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代神栞  作者: 神代栞那
夢は始めた
7/7

間:罪人余韻

うーん……俺はただの、いや、平凡の極みみたいな高校生だ。田寄長嶺ってこれ以上ないほどありきたりな名前の持つ主。だがこのオレがまさか『選ばれし者』だなんて!


それは自称『可愛い猫ちゃん』の女の子がそう言ったんだ。確かに可愛いな……初登場時、魔法使いのようにお辞儀して、可愛いショートブーツを履き、黒いニーソックスを穿いている。左足のブーツの側面には猫のワンポイント。右足の黒いニーソックス上部にも過不足なく、絶妙な間隔で小さなカラースターが配置されてる。特に目を引いたのはドレスで、まず地雷系ファッションを連想させるピンクと黒の配色。可愛らしさの中に気品が漂ってて、現実で見かけることはまずない組み合わせだ。服装はモダンでありながら、やや古風な口調とのギャップこそが——まさに萌えポイントだ。


会場全体で最も目を引いたのは、自らの髪色と完璧に調和した黒い猫耳だ。本物の猫娘を実際に見るのはこれが初めてで……


いやいや、本題に戻そう。そもそも俺にはもう美命みことという彼女がいる。付き合ってからもうすぐ1年……あの子の可愛さと言ったら、毎日ギュッと抱きしめたくなるくらいだ!……また脱線した。とにかく、どうやら俺は選ばれた存在らしい。しかもこの能力、代償と能力が釣り合わないんだからたまんないな。これじゃあ主人公の器だぜオレ、うんうん……待て、いけないいけない、謙虚でなければならない。地味に生きるべきだ。このことで自惚れかけてしまいそうだった……浅はかな人になってはいけない……


俺の能力を一言で言えば能力の借用だ。つまり全ての能力者の能力を使えるってことだろう? これ以上強い能力があるだろうか? 仮にあったとしても、結局は俺の能力になるんじゃないか?思考がここまで至ると、思わず薄笑いが漏れた……


「長嶺、何か良いことあった?」

「あ、別に……昨日見た笑える動画を思い出しただけだよ」

「だから一人でニヤけてるのか、気持ち悪い……」

「……」


すぐ横にいた親友が急に話しかけてきて、思考を割り込んできやがった。ったく……今は構ってる暇はねえ。


とにかく続けるぞ。俺の能力は他者の能力を借用できる。ただ借りた能力の詳細も代償もわからねえ。だがそれが何だ?能力を借りたらすぐ試せばわかるさ。


残念なのは一度に一つの能力しか借用できず、複数の能力を保持できないことだ。これが制約なんだろ。さもなきゃ俺は本当に無敵だったろうにな……


まあ、俺の代償の話に戻そう。正確に言うと、自分の能力には代償がない。ただし他人の能力を借りる時は、その能力の代償を負う。これはないのと同じ、もし代償がどんなに重いでも、能力を返還すればいい。

一言で言えばなら、俺は超強いだろう?


よし、さっそく能力者を探すか。俺の能力は能力者にしか発動しない。あの夢の内容からすると、能力者の数はかなり多いはずだ。


……っと、すぐにクラスの中である眼鏡をかけた女子生徒が能力者だと気付いた。このクラスには他に能力者はいないようだ。よし、お前に決めた!


能力を発動し、見事その女子生徒の能力を借用することに成功した。うおおおお! 能力発動の高揚感が込み上げてくる。早速その能力を使うと、現実とは異なる光景が視認できた。確認を重ねた結果、それが2秒後の未来であることを確信した。観測し、行動で未来を変更できる。まさか借用したばかりの能力がこんなに強いなんて……内心で歓喜が込み上げらずにはいられない。


だが次の瞬間、視界が暗転した。クラスメイトが消え失せ、目の前でいる少女がよろめくように一つの扉へ近づいている。思考が追いつく前に、その未来が現実に重なった。そして――最も致命的なのは、あの少女が扉を開けた直後に鉄球に直撃する未来まで見えたことだ。


