深雪の声だった。声を発している身体は深雪の身体なのだから声自体は、美雪の声は深雪の声帯を通った声なのだ。けれども意志ある音声としては、美雪である。深雪も、美雪に話しかけようとしたが、《にゃー》という声にしかならなかった。
こんなんでホントにいいの?大丈夫かな? 術を解く主導権を握っているのは美雪さんの方だった。お数珠を私の頭上へ(ミケの頭上へ)かざして、解けろっ!って叫べば術は簡単に解ける、と、おばあちゃんは言っていた。あるいはあたしの身体に美雪さんが入っているということが旦那さんである翔平さんか咲良ちゃんにバレてしまったときも、術は解けてしまう。だから、術が解けないためには、ここから先は津島深雪の身体に入っている藤崎美雪さんの度胸と演技力にかかっている。
美幸さんが「寒っ」と短く叫んだ。数週間ぶりのリアルな肉体に感じる寒さだっただろう。美雪は菓子が入った紙袋とミケが入ったキャリーバッグを持ちアパートへ向かった。 深雪は、お数珠をなくさないでねと、言葉にしようとしてみた。が、やはり『にゃー』という声にしかならなかった。藤崎美雪は「お数珠ね。上着のジャケットの内ポケットに入れてあるわ」と答えた。「深雪さんの声は、私の頭の中に直接、飛び込んできます。テレパシー(思念波)のように」と、美雪は言った。
そうだったのか。これなら意思疎通が図れる。美雪さんの声は、深雪の身体の声帯を通してあたしに届く。でも、ミケの中にいる深雪の声は『にゃー』という鳴き声しか発せられないけれど、深雪が美雪に伝えたいことは、テレパシー(思念波)としてなら、伝えられるんだ。コミュニケ―ションが図れることが分かって、深雪はほっとした。そもそも交差点で美雪さんと会っていたときだって、あたしは彼女の声ではなく、テレパシーを受け取っていたのだった。今はそれが逆になって、あたしが思念波を発する側になったのだ。
あたしは美雪さんに『にゃー』と鳴きながら、念波を送った。
「じゃあ美雪さん、打ちあわせ通りに行きましょうか」
打ち合わせとは、「部屋へ入ったら、《ラパン》という洋菓子店の従業員ですと、自己紹介。クリスマスのとき奥様からバレンタインデ―の予約を承っておりました。と言って翔平さんへチョコを渡す。そして咲良ちゃんのことは「かわいいお嬢さんですね」とか言いながら抱き寄せてぎゅっとする。翔平さんのことは、奥様からステキな旦那様だと伺っておりました。ぜひあたしとも握手してください、とかいいながら美雪さんも翔平さんに触れる。ぎゅっとし合うという展開はムリだけれど。
なにしろ、それは女子高生である「《津島深雪》の身体なのだから。
概ね、そんな流れになるだろうと、深雪と美雪は、シミュレーションしていた。
(Scene10)翔平と咲良
呼び鈴を鳴らすと「はーい」という男性の声がして、チェーン錠が外される音がした。
扉が開き、中から流れ出してきた暖気が、ミケの身体(=あたし)を包んだ。
翔平は「お電話をいただいていた《パティスリーラパン》の方ですね」と言いながら入室促してくれた。
美雪は、「実はこのあと動物病院へ行こうと思って、ねこもいっしょに連れてきてしまったのですが、よろしいでしょうか?」深雪の中の美雪の声は落ち着いていた。「僕は、ねこアレルギーはありません、娘はまだアレルギー検査などはしたことがないけれど、室内には空気清浄機もあるし、おそらく大丈夫だと思います」
アパート、とはいえ二人の住まいは2LDKの広さだった。リビングの片隅には美雪の遺影と、ご位牌が置かれた小さなお仏壇スペースも設えられていた。リビングのこたつをすすめられ、美雪と翔平はこたつを挟んで向かい合って座った。ミケも、こたつの横に置かれた、やや大きめの「空気清浄機」の隣りの空きスペースを与えられた。「空気清浄機」は、大型で、かなり性能がよさそうだった。短い滞在時間なら、万が一、咲良ちゃんがねこアレルギーだったとしても、なんとかなりそうだ、と、ミケ深雪は思った。寒い玄関先で待たなくてすむことになった。
美雪は「《ラパン》」の娘で津島深雪と申します。美雪さんと同じ名前ですが、私は美しい雪ではなく深い雪とかいて「みゆき」と読む名前なんです」と名乗った。
「藤崎美雪の夫で藤崎翔平と申します」と言いながら、翔平は、深雪の身体と向かい合って座った。
奥の部屋から眠そうな表情をした女の子が出てきた。
「ママが帰って来たのかと思った」と言いながら翔平に背中から抱き着いた「うちの娘で咲良と言います。12月に満2歳になったところです」
「奥様が亡くなって、おひとりで咲良ちゃんの面倒を見ていらっしゃるのですか?」深雪の中の美雪が翔平に尋ねた。
「基本的にはそうです。でも先週までは、神奈川から母が、つまり咲良にとっての祖母が来てくれていました。それで大助かりでした。弘前在住の、妻のお母さんも、しょっちゅう様子を見に来てくれますし。4月からは実家かか近い横浜本社へ異動願いを出しました。美雪と出会えたこの弘前は大好きな街なんですけどね。桜に埋もれる弘前の街の春景色を見て、この子は冬生まれなんですが、《咲良》って名付けたんです」
「咲良ちゃん、いいお名前ね。こっち、マ・・・お姉さんの方へいらっしゃい」と、美雪はちゃっかり愛娘を、お膝に抱っこすることに成功した。
