最初の任務Part.2
喰はまさかこんな場所で懐かしい声を聞くとは思ってもみなかった。一瞬耳を疑った彼は音の方向へ視線を向ける。明るさに慣れていない瞳に映るのはぼやけた輪郭ながら、紛れもなく妹の伊の姿だった。
「……伊?」自然と零れた声。すぐに駆け寄りたい衝動を、彼はある理由で抑えつけた。周囲の光に適応した視界が、少女の表情を鮮明に映し出していたからだ。この完璧な病嬌顔を、いったい何年ぶりに見るのだろう――脳裏を掠めた郷愁を、喰は強制終了させた。
「無事で良かった、伊。心配してたんだぞ」疑問を抱えつつも足を進めようとした瞬間、背後の雪子が服を強く引っ張る。(……まずい。伊への驚きで雪子の存在を完全に忘れていた。道理であの表情なわけだ)彼は深くうなずきながら状況を飲み込んだ。
「ねぇ、お兄さん~あの女の人ととっても仲良しなのね~?」伊の笑顔が鋭いナイフのように雪子を貫く。喰の背後から覗いていた雪子は慌てて身を縮ませた。
いっ!妹の恐ろしさはこの時ばかりは本気か……って雪子ちゃん?ずっと後ろに隠れてないで!怖いのは分かるけど、何か言わないと!
振り返った先で、雪子が服の裾を握りしめたまま震えているのを確認する。どうやら頼りにならなそうだ。
「伊、誤解だ。この子は有瀬雪子。ついさっき会ったばかりで、友人ですらなく、ましてや仲がいいわけないだろ?」
「先輩……!」
雪子はその言葉に反応し、むくれながら拳で喰の背中を小突き始めた。
「 ちょうと、なんでまた泣きそうな顔するなよ!?」
事実を指摘されても、雪子は納得いかない様子で唇を震わせていた。
「へぇ──? お兄さん、可愛い後輩を泣かせちゃったの?」
「いっ!」いつの間にか喰の真横に立つ伊の声に、二人の動きが止まる。雪子は泣くことさえ忘れ、硬直した。
「大丈夫さ、伊。ほら、もう泣いてないじゃないか」喰は雪子のことを考えればイを優先する方が賢明だと判断した。後で謝れば済む話だ。「伊もここにいるとは思わなかったよ」
「ふん、邪魔だったわね?」冷たい口調ながら、伊は喰の袖をぎゅっと握りしめて離さない。その姿を見た喰の顔から、この空間に来てから張り詰めていた緊張が溶けていった。つい手が伊の頭に伸び、ふわっとした髪を撫ではじめる。
「そんなことない。お前が怖がって泣き出すんじゃないかと、ずっと心配してたんだ」
「……もう子供じゃないんだから!……にひひ...」
頭をなでられる伊の緊張が次第に解け、頬を緩ませた。
「……」
雪子はやり場のない苛立ちを覚えつつも、姉と過ごした日々がふと脳裏をかすめ、瞳が虚空を見つめている。
最初から全てを完璧に見届けていた和実は、現実でこんな兄妹劇が繰り広げられるとは思わなかった。まさにライブ感溢れる出来事だ。
「……」
喰が和実の方を見つめ、一瞬硬直するやいなや、雪子と伊を置き去りにして駆け寄った。「ほほぅ――こ、これは本物の体毛だな、その……」
「うぅ……」
突然腕を離された伊は不満そうに唇を尖らせる。
和実は少年の熱狂的な眼差しに逆らえず、ゆっくりとうなずきを返した。
喰は即座に獣人の体に触れ始める。確かに硬い。岩のような質感に思わず拳でコンコンと叩いてみる。
雪子と伊は黙ってその光景を見つめていた。雪子は一連の出来事に脳がオーバーヒート状態、伊は兄の趣味を理解しているが故の呆れ顔だ。
「有瀬先輩、さっきはごめんなさい……」伊が先に口を開いた。
「……? いいのよ、お兄さんを想う気持ちでしょ」まだ思考が追いついていないのか、雪子は驚くほど素直に応じる。