「おい! その扉を開けるな!!」俺はほとんど反射的に叫んだ。


「うっ……!?」少女が怯えながら振り返る。教室の椅子に座っている俺を見つめ、口をぱくぱくさせている。可愛らしいが、明らかに動揺している。声にならないらしい。


素早く立ち上がると、今まで座っていた机といすが瞬時に消散した――これは既に観測済みの現象だ。そして少女に向かって提案する。


「ドアの向こうに何があるか知らねえ。俺が開けようか?」


彼女はかすかに頷いたものの、顔から恐怖の色が消えることはなかった。


少女を退かせてドアノブを握ると、やはり未来視界が展開された。扉を開けた瞬間、鉄玉がこちらへ襲来する光景だ。だが未来予測可能範囲内おいて、これは回避できる。


確認を終え深く息を吸い込み、勢いよく扉を開放。同時に側方へ飛び退る。鉄玉が消滅するのを待ち、真っ先に外へ出た。少女も俺と一定の距離を置いて後を追ってくる。


いったい何が起きているのかはわからねえけど、おそらくあの可愛い猫の言った『任務』なんだろう。まさか翌日から始まるとは……任務が始まる前にすでに能力を借りててよかった。


歩きながらわずかに背後を振り返る。紫のショートヘアの少女が距離を置いてついてきているが、近寄りがたい気配を漂わせており、名前を尋ねる勇気すらなかった。


直後、自身が穴へ転落する未来を観測したため歩みを止めた。代わりに穴の縁から延びる階段を進んだ。この能力は実に便利だ。少なくとも突発的な危険は回避できる。


階段の先には簡素な会議室が広がっていた。明るい照明の下、中央に大きな円卓。その周囲に6脚の椅子。どうやら6人用のようだ。……なら他の四人は?


気付くと三つの部屋が存在する。二つは階段左手側の壁隅、もう一つは右手側の壁中央に配置されていた。


自分の能力を考えると、このまま待ちたくない。左手の壁際に最も近い部屋へ向かう。ドアを開けた中を観測したのは――……遊園地? いや、見間違いか? 部屋の中に遊園地が出現するなどあり得るのか?


さらに確認すると、巨大な獣人と無邪気そうな少女が中央のメリーゴーランドで遊んでいるのが視認できる。……俺の脳に異常があるのか? それとも能力の誤作動か? とにかく開けてみるしかない。


能力に異常はなかった。本当に遊園地が広がっている。信じられない……本格的すぎる。巨大な園内には見渡す限りアトラクションが揃っている。ああ、感嘆している暇はない。獣人と少女が同時に私を見たのだ。


「……」


獣人の不気味な眼差しに、俺は緊張で言葉を失った。しかし背後にいた少女が突然俺を駆け抜け部屋へ入り込む。


「わあ! でっかい遊園地! すごいすごい!」彼女は目を輝かせながら興奮気味に叫んだ。


その時、ピンクのツインテールをした名前も知らない学院の制服を着た少女が回転木馬から飛び降り、じっと俺たちを観察し始めた。獣人も彼女の後を追うように背後に立つ。


やがて少女は花が開くような笑顔で語りかけた。

「あなた達も能力者でしょ! じゃあもう仲間だね!」


あまりの可愛さに心を鷲掴みにされ、俺は棒読みで『ああ』と返事するしかなかった。


…………これが俺がメリーゴーランドに座って過去の経緯を回想している理由か? ため息をつくと、前方で同じく回転木馬に乗っている紫髪の少女を見やった。彼女は楽しんでいる様子だが、ピンク髪の少女と獣人は既に遊園地を去っている。少し残念だ。俺は彼女らの名前を知っている程度で、他の情報は何も……


突然、脳裏に聞き覚えのある声が響いた。あの可愛い猫の声に違いない。任務を伝えた直後、今度は別の声が頭蓋裏に発生する。


「ププッ……お前の任務は最低一人を殺せ」


ロボットのような平坦な声でありながら、どこか嘲るようなニュアンス。これが彼女への第一印象だった。思考が一瞬停止した。人を殺せ? 殺せ……殺すのか? その字義通りの意味か?