一方ミケ深雪は「あたしは寒い外から飛び込んだ、このお部屋の暖かさが心地よくて眠っちゃいそう。眠っちゃっていいのかな。おばあちゃんはでも不測の事態に備えてなるべくで眠っちゃわないようにしなさいって言ってたっけ。でも、なるべくっていうことはガマンできなきゃ仕方ないってことよね。何しろ、あたしは今、ネコ=寝子なのだから」
翔平が紅茶を入れて運んできてくれた。「チョコレート菓子の詰め合わせ、わざわざお届けくださり、ありがとうございました。そして咲良にはイチゴのショートケーキまで。美雪は、昨年も《ラパン》さんの、この詰め合わせを僕にプレゼントとしてくれました。特にウイスキートリュフとチョコポテチは絶品です。僕がとてもおいしいと大喜びしたので、彼女は覚えていてくれたんですね・・・・・・。せっかくですからここで、いっしょに食べてくださいませんか」
(Scene11)桜のパルファム
そう言いながら翔平は包装を解き、津軽塗の菓子皿にチョコを取り分けてくれた。
「ホントは洋皿を使うんでしょうけれど、津軽塗が好きなのでこれを使わせてください。美雪の実家は津軽塗の工房なんですよ。これは美雪のお父さんが塗ったもので、二人の結婚式の引き出物にもしたものですよ」
津軽塗とは藩政時代からこの地方に伝えられてきた漆器のことだ。その特徴は、何重にも漆を塗り、その漆を磨き、研ぎ出して模様を出すという工程を何度も繰り返す「研ぎ出し変わり塗り」という技術にある。
日本独自の工芸技術である漆器だが、津軽以外の他産地でつくられる漆器の多くは、漆で塗装した上に模様を描くが、漆塗り・磨き・研ぎを・・・を、幾度も、幾重にも繰り返すことで模様を浮かび上がらせるというこの「研ぎ出し変わり塗り」は、全国でも珍しく、何重にも塗り重ねられた漆の表情は、この技法でしか生み出せない独特の奥行きを感じさせる。
また、そのあまりにも丁寧な技法から「津軽のバカ塗り」という異名も持つ。
「バカ塗り」とは、「バカみたいに塗って、バカみたいに手間をかけて、バカに美しく仕上げ、バカみたいに丈夫」という津軽塗りの美しさと実用性を讃える言葉だ。そうか、美雪さんて津軽塗りの工房のお嬢さんだったんだ。
ミケ深雪が、キャリーバッグの中で耳をそばだてる。
輝くような紅い色の皿に載せられたチョコレート菓子は、まるで絵に描いたかのようだった。また、かわいらしい子グマのキャラクターを象った、チョコレートは宝石店のショーケースから取り出してきたアクセサリーのようだった。津軽塗の菓子皿は深雪の父が手作りしたチョコレート菓子の魅力を最大限に引き出してくれていた。
美雪は、お膝の上に抱っこした咲良に、イチゴのショートケーキを食べさせていた。
「おねえちゃんってママみたい」咲良は、母親がどうなったかなんて言うことは当然理解などできていない。遠くへ行っちゃった、なんて言っても《遠く》の意味も分からないだろう。「ママに会いたいのに」「お姉ちゃんっ 咲良のママにになってくれる?」。無邪気ながらも、かなしくも願いだった。
美雪は、「今日だけは咲良ちゃんのママだよ。ケーキおいしい?」「うん」
翔平は「美雪」と咲良のやり取りをじっと見ている。美雪は、深雪の身体の中にいることを気付かれまい、と、目をそらした。だが、翔平は、咲良を抱っこする美雪の隣りへ移動して、座り直した。深雪の目に、涙が浮かんできた。
「こら咲良、おねえちゃんを困らせちゃダメだよ」と言いながら翔平は、咲良のあたまをなでた。
「だってお姉ちゃんママと同じ匂いがする」。咲良はそう言って「深雪」の胸に顔をうずめた。この日、深雪は、とっておきの香水を付けて来ていた。
それは弘前市と大手化粧品メーカーが共同開発したオリジナルフレグランス。《桜のパルファム》だった。弘前公園の桜「ソメイヨシノ」から採取した香りをベースに、「りんごの花」の香りをブレンドした優しいナチュラルなフローラルタイプのパルファム。深雪はこのパルファムが大好きで、特別な日にだけ、出がけに手首や服にひと吹きさせる。お守りというか、おまじないのようなものだった。
「ごめんなさい。僕もこの匂いに気づきました。《桜のパルファム》ですね。美雪もこの香りが大好きでした。深雪さんが妻の美雪とお名前がいっしょだからというわけじゃないけれど、深雪さんの仕草は亡くなった妻の仕草にとても似ているので、さっきは、つい観察するみたいに見つめてしまいました」
深雪の顔に見る見る羞恥の色が浮かんできた。翔平が続ける。「目線をそらすときや、一瞬うつむく様子や、カップを両手で包み込むように持って小首をかしげるたりという仕草は、妻・美雪がいつもしていた仕草なんです」
深雪の中の美雪ははにかむしかなかった。だが、翔平は、ある確信を得たように深雪の目を見つめた。(今日が美雪の四十九日だということは分かってる。法要は葬儀の日に《繰り上げ四十九日法要》としてすでに執り行ってる。今日、美雪は天に召される日なんだね)
「深雪さん?いや、もしかして美雪?」美雪は胸が張り裂けそうになった。見抜かれてしまった。もうこの深雪さんのこの身体から私・藤崎美雪の魂は抜けて、津島深雪さんが戻ってくる。そうあきらめかけて、美雪は最後に、と思って咲良の身体をもう一度強く、抱きしめた・・・。