「うん、ありがとうございます! 有瀬先輩!」
にこりと手を差し出す伊に、雪子は照れながらも手を握り返す。「今なら特別に『雪子先輩』って呼んでくれたら、許してあげてもいいわよ?♪」
「え? そ、その……雪子…先輩?」急変した態度に伊は言葉を詰まらせた。
「ははっ、良い子ね……かわいいわぁ~♪」雪子は突然伊を抱き締め、伊は慌てて翼のように腕をばたつかせた。
「くっ……先輩……!?」
喰は横目で伊と雪子の様子を確認し、ほっと肩の力を抜くと、和実の元から離れた。
実を言えば和実は毛づくろいされる感触が心地良く、娘にもこうしてほしいなどと非現実的な願望を抱いていた。喰が口を開こうとするのを見て、すかさず決めポーズを取る。「我が名は半場和実。『煉獄狼』と呼べ、ふんふん——」
「あ、ああ……」なんなんよこの獣人、まさかちょっと中二じゃ、と喰は内心で呆れつつ、「では半場さん。僕が乙女喰、妹が大変お世話になり……」深々と頭を下げる。
「はっはっは! 気にすることなどない。むしろお嬢様の方にお世話になっておる」和実の豪快な笑い声が響く。
(お嬢様? 伊はここでうまくやっているようだ……)喰は眉を吊り上げながら、遠くで雪子に抱きつかれてもじもじする妹の姿を確認した。
「半場さん、その姿は能力によるものですか?」喰は最大の疑問をぶつけた。この世界に本当に獣人が存在するとは信じがたかった。
「ああ、そうだ。驚かせたらすまないな」口にした瞬間、和実は失敗に気付いた。眼前の少年は自分を隅々まで触り回したのだ。恐怖などあるはずがない。
「冗談でしょう……めちゃくちゃカッコいいじゃないですか!」
喰は心から親指を立てる。指先がぴんと天を指す様が熱烈な賛辞を物語っていた。
「ふん──」
和実は再び決めポーズを取った。少年の称賛が背中のたてがみを思わず震わせる。
(どうやら信用できる人物らしい)
喰は伊を見つけた時から彼女の傍らに佇む巨体に気付いていた。だが獣人はただ立っているだけ。伊も特に警戒する素振りを見せていない。もし不信感があれば、あの妹が獣人に近づくはずがない。そもそも──伊は獣人を心底嫌っているのだ。俺的にはカッコいいと思うけどね。とにかく敵意がないだけでも幸運だった。
喰はこの部屋が会議室のような造りであることに気付いた。大きな円卓と、それを囲む六つの椅子。みんなに討論させたいのか? 悪趣味だな、悪魔猫……
「半場さん、あなた方もあの階段から……?」喰が振り返って指差す先には、もはや壁しかなかった。自分が勘違いしたのかと部屋中を見回すが、階段の痕跡は見当たらない。
「階段? ああ、そうだ。私たちもあの階段を降りてきた。……ん? 消えてる?」和実も辺りを見回し始める。
「……」
彼の言葉を聞き、喰は顎に手を当てて考える。(俺と雪子が降りてくるまでは階段が存在していたのか? なぜ出生地点に戻れないようにした? あそこには何もないのに)
「半場さん、ここに来てからのことを教えてもらえますか?」
「ああ」
和実が話の途中まで説明すると、伊と雪子も会話に加わってきた。伊はいくつか補足を入れ、雪子はその巨体を少し怖がっている様子で、ほとんど発言しなかった。
「みんなはいつ任務提示を受けた?」伊と和実の報告にその点が抜けていたため、喰は急いで質問した。
「あっ」伊は顎に指を当てて首を傾げた。「さっきよ。おじさんも私と同じタイミングでしょ?」
「え? でもアタシはここに来た直後に受けたような……」雪子が信じられないという声を上げる。