思考している最中に体の異常に気付いた。ある部分が存在しているようで存在せず、感じられるようで感じられない矛盾した感覚。要するに、自分の寿命があとどれくらいか分かるような気がした……


マジかよ!? 俺はすぐに慌てた。これは人を殺せって強制されてるだよ!? でも人殺しなんて口で言うのは簡単だろ? ピアスしてるからって、それはただの趣味だから。


毎日「あー死にたい」「飛び降りよう」「生きてらんない」「殺すぞ」って口に出してたけど、実際にやるのは絶対無理だぞ? でも同時に死にたくもないし……


くそ! どうしてこんなに突然だ。せめて猶予時間をくれよ? でもよく考えたら、仲間がいるかも…… 最も可能性が高いのは紫髪のあの子だ。彼女も任務を受けてるんじゃないか?……


思考に没頭している最中、半場おっさんがドアを押し開けて「人数が揃った」と告げた。俺は思考を中断し、紫髪の少女と共に会議室へ向かうほかなかった。


会議室に入るとまず目に入ったのは、同年代の少年が椅子に座り乙女伊と新入りの少女を両脇に抱えている姿だった。おいおい……順番ぐらい守れよ? マジで嫉妬心が爆発しそうだが表には出せない。任務の事情を考えると、早急に能力を切り替えねば。まずは奴を試探りするか――


わざと見下すような口調で彼の性格を探っていたが、予想以上にマジで冷静すぎる。まさか彼が乙女伊の兄だって? そんな偶然があるか——兄妹揃って能力者で同一ゲーム参加者だなんて信じられず、もっと大胆に動いて乙女ちゃんの頬に触れ、反応を窺おうとした。


だが2秒以内に壁に投げ飛ばされる未来を視た瞬間、背中に冷汗が走り動作を停止した。誰の能力かは不明だが、この二人のうちに強力な能力者がいると確信する……


……今俺は少年の向かいに座っている。彼からはあまり情報を引き出せなかったが、乙女ちゃんの恐ろしさは身に染みた。あんな可愛い顔して「殺す」なんて表情を見せるとは……フフ、少し興奮したかも。


……会議中さりげなく全員の能力を尋ねる。乙女喰は警戒しているが、この状況では能力を明かさざるを得ない。それに能力を口にした時点で、お前たちは皆こちらの俎上の魚だ。ハハ……ハハハッ! 心の中で哄笑を上げる。


正直、乙女喰は本当に手強い。元々『2秒後の未来予測だけじゃない』と装おうとしたが、こいつは明らかに引っかからない。結局現在の能力をしぶしぶ説明する羽目に。だがこれも計算済みだ。この虚偽を後に立証すれば、彼らの中で『俺の能力は2秒後の未来を観測する』という絶対的真実になる。


乙女喰が「自分と乙女伊の能力は共に念動力」と述べた瞬間、それは虚偽だと断定した。彼を恥をかかせたい欲望に駆られ能力を発動――……その時初めて、未来予知能力が失われていたことに遅れて気付く。


あの後、彼から能力を借用したのに平然と能力使用を装い続ける様子から判断すれば、念動力は乙女伊の能力に違いない。では乙女喰の能力は何か? もちろん今は軽率な行動など取れない。目立つ能力だったら完全に詰みだ。


……まさか忘川恋までもが嘘をついていた。しかも「自分には能力がない」って。彼女も絶対に能力者に違いない――なぜなら俺は彼女に能力を使えるから。だが彼女はそんな風に演じることができたのか?俺はもう少しで本当だと信じるところだった……なんかこの子はちょっと危険かもな。もし彼女が味方なら、ある意味安心できるのだが。


おっさんに引きずられた後、まず有瀬雪子の能力の真偽をテストすることを決めた。そこで自分の体内の血液を操作しようとしたが、自分の能力じゃないため未熟で、誤って血液の流れる速度を大幅に速めてしまった。これにより全身が真っ赤になり激しく息切れがした。乙女喰が駆けつけた後すぐに「これはオレの能力の代償だ」と説明したものの……やはり無理がきすぎていた。


乙女喰を半場おっさんが引きずっていった後、俺はふと気付いた。半場おっさんの腕は人間の腕だ。しかも服で覆われていた。道理でさっき背中を撫でられた時の感触が毛むくじゃらじゃなかった。俺は心中で半場おっさんに感謝した。


グループ分けの話し合いが終わると、俺は乙女喰が妹に呼ばれた隙を突いて、借りた乙女伊の念動力の実験を試みた。だが奇妙なことに、明らかに実証された念動力が発動できない。なぜか? 未熟さか? 代償か? それとも別の要因か? とにかく使用不能で時間を無駄にした結果、戻ってきた乙女喰に見つかってしまう。完璧な説明したとはいえ……綻びは残した。