(Scene12)神さまがくれた延長戦
ところが、深雪の魂は、すぐには深雪の身体には戻ってこなかった。キャリーバッグの中を伺うとミケ深雪は、キャリーバッグの中で心地よさそうに丸くなって眠っていた。寝息さえ聞こえてきそうだった。バレた、ということが眠っている深雪さんにも伝わらなければこの術は解けないのかもしれない。
起こすべきなのかな?美雪は逡巡した。起こすというか、術を解くときはお数珠をミケちゃんの頭上でジャラジャラ鳴らしながら「破っ」ていうんだっけ。「解けっ!」って叫ぶんだっけ?目の前の深雪の中に浮かんできた困惑に翔平が気づいた。「深雪さんどうしたの? まさか、本当に美雪なのか?」
咲良が頬を寄せながら「ママ?」と、深雪にささやいた。咲良にも気づかれてしまった。でもその声で、逆に、美雪は、逆に落ち着きを取り戻した。これはもしかして神さまがくれた延長戦かもしれない。翔平には種明かししてしまおう。術が解けてしまうことを覚悟して――。
美雪は今日ここに至るまでのことを手短に翔平に語った。「あなたと咲良にもう一度だけ触れたくて、イタコのお孫さんでもあるラパンの深雪さんにお願いをして、この深雪さんの身体をお借りする術をかけてもらったの」
「深雪さんは私が事故に遭ったとき歩道に倒れ込んで雪で泥んこになった私の手をずっと握っていてくれていた人なの。津島深雪さんは、今そこで眠ってるミケねこさんの身体の中で、ねこさんと一緒に眠ってるわ。彼女が目覚めたらきっとこの術も解けるわ。でも今は、まだ私、藤崎美雪はもう少し、あなたと咲良といっしょにいられるみたい》
「ウソだろう・・・」
「ウソじゃないわ、翔平さん、しっかり私の気配とサインを感じて」そう言われて、翔平は改めて深雪の目を真正面から見つめ直した。
深雪の中の美雪もまた、翔平視線をしっかりと受け止めていた。
そして美雪が放つ深雪の目の光も強い力で、翔平の目に飛び込んできた。
「その目の光、あなたが、桜が満開の日に、弘前城の下乗橋の上で私にプロポーズしてくれた時の光に似ている」
確かに、僕が美雪にプロポーズしたのは、弘前城公園の桜が満開を迎えた4月下旬の下乗橋の上だった。そのことを知っているは僕と美雪だけだ。
(・・・そんな話し、にわかにには信じられない」翔平は驚いた。でも、津島深雪さんが、そんなウソをつきに、わざわざうちに来るはずもない。それに今、目の前にいて僕が感じているのは確かに美雪の気配だ・・・)
「君が本当に美雪なら、僕に触れたいって言ったよね。僕の方から、君が入っているという津島深雪さんの身体に触れるわけにはいかないから、君の方から僕に触れてくれ。触れるとういう感覚と感触は、君のものとしてあるんだろう?」
「深雪さんの身体をお借りしていても、何かに触れた感覚はそう、私のものよ。今、咲良を抱っこしている、このあたたかくて重い感覚を、わたしはずっと忘れない」
「あたしも、ホントは、翔平さんのことも、ぎゅってしたい。抱きしめたい。・・・ホントはキスもしたいけれど、それはダメね。これは私の身体じゃないのだのだから」
「美雪おいで」翔平が腕を広げた。「僕のこととを、抱きしめてくれ。僕だって君のにおいやぬくもりを、もういちど確かめ、抱きしめたい。そして忘れない」
「私の身体じゃないんだけどね」
「君が、君の感覚として僕に触れるというなら、それは深雪さんじゃなく美雪に触れられているのだから、僕も美雪を感じられるはずさ」
「深雪さん、ごめんなさいね」そう言って美雪は翔平の胸に飛び込んだ。
そして、翔平の、わきの下から腕を背中に回して翔平を抱きしめた。
すると翔平も左手をそっと肩に添え、そして右手で深雪の、いや、美雪の頭をなでてくれた。
「美雪、君に伝えられないまま、君は逝ってしまったけれど、君には伝えきれないほど感謝している。僕と出会ってくれてありがとう。咲良はきっと幸せに育ててみせる」
「翔平さん、こちらこそありがとう。もっともっとずーっと長時間をいっしょに過ごしたかったわ」二人の最後の逢瀬であるこの時間に、ふたりは感謝の思いを伝え合った。
(Scene13)解術
と同時に、津島深雪の身体から藤崎美雪が抜けてしまった。
深雪が目を覚ましたらしい。そうして深雪は深雪自身の身体に戻り、美雪の魂は、間もなく天に召されていくことになった。
自身の身体に戻った深雪は、翔平が、今、自分を抱きしめている、この状況をミケの身体のなかで聞こえてはいたけれど、男性に抱きしめられているというリアルな感触は、女子高生である深雪にとっては、そのまま、はいそうですか、と受け入れられるものではなかった。深雪は、つい翔平を突き飛ばしてしまった。が、少し考えて、元ご夫婦同士が再会すればこんな展開になることだってあるよねと、素早く想像し、一応、理解した。
美雪が消え去ったあとの身体には、例えば背筋に冷たいものが残っていたり、ぞくっとするような、イヤな感覚は残っていないし、術が解ける直前の会話は、実は少しだけ聞こえていた。
美雪さんも翔平さんも、ちゃんとあたしのことを大事に気遣ってくれていた。深雪はミケの中でまどろみながらも、ふたりの会話を追いかけていたのだった。