「……」通常任務は人数が揃ってから発表されるはずだ。だとすれば雪子が最後の参加者か? なら他の二人はもう……「残り二人はどこだ? ここに来ているはずだろう」
「えっ!?」伊は明らかに動揺した。「また話さなかったのに、お兄さんが気付くなんて!」
「呼びに行こうか? まだ遠くには行っていないはずだ」和実の重々しい声が響いた。その威厳ある物言いに、喰は背筋が伸びるのを感じた。
「ああ、お願いします、半場さん」喰は和実が部屋の隅の扉に入っていくのを見送り、妹二人組に向き直った。「戻るまで席に着いてよう」そう言って無造作に椅子を選んで腰を下ろす。
「うん!」二人は声を揃え、喰の隣の席に自然と腰掛けた。
(この部屋には三つの扉がある。隠し扉がなければ確定か? さっき伊と半場さんが調べた部屋に重要な物は無いと言っていた。五人と相談してから改めて調査し、探索チームを分けるべきだ……)
(だがこのゲームが単なる密室脱出なら、出生地点を封鎖する必要があるか?俺は思わずそう思った、ドアだけでなく階段まで消すのは過剰だ。あそこに真の脱出方法があるのか? それとも……新たな参加者が現れるのか? 演者が六人というのも悪魔猫の片面的な主張だ。途中で参加者増える可能性は?)
喰は天井を睨みつけた。(仮に途中参加者が現れたとして、その設計意図は? 我々全員を殺すため? だが下降経路は消失した。このように能力や他の何かで転送で来たとして、一人で六人をどう倒す? まさか桁外れの能力の持ち主がたまたま現れると? そんなに多くのゲームでこんな設計は不合理だ。むしろ六人の中にスパイを仕込む方が合理的だろうに、ハハ……
自らの思考に嫌悪を覚え、首を激しく振る。
「……なんでそんなに近づいてくる」
ため息混じりに問うと、雪子と伊が椅子ごと喰の両側に密着していた。伊は喰の服の裾をねちっこくつまんでいる。
「ふんっ、先輩ったら可愛い後輩に近づかれて嬉しいはずでしょ? まさか男性の方に興味があるとか? あら、道理でさっきあんなに熱心に……」雪子は口元を手で隠し、猫のような笑みを浮かべる。
「伊、体調は大丈夫か? 何か変なところはないか?」喰は妹の様子を気遣うように視線を走らせた。
「お兄ちゃん、これってやっぱり運命だね。二人でこんなところにいるなんて……にひひ~」
ちゃんが戻って、気分が良くなったようだ。
「うぐ……わああん! この兄妹アタシのこと嫌いなの!? 無視しないでよぉ……」雪子は涙を浮かべながらクーの上着にしがみつく。
「わわっ! そ、そんなことないよ雪子先輩! ほらお兄ちゃんも早く謝って!」予想外の展開に伊は焦った様子で兄の袖を引っ張る。
「分かったよ。ごめん、雪子ちゃん」喰は既に彼女の芝居がかりな性格を看破していたが、それでも丁寧に頭を下げた。「落ち着いてくれよ。ほら、後輩の前で泣くなんて、先輩としてちょっと人間失格じゃないか?」
「むぐっ……」雪子はすぐさま袖で涙を拭い、「じゃあ……アタシも連れてってよね?」
「大丈夫よ雪子先輩、泣き止んだらね」伊が優しく応える。涙ぐむ雪子の姿に、年下ながら母性が疼くのを感じていた。
「楽しませてもらうわよ……」雪子は少し落ち着きを取り戻したものの、まだ鼻声が残っている。本気で傷ついていたらしい。
喰が言葉を探していると、ちょうど和実が二人を連れて戻ってきた。男は見知らぬ学院の制服、女は……渡良の女子制服? 1つのゲームに同校生3人も揃う偶然? それに……あれは忘川だよね。やはり能力者だったんだ。