最大の失策は、やはり乙女喰に壁中央のドアを開けさせられた件だろう……引き倒された後、わざと激昂したふりをして能力を強調したが、まさかこれが彼の罠だった。ドアの向こうに手裏剣など存在しない。そもそも真に2秒先を見通せていたなら引き倒されるはずがない――この時点で乙女喰が俺の能力の真偽を疑っていることは悟った。だが気に留めなかった。些細な矛盾ごときでは、まさか正確に能力を看破できるとは…………結果として、俺は誤っていた。


公園の部屋で俺は膝から下が『感じるようで感じられない』状態になっているのに気付いた。瞬時に事態の緊急性を悟る。困った……殺すなんて絶対にできないよ。それに今のところ殺傷能力のある能力はなく、乙女伊の念動力も使えない。残るは乙女喰と忘川恋に期待するしかない……


『公園部屋』を出ると、乙女伊と有瀬雪子が『遊園地部屋』に入るのを目撃した。直ちに会議室で乙女喰の能力をテストしたが発動できなかった。続いて振り返った部屋をチェックするふりをして忘川恋に能力を行使――この時乙女喰は公園の景観を鑑賞していた。警戒されている可能性はあったが、もはや考慮する余裕もなく、ドアを閉め外に出た。くそっ……こいつら全く同じだ。忘川恋の能力も同様に使えない……


こいつらには本当に言葉を失うよ。現時点で能力を発動していないとはいえ、乙女伊と同じく未知の理由で俺は使えないのかもしれない。加えて、忘川恋が味方かどうかも不明だ。そうでなくても、彼らに手を出す自信などない……


たとえ遊園地の部屋へ侵入して有瀬雪子と乙女伊を襲撃したとしても、それは現実的じゃないだろう。理想的な状況では、乙女伊の能力を借用して彼女の念動力使用を阻止、俺は使えないが、これで接近戦を有利に展開できる。しかし、俺は即座に倒す能力が欠けていた。さらに、同時に二人を制圧するのは難しい。まして有瀬雪子が体内の血液循環を加速させることができる。もし彼女の体の機能が向上すれば、俺を反撃されなくても、脱出して救援要請しに行くことができる……


くそっ……!俺は混乱に陥った。生まれて初めてこの能力が弱いと感じる瞬間だ。任務の要求は「最低1人を殺せ」。1人殺せばこの身体の異変が止まるのか? 体の異変を感じているし、死への恐怖のためで、乙女伊と有瀬雪子が去ったドアを開けた。


くそっ……!俺は混乱状態に陥った。生まれて初めてこの能力が無力だと感じる瞬間だ。任務の要求は「最低1人を殺せ」。1人殺せばこの体の異常が止まるのか?異常の進行を感じし、死への恐怖に駆られて、乙女伊と有瀬雪子が行った後のドアを開けた。


薄暗い室内には何もない。半場おっさんがただ一人、壁を集中して触っている。


「おっさん、何してんる?」俺が声をかけると動作を止めた。


「ああ、長嶺か」半場おっさんは手の動きを止め、ゆっくりと顔を向けた。こう見ると、彼は本当に背が高くて威厳がある。俺は迷った……元々すぐ能力を奪って獣人化して爪で腹を貫こう。これで血液の飛散を防げる。だが本当に決心がつかない。膝が震えが止まらない、呼吸も荒くなっていく……


半場おっさんは俺の焦りを見抜いたようで、穏やかな口調で言った。「長嶺、何か言いたいことがあるなら遠慮なく言うんだ。ここで唯一の大人なんだから、頼ってくれて構わないぞ」


「…お、俺…」外見とは違う優しさに少し冷静さを取り戻し、俺は覚悟を決めて切り出した。「お、おっさん……お、俺が……お前を殺せる確率って……ど、どれくらい……?」


歯がカチカシと鳴り、初めて本気の殺意を込めて人を殺す台詞を吐く。胸を突き破らんばかりに鼓動が響く。


「……ふむ」半場おっさんは腕を組み、重い視線を俺に注いだ。「冗談ではないようだな? 率直に言えば、可能性は0%に近い」


「や、やっぱり……そ、そんな見た目でわ、わかる……」


「だが」半場おっさんは客観的に分析するように続けた。「君は2秒後の未来を観測できる。理論上、俺を殺すことは不可能ではない」


その言葉を聞いた瞬間、俺は意識が遠のくのを感じた。全身が震えて汗が噴き出して、殺人への恐怖が胃の底から沸き上がり、吐き気を催す。膝から崩れ落ちた。


「……どうやら君には言いにくい事情があるようだ。こんな時こそ大切な人を思い出すのもいい。心の支えになり、覚悟が定まる」


大切な人? そ、そうだ! 俺には家族が待ってる。それにカワイイ彼女・美命が帰りを待ってるんだ! ちゃんと一周年記念日を祝いたい! そうだ、俺は死んではならない。ここで震えてる場合じゃない!