深雪がミケの中で、目を覚めましたのは《キス》という単語が聞こえたところだった。「それはだめー」と深雪は夢の出口で叫んでいた。その叫びは「にゃー」というのどかな鳴き声にしか、ならなかったけれども。
その直後、深雪はまどろみ抜け出そうとした。ただ、自分の身体に戻る直前に、自分の頭を、(それはちょうど深雪と美雪が交差する瞬間の、美雪としての頭だったのだけれども)、翔平が、そっとやさしくなでてくれた感覚だけは、安心できる気持ちになれて、嬉しかったのはほんとだった。
とはいえ、自分の身体へ戻った深雪は、翔平の前で、真っ赤な顔でうつむいてしまった。
「津島深雪さん?・・・ですよね」
翔平もまた、バツの悪そうな表情をしながらに深雪に話しかけてきた。
「・・・っはい。今、津島深雪に戻りました、津島深雪と申します。改めまして『こんにちわ、初めまして』」という、変なあいさつをしてしまった。
「今日の、このいきさつは、さっき美雪さんがお話しされていた通りです」
「先ほどはたいへん失礼いたしました」翔平が深雪に詫びた。
「いえいえ、これで美雪さんが嬉しいお気持ちで、旅立っていかれたのだとしたら、なによりです」
「こんな奇跡みたいな、不思議なことが起こせるんですね?」
「いえ、イタコである祖母に力を貸してもらったのです。とはいえ、あたしも初めてだったので、うまくいくかどうかドキドキしました」
深雪は、リビングの片隅に設えられた 美雪のお仏壇を見ながら、
「改めて美雪さんにお焼香させていただけますか」と翔平に言った。
深雪は、美雪の遺影と向き合った。遺影の中の美雪の姿は、弘前公園の本丸と二の丸に架かる赤い欄干が印相的な下乗橋の上で、舞い散る桜の花びらといっしょに撮影された写真だった。
「このご家族には、このまちでずっと暮らして行ってほしかったなぁ・・・」と、深雪は、位牌に手を合わせた。深雪の目に涙があふれてきた。
やがて翔平も、咲良を抱きかかえて位牌の前へやって来て、深雪と並んで手を合わせた。咲良は、写真を指さしながら、「この人が咲良のママだよ」と、深雪に教えてくれた。
「うん知ってる。咲良ちゃんのママって、すごくきれいな人だよね」
キャリーバッグの中からミケの鳴き声が聞こえた。そろそろ時間だよといっているようだった。
(Scene13)辞去
深雪はもう一度、美雪の遺影に手を合わせ、そのあと咲良を抱き寄せた。
(この子かわいいっ)
「おねえちゃん、やっぱりママと、おんなじ匂いだー」桜のパルファムがお線香のにおいとそっと混じり合う。
そして、深雪は、翔平のそばへにじり寄って「握手していただけますか?」と言い、握手を交わした。翔平もまた、深雪の手を強く握り返した。深雪もさらに強く握り返しながら「翔平さんがお引越しされる前に、咲良ちゃんといっしょに、ぜひ父のお店へ「パティスリーラパン」へ、おいでくださいね」と言った。
翔平もそれに「はい、きっとお訪ねします」と答えた。
「おねえちゃんとねこさん、もう帰っちゃうの? もう会えないの?」
咲良が深雪に抱きついて、
「ねこさんのこと、なでても、いい?」
深雪はキャリーバッグの入り口を開けて、「ここから手を入れて、ミケのことを、なでててあげて」と言った。
ミケの頭を愛おしそうになでる咲良の様子を見て、アレルギー反応は現れていなさそう・・・と、美雪と翔平は、ほっとした
「ねえ、おねえちゃん、また咲良に会いに来てね。ときどき咲良のママになってくれる?」
「うん。遊び来るね。お姉ちゃんち、市役所近くでケーキ屋さん、やってるんだよ。咲良ちゃん、パパと一緒にお店へもあそびにおいで」
といったあと、お店の前の交差点が、美雪さんが事故に遭った現場であることに気付き、翔平さんにとっては辛い場所だよねと、思い、口にしてしまったことをちょっと後悔してした。
「ケーキ屋さん? ホント? 咲良うれしい。ねえ、パパパ今度連れってね」
咲良が喜んだ。その様子を見ていた翔平は、困ったような表所をふと浮かべたが、「そうだね、今度一緒におねえちゃんのお店へ行ってみようね」と、咲良に応えてた。
「・・・翔平さん、あたしとLINE交換して、いただけますか?」
「もちろんです、ありがとうございます、女子高生からLine交換を、申し出てていただけるなんて、光栄です」
ふたりは、スマホを取り出し、先に翔平がQRコードを開き、美雪が、それをスキャンして、翔平に返信した。
「翔平さんのアイコンは、咲良ちゃんの写真なんですね。今、お返ししました。それが、津島深雪のアカウントです」
(Scene14)事故現場へ
スマホの時計が、午後3時を示していた。
「すっかり、長い時間おじゃましてしまって、すみませんでした。」
「いえいえ、おじゃまだなんて・・・。とんでもないです。こちらこそ、今日は本当にありがとうございました。まさか、美雪ともう一度会えて、言葉を交わせるなんて・・・夢にも思っていませんでした。不思議で素敵な、そして嬉しいバレンタインデーの贈りものでした。深雪さんとお会いできたこと、嬉しかったし、楽しかったです。咲良も、こんなに喜んでくれました」と言い、翔平は、何度も頭を下げて「ありがとうございました」を繰り返した。
「そういえば、このあとねこさんを動物病院へ連れて行くんでしたっけ?お時間大丈夫でしょうか」
「いえ、それは、途中で美雪さんも、お話しされていたみたいでしたが、この子は、今日の術を使うための、パートナーとして連れてきたんです、動物病院って言ったのは、つまりは方便でした」
「そういえばさっき美雪は,津島深雪さんは、今そこで眠ってるミケねこさんの身体の中で、ねこさんと一緒に眠ってる。彼女が目覚めたらきっとこの術も解けるって言ってました。そうでしたか依り代のような、大事なお役めを果たしてくれたんですね」
と、翔平はそう言って、静かに笑った。
「ではこれで、私は失礼いたします」
深雪はもう一度、美雪の遺影に合掌し、立ち上がって、コートを羽織った。キャリーバッグを持って、そして咲良の方を向いて「咲良ちゃん、またね。バイバイ」と小さく手を振った。
「おねちゃん、バイバイ。また会おうね」咲良もまた、小さな手を振り返してくれた。翔平は、自宅まで車でお送りしますよ、と言って、ジャンパーに袖を通して、玄関横のシドテーブル上のトレイの中から、車のキーを手に取って、深雪の手からキャリーバッグを引き取って咲良にも声をかけた。「さあ咲良もいっしょに、おねえちゃんを送りに行こう。ほら咲良のお気に入りの、ママとおそろいの桜色もコートがあっただろう? あれを着ておいで」と咲良を誘った。
深雪は、翔平の申し出に甘えることにした。咲良のコートは、あの事故の日に、泥んこだらけになってしまった、美雪さんのピンクのコートとおそろいのデザインだった。深雪はそのコートを見て、あの日のことを思い出して、胸が痛んだけれど、今日は美雪ママを改めて見送る日でもある。
翔平は、咲良ちゃんにはこのコートを着てほしかったのだろう。そして、今日だけ、ママの代わりを務めたあたしを、咲良ちゃんを横に乗せて、事故現場のすぐそばにある、深雪の家の前の交差点から、空へと昇って行くのかもしれない美雪さんを、見送るのだろうか。
翔平さんも今日がひとつの区切りの日だと考えて、事故の現場で、美雪さんの死や喪失感と折り合いを付けようとしているのかの知れない・・・。
「翔平さん、送ってくださるなんて、ありがとうございます。では、お願いいたします」
翔平の車は、中型のファミリータイプの四輪駆動車だった。翔平は助手席のチャイルドシートに咲良を座らせて、車を出発させた。ミケと深雪は後部座席に並んで座った。
翔平は、途中、お花さんに立寄って、花束をふたつ、つくってもらった。「ひとつは妻だった藤崎美雪へ捧げるためです。もうひとつは、津島美雪さんへのプレゼントです」
と言って、カスミソウや、スイートピー、ラナンキュラスなどを盛りつけた春色のブーケを、深雪に渡してくれた。
「男性から花束をいただくなんて、初めてです」
深雪は翔平の心遣いが嬉しかった。
翔平は《ラパン》の前で、深雪を降ろしたあと、近くのコインパーキングに車を移動させた「そしとて咲良といっしょに「美雪のために」とこ言っていた花束を抱えて、事故現場である、交差点に歩いて行った。
「この時間はあの二人だけの時間しよう」
深雪は、店舗兼自宅となっている自宅側の玄関から家の中に入ってミケのキャリーバッグとブーケを祖母の部屋へ届けて、おこたにあたりながらTVを見ていた八重に向かって「おばあちゃん、今日は上手にできたよ、詳しいことはまたあとで話すね、今は、もう一度、外へ行ってきます」と言い残して、コインパーキングへ向かい、翔平への車の前で、ふたりが戻ってくるのを待った。
戻って来たふたりに深雪は改めてあいさつをした。
「美雪さんのこと、お見送りできましたか?」
と問うと、翔平は、コートのポケットからハンカチを取り出して、目頭にあてながら、小さくうなづいた。
「パパ、どうしたの?」咲良が翔平を見上げた。「なんでもないよ」
「深雪さん、今日はほんとうにありがとう。」深雪にもう一度握手を求めながら、翔平は、深雪に、何度も、頭を下げた。
曇天の空から、雪が舞い降りてきた。と同時に西方の雲間から、夕陽が街角に差し込んできて、はらはらと舞い落ちる小雪の群舞を照らし出し、東方の暗色の雲を背景に真っ白く浮かび上がらせた。深雪はその美しい雪の舞を見ながら、(『美雪』、『美しい雪』って、これだよね)と、思いながら、空に向かって手を伸ばしてみた、深雪は、美雪さんが、きっとよろこんでくれているんだと感じた。
翔平も、深雪の視線に気が付き、深雪といっしょに空を仰いだ。
「今夜は咲良といっしょに、あいつのことと静かに想う夜にします」
そう言って、翔平と咲良は車に乗り込んで最後に「深雪さん、また連絡差し上げますね」と言い残して、出発していった。
深雪は八重の部屋へ戻って、改めて八重に「おばあちゃん、ただいま」とあいさつした。
「その様子を見ると、今日はホントにうまくいったみたいだね」八重は、深雪に声をかけた。「今窓から外を見ていたけど、旦那さんもステキな人だね」
(Scene15)祖母への報告
深雪は今日あったことを八重に話し始めた。
術をかけたとき自分が小さくなっていくよう不思議な感覚のこと。
だんさまも娘さんも、ふたりともネコアレルギーはなくて、ミケも部屋の中へ入れてもらえたこと。
途中でバレたけど術はすぐには解けずふたりはゆっくり会話できていたこと。
「術がすぐには解けなかったのは途中あたしが眠ってしまってたからかな?