俺は激しく立ち上がり、すぐさま目の前のおっさんに能力を使用した。するとおっさんは疑問の声を上げながら、体が人間の姿に戻った。


「おっさん……すみませんが、今すぐあんたを殺、殺さなきゃ!」


「……」おっさんは自分の体の変化を見て、一瞬で理解した表情を浮かべた。「君の能力は2秒後の未来を観測するものじゃないのか……」彼は真剣な顔で格闘の構えを取った。

「覚悟は決めたようだな。来い、私も全力を尽くす。ここで譲れない存在が私にもあるからな!」


そう言うや、おっさんは巨大な拳で俺の胸元を打ち込んできた。速度が速すぎて全く反応できない――だが……


「はっ……?」おっさんは訝しげに眉を寄せ、顔中に疑念を浮かべた


俺は能力を発動させた。衣服が瞬時に消滅し、筋骨が膨張し、全身の体毛が獣のように伸びた。本来なら左胸を貫くはずの拳が、巨大化した肉体では左下腹部を擦る程度。しかも痛みもかゆみも感じない。


「おっさん……ごめんな……」俺は一瞬の熱量を頼りに鋭い獣の爪を彼の腹部へ貫通させた。指が彼の体に触れないよう注意しながら。この感触は何だ? 吐き気が込み上げて目眩がしたが、辛うじて正気を保った。彼の驚愕した表情を眺めながら、貫通した姿勢のまま部屋の隅へ運び、その後爪を引き抜いた。


爪の獣化を解除すると、先程まで爪に付着していた血液がぽたりと落ちた。自分の爪にはほとんど血痕が残っていない。


思った通り、腹部にこの程度の損傷を受けても動脈の大出血は起きない。おっさんの腹には今、血赤い四つの小さな穴が空いている。血が止まらず、血液が服を真っ赤に染め上げ、その穴さえも見えなくなるほどだ。


生臭い鉄の匂いがべとつくように鼻を這い上がり、この光景を見た瞬間、頭の中がぐるぐると回り出した。これが本当に自分がやったことなのか……という疑念さえ湧き上がってくる。


「むす……」おっさんが何かを言おうとしている。俺は耳を傾けた。


「娘……すま……」その後は何も聞こえなかった。おっさん、あなたが譲れない存在は娘さんなんだな。だが……俺にもある。すまない……


心の中で謝罪している時、突然背後からの声に驚いた。それは有瀬雪子の声だ。なぜ彼女がまだ近づいてくるのか分からないが、初めて人を殺した動揺がもう思考を乱していた。乙女伊がいないことに気付くと、同じ手法で雪子の腹部を貫通させ、そのままおっさんの体へ投げつけ、慌てて逃げ出した……


ドアを出ると同時に体の獣化を解除し、椅子に座って激しく息をした。心臓がずっとドクドク鳴り止まない。爆発しそうな感覚で、唇が震え続けている。両手で頭を抱え込む。さっきおっさんと有瀬雪子を貫通させた感触が鮮明に蘇る。吐き気が込み上げてきて、殺人の罪悪感と後悔が同時に押し寄せた。


極限まで後悔した。これが初めての人殺しだ。それも二人同時に。あああああああ! なんで有濑雪子まで殺したんだ! 声を出して外に出るよう指示すれば良かったじゃないか。獣人化後の声は威厳があるんだから、彼女も俺を半場おっさんだと思って従ったかもしれないのに?