「術者が眠ってしまって術が解けるのが遅れることってときどきあるよ、でもそれはあんたを包んでいたミケが、嫌な気配や予感を感じることがなく、安心できていたってことでなだよ。あちらのご家族の雰囲気や気配がよっぽどよかったってことだね」
咲良ちゃんもすごくなついてくれたよ。
旦那様の翔平さんもやさしい方で、あたしの中の美雪さんと手を握り合ってお互いのこれまでのことを、ありがとうって感謝し合ってたこと。
翔平さんが4月からは実家近くの横浜本社へ異動するかもしれないこと。
などなど。
「亡くなったあとでも、今日みたいに生きている人に感謝の言葉を伝えられるって、いいよね。
普通は、この世に残された側の人しか話すことなんてことは、できないのだから。亡くなった人の言葉や思いを預かることができるおばちゃんのお仕事ってステキだね」
「うんそうさ。あんたも将来はイタコになってみるかい?」
「うーん、それは修行とかってすごく厳しいんだよね。あたしにはムリかも?」
はぐらされて八重は、ちょっと残念だったが
「今日みたいな術。また、やってみたいって思ったかい」
「今日は美雪さんだったからやってあげたいって思ったけど,そんな気持ちにさせられる人だったら、またお手伝いしたいかも」
最後は咲良ちゃんもミケのことをなでてくれたこと、
そして翔平さんが自宅まで送ってくれたこと。お礼ですと言って花束までプレゼントしてくれたこと。
「あんたがあたしの部屋にミケといっしょに放り込んで行った花束ってそうだったのかい。
こんな暖房のきいた部屋じゃお花輪もすぐ萎れちゃうから洗面所のバケツに刺して置いたよ。あとでちゃんと花瓶に移して、自分のお部屋に飾りなさい。翔平さんの感謝の思いが込められた花束なんだから、あんたの部屋の空気もきっとキレイにしてくれるよ」
「そうだ、おばあちゃんが貸してくれたお数珠とブレスレットをお返しなくちゃ。お部屋へ行って持ってくるね」
八重の部屋へ戻って来た深雪は、お数珠を大切そうに両手で包んで八重に渡した。
「おばあちゃんありがとうございました。そしてお数珠様もありがとうございました」
「ブレスレットの方は深雪にあげるから、これからも《お守り》として大事にしなさい。きっとあんたのことをずっと守ってくれるから」
「うん大事にする」
八重は手元にもどってきたお数珠を見て、あることに気付いた。
数珠の中心となる親玉と呼ばれる部分に使われている水晶の玉が、普段と違い、しっとりと濡れたような輝きを放っていたのだ。
八重は数珠にそっと話しかけた。
「あんたもいい仕事できてうれしいのかい」
(Scene15)お店ユニフォーム
3月になり、高校の晴休みになった深雪は家業である洋菓子店の手伝いをするべく、店頭で接客のアルバイトを始めた。《ラパン》の店員の制服は、3年ほど間に深雪がカタログを見ながら選んだものだった。
スタンドカラー&ダブルタイプの純白のコックシャツに、シックなデザインのインディゴブルーのミディ丈スカートに、弘前の町を彩る桜色を思わせるような淡紅色のエプロン、それにクリムゾンレッドのふんわりフォルムのキャスケットとループ付きの水色のコックタイ、黒色のコックシューズを組合わせた。
父は、帽子とかコックタイとか、アイテム数が多いんじゃないか、と言ったが、深雪は、ユニフォームはお店の顔だよ、特に帽子とコックタイは、お店の第一印象を決めるマストアイテムよ。じゃあいっそマルーンカラーの作務衣とか甚平にしようか? と言って父をからかった。
「マルーンカラーってのはどんな色だ」「栗色よ」
「それも悪くないな」と父が言ったのは、深雪のからかいに対する小さな反撃だった。結局、父は制服選びに途中で飽きてしまって、TVのスイッチを押した。
夕方の時間だった。画面には「水戸黄門」の再放送が映し出された。
ちょうどお寺の境内で、作務衣姿の小僧が庭そうじをしてるシーンだった。
「これだな、マルーンカラーってのは」
「そうよ。悪くないでしょ? 栗色の作務衣姿のケーキ屋さんって」と、深雪が再びまぜっ返す。
「分かったよ、お前の言うコディネートの通りでいいよ」ということになった。
(Scene16)翔平と咲良の訪問
深雪がそのユニフォームを着て、店頭に立っていた、3月下旬のある日、予告なしに、翔平が大きな花束を抱えて咲良といっしょに《ラパン》へ訪ねてきた。
「深雪さん、こんにちは。ごぶさたしておりました」
そう言ってカウンターの向こう側からフロアに飛び出してきた深雪に翔平は大きな花束を手渡した
「深雪さん、お仕事のユニフォーム姿、お似合いですね、ステキです」
「こんにちわ、翔平さん、こちらこそお久しぶりです。こんなに大きな花束まで、お届けくださり、うれしいです」
カウンター背後にある厨房で、作業していた父が、花束を抱えたお客様の訪問に驚いたのか片手にボウルを持ったまま、フロアの方へ出てきた。
咲良は深雪の姿を見つけると「あっ、みゆきママー」と言いながら、小走りで駆け寄って来て深雪の腰のあたりに抱きついた。
《ガラガラっガッシャーン》大きな音が店内に響いた。父が手に持っていたボウルを落とした。
「『みゆきママだと? どいうことだ? おい深雪っ、あとで仏間に来い」
父は何か誤解してるようだった。
あたしが子連れの男性と交際していて、その子どもに自分のことをママと呼ばせていると、でも?
いくら何でも、まさかとは思うけれど、咲良ちゃんのことあたしの子だなんて思ってないよね、ちょっと考えれば、ずっと自宅でいっしょに暮らしてるあたしが子どもを産むわけなんてないじゃない?
父は思い込みが激しいタイプで、先走って考えて癖がある。あまつさえ頭に浮かんだ言葉を、考えなしに口に出してしまう。
以前、母が商店街の婦人部の寄り合で花束をもらって帰って来たとき「どこの男にもらったんだ?」などと母の浮気を疑って母を激怒させたこともあった。
ボウルが落ちた音に驚いたのか母がカウンター横にあるオフィスルームから出てきた。母もまた、やはり花束を抱えた男性の姿に驚いて目を丸くしている。実際翔平さんは、映画のスクリーンから抜け出してきたように、カッコいい。
この日の翔平さんはスーツ姿だった。27歳だと聞かされていたけれど、実年齢より若く見える。鼻筋が通っていて唇の形がよく口角がキリッと結ばれていて、青年らしい精悍な顔立ちと、垂らした前髪が、少年のような面影を残す。
母が大好きな韓流ドラマの俳優で、男性アイドルグループでボーカルとしても活躍している「パクなんとか」さんによく似た顔が、母の目の前で、花束の上に浮かんでいる。心奪われる5秒前だった。
「おねえちゃん『ときどき咲良のママになってくれる?』って聞いたら『いいよ』って、言ってくれたよね?」咲良はまだ深雪のエプロンにしがみつていた。
「おねえちゃん、今日もママと同じ匂いだ」《桜のパルファム》が香ったらしい。
《どさっ、どさどさっ》これは母が、持っていた古新聞紙の束を落とした音だった。
「深雪っ、あんた『ときどきママに?』・・・ってなんのことよ?」
母の思い込みの激しさは、また父以上かもしれない。「思い込み」いうか「邪推力」というか。
あるとき県内の女子高生が, 金銭などの対価として性行為や性類似行為を行う、いわゆる「援助交際」で補導された、というTVローカルニュースをいっしょに見ていたら「深雪?あんた、最近、明るい時間に家に帰って来ないよね? 外でなにやってるの?」と疑う気持ち漫々で聞いてきたことがあった。「明るいうちに帰宅できないのは、今が冬の時期で日没の時間が早いからです」と科学的?に説明したら分かってくれたようだったけれど。
翔平さんの前で、その口から「援交」なんていう危ないワードを口走りませんように、と、あたしは必死に祈った。
そしてあたしとおばあちゃんは、そんな似たもの同士である父と母の思い込みの激しさと粗忽さににときどき振り回される。「割れ鍋に綴じ蓋」って、こういうときに使っていい言葉だっけ?
父母のあたふた劇に、翔平さんが苦笑いしている。
翔平が咲良をたしなめた。
「こらこら、おねえちゃんお仕事中なんだから、お仕事の邪魔しちゃいけないよ」
そこへおばちゃんもやって来た。「何の音だい?ビックりするじゃないか?」と父と母を叱った。
苦笑いしていた翔平さんが辞儀を改めて、父と母とおばあちゃんに、「はじめまして。昨年のクリスマス・イブの日、このお店の前の交差点で交通事故に遭って亡くなってしまった藤崎美雪の夫の藤崎翔平と申します」と、丁寧にあいさつした。
「ああ、あの事故の時の・・・。・・・奥様のことは残念でしたね。改めて、お悔やみを申し上げます」父も翔平さんへ、とぃねいに挨拶を返した。
(考えなしの先走りオヤジだって、やればできるじゃん)深雪はひと安心した。
(Scene17)別れのあいさつ
「事故の時は、舗道上に倒れた妻を深雪さんから丁寧な介助してくださったということ、救命士さんからうかがっていました。そして、2月のバレンタインデーの時には、妻が注文させいただいていた「チョコレート菓子の詰め合わせ」を、深雪さんがわざわざ、当方の自宅までお届けくださり、さらにはおばあさまから授かったという不思議なお力で、私と娘の背中を押して、私たちの気持ちを、明るい方向へと進み出させてくださいました。本当に深雪さんには感謝の言葉しかありません」
「ラパンのお父様、お母さま、そしておばあさまにも、お礼とごあいさつを申し上げなければ、と思っていたのですが、4月から実家に近い横浜本社へ異動が決まり、担当していた業務の引継ぎや関係先へのあいさつまわり、引っ越しの荷づくりなどで、あわただしく過ごしている間に伺うタイミングを逸してしまい、本日なってしまいました。
妻は、こちら《パティスリーラパン》なさんのケーキが大のお気に入りでした。僕も、妻が毎年プレゼントしてくれた、バレンタインデーのチョコレート菓子の詰め合わせが大好きでした。そして横浜本社へ帰るときのおみやげは、桜のフィナンシェがいちばん喜ばれました」
「そんなふうに、弘前滞在中は、《パティスリーラパン》さんには、たいへんお世話なりました。ありがとうございました」
「そして深雪さん、亡くなった妻ともう一度会わせてくださった不思議なバレンタインデーのこと、僕は生涯忘れません」
「週明けの火曜日、弘前を離れることになりましたので。今日はお別れのあいさつに伺いました次第です」
翔平の丁寧な言葉遣いと、キリッと礼儀正しい立ち居振る舞いに、父も母も好感を抱き、感心しているようだった。
「立ち話もなんですから」と言いながら、母は店の奥にあるイートインスペースに二人を案内した。そしてイートインスペースの一角にある小さな水屋でコーヒーを淹れ始めた。
母が楽しそうに、翔平さんに気を使っているのが伝わってきて、ちょっと安心した。
父は咲良ちゃんをショーケース前に連れて行き「ごちそうそうするから、どれでも好きなもの選んでね」とか言いながら、これまた楽しそうだった。
「俺にも孫がいたらこんな感じなんだろうな」。
出た。考えなしオヤジの口走り。