……ダメダメ、落ち着け落ち着け。そうだ、美命が俺と甘い一周年を過ごすのを待ってる。そう考えると、すぐに深呼吸を数回行った。


そして慌てたふりをして、乙女喰と忘川恋が所在する部屋のドアを開けた……


忘川恋が部屋の惨状を目撃して悲鳴を上げた。その声に引き寄せられるように、俺もついさっきの光景を思い出し、胃の内容物が逆流しそうになった。


乙女喰はこわばった足取りでおっさんと有瀬雪子の元へ近づき、状態を確認している。想像していたよりも冷静な動きだ。普通はこんな光景を見たら足がすくんで動けなくなるだろうに。俺のように。その姿に心底感心させられた。


そして彼はなんと雪子を抱きかかえ、その頬を叩き始めた。この光景を見て目眩がした。罪悪感から即座に制止しようとしたが、忘川恋が泣き声混じりに俺を引き止め、ようやく理性を取り戻した。


まさか、有瀬雪子が本当に目を覚ますとは。あんな傷が致命傷ではないのか? 心底驚きながらも安堵が込み上げる。有濑雪子が生きている……ははは、心の奥で思わず力を抜いてしまった。おっさんも生きてたりして? こんな非現実的な願いを抱いてしまう自分がいた……


その後乙女伊が到着し、この状況を見て即座に呆然とした。やはり一人の女の子だから、叫び声を上げなかっただけでもましだ。その後乙女喰が彼女を外に引っ張り出したが、何を話したのかは不明だ。


あの時、兄妹の会話に耳を傾けるべきだったかもしれない。しかし俺は自分の体の異常が止まらないことに戸惑いを感じていた。俺はまた人を殺さなければならないのか? さらに殺すのか?……おっさんと有濑雪子の腹を爪で貫いた感触を思い出すと、嘔吐感が押し寄せ、今にも吐きそうになった……


……乙女喰が煉獄狼とかいうやつを尊敬してるんだって? くそ、実は俺もなんだよ! あいつカッコいい上に優しいのに、なんで俺は殺しちまったんだ?


心の底からまたこの疑問が湧き上がる。ぼんやりしている間に、まさか乙女喰が突然名前を呼ぶとは。反射的に答えた瞬間、意識が途切れた……


…………なぜ俺は椅子の脚で縛られながら、乙女喰と漫然と話しつつ、ついさっき経験した事を回想しているのか? たぶんこれが俗に言う走馬灯なのか。乙女喰がほぼ完璧に俺の犯行手口を指摘した後、罪悪感が心臓の奥底で無限に増幅し、圧迫感で息が詰まるほどだった。言葉も出てこない。頭の中が殺した半場おっさんと苦悶の表情の有瀬雪子でいっぱいだ。もう人を殺したくない。あの感覚を二度と味わいたくねえ……


少し冷静を取り戻した後、俺は強がって乙女喰を脅したが、彼の口調からすると依然として冷静だった。ああ、あれはただ格好をつけたかっただけなんだ。元々自分の寿命がそう長くないと感じていたし、完全に諦めきっていた。その後は普通に乙女喰と会話を続け……


しかし会話の最中、脳裏を駆け巡るのは美命との甘い記憶ばかりだった。もうすぐ付き合って一周年記念日だ。彼女の両親と同居許可を取り付けていたことを思い出す。もちろん自分の親も了承済みだ。これは俺が最も愛する彼女が、付き合った時からずっと憧れ続けてきたことなのだ。


俺は毎朝彼女とふざけ合いながら朝食を食べ、一緒に登校する情景を妄想していた。昼休みには校庭で、彼女が早起きして作った弁当を食べる――もちろん彼女に食べさせてもらう。下校時はくだらない話をしながら帰り道を引き伸ばし、遠回りして放課後デート気分を味わったり……


俺は……死ねない!! 今死んだらこれらは幻想のままだ。ただの空想で満足したくない。現実にしたいんだ。たとえ……たとえまた人を殺すことになっても! 心臓が高鳴り始めた――


俺は即座に頭の中で脱出方法を構築し始めた。乙女喰の能力は接触した物を粉末化するなら、彼に触れなければ良い? 忘川恋の能力は不明だが、多分強力ではないだろう。有瀬雪子は負傷者、ならまず乙女伊を制圧すれば!


できる! 絶対できる。獣人化で拘束を振りほどいたら、即座に乙女伊を探して能力を発動させ、身体能力を最大まで引き上げて崩落する噴水を回避する! 俺にはできる。純愛の力がある俺が、こんな噴水を避けられないわけがない。心の底では乙女喰を嫌いじゃないと感じ、それを口にした瞬間、脳内でシミュレートした行動を実行に移した……


これが俺、罪人・田寄長嶺の生命最後の余韻である。最期に際し、半場和実や有瀬雪子……そして美命の許しを望むべくもない。だがせめて、彼らへ最後の謝罪を捧げさせてくれ!……

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