父さんが、さっき先走って妄想したみたいに、あたしが子連れの男性と結婚したら、その人の連れ子さんは即あんたの孫だよ。
何なら咲良ちゃんがそうなる可能性だってない訳じゃないかも(可能性だけならね)
デレデレオヤジは放っておくことにして、あたしは翔平さんに話しかけた。
「そういえば、翔平さん、あの交差点で、美雪さんのお姿をお見かけすることは、もうなくなりましたよ。あの日、翔平さんと咲良ちゃん、おふたりがいっしょにお見送りされたことで、天に昇って行かれたのだと思います」
「そうでしたか、しっかりと旅立っていってくれたのなら、僕も安心です。それもこれも深雪さんのおかげです」
(Scene18)八重の言葉
八重おばあちゃんもあたしたちお話しに混じってきた。
「美雪さんはそんなに遠くへは行ってないよ。
亡くなった人々の世界と、生きている人々の世界は思っているよりも近いんだ。
私ら、イタコだって死者の霊があまり遠くへ行っていないからこそ、呼び出せるんだよ。
例えば、この国には、古くから、人は死んだら山へ行くという考え方がある。
山は死者が行く他界のひとつなのさ。
これはあたしの考えなんだけど、
亡くなった人の魂はお墓なんかじゃなく、みんなの魂と一緒にふるさとの山に棲んで、
里と、残してきた下界の人々を見守り続づけるのさ。
美雪さんの魂も、決して遠くへは行ってない。
美雪さんは弘前生まれだっけ? きっと岩木山とか白神の森から、
翔平さんと咲良ちゃん、あんたら家族を見守っているよ。
私が、なにが言いたいのかっていうと、
遠くへ行ったなんて思わないで、
美雪さんを、いつだって身近に感じあげてねということ。
翔平さんも咲良ちゃんも、いつだって弘前へ帰っていらっしゃいよ。
特に、咲良ちゃんにとって弘前は生まれ故郷なんだろう。
人間が生まれて初めて吸い込んだ空気は、その人が亡くなるまで
胸の一番深い深い細胞にとどまり続けて、その人の人生を陰に陽に支えてくれる
っいていう話しもある。
だからふたりとも時々、弘前の空気を思い出しに帰っておいでよ。
そして、津軽のエネルギーを補充してから都会へお戻りなさいね。
日本人は亡くなった人の肉体や亡骸にはあまり固執しないで、魂や霊魂を重要視している。だからお墓という場所よりも、思い出の場所なんかへ行った方が
故人を強く感じられるよ。
リンゴ畑の風の中にも、土手町の街角の風の中にも美雪さんはいるはずさ。
風を胸いっぱい吸い込んで美雪さんを感じておゆきよ。
「ありがとうございます。
深雪のお骨は横浜へ連れて行って実家の菩提寺に納骨する予定ですが、本当はおっしゃるように、故郷弘前のお山や街角を、風になって通り過ぎているのかもしれませんね。
そう思って信じることが、故人の想いにも適う気がします」。
「そうそう、『お骨になんて』っていう言い方は、よくないけれど『お骨なんか』には、魂は宿ってないんだから。それよりも亡くなった人が好きだった場所や、家族で過ごした場所や街で、自由な風になって吹き遊んでいるさ」
(Scene19)翔平の将来
「翔平さん、再婚はなさらないのですか?」
今度は、母が何か言い出した。
せっかく、おばあちゃんが場をまとめてくれたのに
「今はまだ、そのつもりはありませんが、将来はまだ分かりません」
翔平さん今27歳だと伺いました。深雪とはちょうど10歳差ですね」
言うと思ったよ。
この面食いオバサン。
(Scene20)弘前公園
翔平さんがちらっと私を見た。あたしの顔に浮かんでいたであろう困惑と羞恥を感じてくれたのだろう。
「最後に弘前公園にもお別れのあいさつをして来たいと思います。深雪さん、城址へ付き合っていただけますか」と言って、あたしと咲良ちゃんをお店の外へ連れ出してくれた。
深雪は着替える時間ももったいない思い、ユニフォームの上からダッフルコートを羽織った。
《ラパン》のお店からは追手門に近いけれど、翔平さんは岩木山が見える本丸へ行きたいという。弘前公園は広い、追手門から本丸まではちょっと遠いけれど、おばあちゃんが言ってたみたいに、翔平さんはお山の姿と吹き渡る風を感じたいのだろう。翔平さんは咲良ちゃんをおんぶして桜木の梢の下をずんずん歩いていく。
本丸に着くと、北西の空の中に早春の岩木山が、真っ白なシルエットを立ち上げていた。
「岩木山は津軽平野の田んぼの中から見晴らす姿もいいし、こうして弘前の街なかから身近に感じながら見上げるのもいいな。ありがとうお岩木山、そして弘前公園と桜たち、みんながいてくれたことで僕の弘前生活は楽しい思い出がいっぱいだ。」
翔平さんは人だけじゃなく、この街で出会ったすべてのものに、感謝を伝えたいらしかった。
(Scene21)深雪と美雪
今日は3月23日。お彼岸も過ぎて、寒さもほんの少し緩み、南寄りの微風が吹いていた
「おばあさまが、おっしゃっていたみたいに、美雪はきっとこのまちを渡る風になって自由に空を泳いでいるのかもしれないな。そう思えることのほうが僕にとっても咲良にとっても自由だし、いつでも美雪を感じたり、思ったりすることができる」
「でも、この弘前公園は僕と美雪にとって特別な場所なんです」
「美雪さんに求婚した場所なんですよね」
「3年前のGWでした」
「今年は横浜に引っ越しちまったけど、それでも、今年のGW周辺には、桜の開花に合わせてきっと弘前へ帰ってきます。なぜなら、僕が大好きな、この弘前の街には、美雪と深雪という、大好きなふたりのみゆきがいるのだから」
「ハイ。きっと帰って来てください、桜花の下で、深雪は美雪さんといっしょに、翔平さんのことを待ってます。」