「何だよ、新人ってこいつらかよ。弱っちいじゃねーか!」イヤリングの男が喰と雪子をじろりと見下ろす。主に喰に視線が集中していた。「お前、結構モテるんだな?」
「……どうも」
なぜか敵意を含んだ声に、喰は眉をひそめる。心当たりはないはずだ。
「乙女ちゃん、なんでこんな人と仲良くしてんだ?」
「あたしの兄よ!」
「マジかよ?! お前の兄が能力者で同じゲームに? ハァ?! そんな偶然ある?」
大袈裟な芝居だ。威嚇なら雪子を怯ませる程度の効果しかない。視線を移すと案の定、雪子がやはり震えている。だが単なる威圧以上の意図がありそうだ……
「確かに妹です。偶然が重なりましてね」喰はゆっくりと立ち上がり、敵意を滲ませないよう声のトーンを調整した。
「ヘェ──」男は立ち上がった喰を無視し、伊に覆い被さるように話しかけた。「なあ、本当にあいつの妹か? ダサい兄貴じゃねえか。オレが兄貴になってやろうか?」そう言いながら頬に触れようとした手が、突然硬直する。
「私に言う分には構わないけど──」伊の声が冷たい刃となる。「お兄ちゃんの悪口を言うなら、殺すよ?」
「!?」
男は喉仏をゴクリと鳴らした。雪子もびっくりした、もちろん和実も、彼は額の汗を拭う。男は慌てて喰の対面席に座り直した。「悪ぁ、このお兄さん。ちょっと格好つけたくてさ。」
「ああ.....」
「乙女ちゃんも、マジになんなよ」
「...別に」
普段ならこんな薄っぺらい男を許さない。妹に手を出す不届き者など、断じて容赦しない。だが今、喰の脳裏を占めていたのは伊のあの言葉だ。(あの無垢な妹が「殺す」と言った? いや、俺を守るためとはいえ……くそ、どうしてあんなに愛らしいんだろ)
重い沈黙を破ったのは和実の咳払いだった。「……それでは、先ず自己紹介から始めようか。……よろしいですか、お嬢様?」
「ウィ――」
伊が短く頷くと、和実は肩の力を抜いて進行役を務め始めた。
(妹よ……! 成長が早すぎて兄が追いつけないでいるぞ)憧れの和実を見やりながら妹の意見を求められる喰の胸に、ざわめく感情が渦巻く。
「エヘン、まずは私から」そう言いながら和実は獣人化を解除した。「我が名は半場和実、ご覧の通り能力は変身――つまりこの獣人形態になることだハハハ!」
宣言すると再び獣人化し、爽やかな笑い声を響かせた。
和実の豪快な笑い声に応えたのは喰の掛け声だけだった。気まずそうに鼻をこする和実。「どれくらい滞在するかわからんが、何かあれば遠慮なく言ってくれ。ま、そんな感じだ」普段の業務では何度も自己紹介を繰り返してきたが、若者たちを前に改めて名乗るのは学生時代の転入生紹介以来だ。
喰の合図で一同が拍手を送る。
「じゃ、次は僕から。右隣が有瀬雪子、左が妹の乙女伊。そして僕は乙女喰、『喰』って呼んでくれればいい」二人の同意を得て立ち上がり紹介する喰。
「能力は? お前ら三人の」机に頬杖をつきながら指先で円を描く男子の投げやりな質問。
「能力の話……プライベートすぎるだろ? 秘密でもいいか?」喰が両手を机に突く。
「これから苦楽を共にする仲間じゃないのか? これじゃ信頼できないんだけど」
相変わらず無関心そうに言葉を返す男子。
くそ……ここでつまずくとは。半場さんと雪子は信用してくれているようだが――信頼関係にヒビが入れば疑いは膨らむだけだ。そもそも忘川の考えもわからない。そう思って、彼は頭を下げて二人の意見を聞いた
「わかった、僕たちも能力を話す。その代わりお前が先に話せ。いいだろ?」三人で協議を終えた後、喰が提案した。
「ハハッいいぜ。そういやまだ名乗ってなかったな? 俺様の名前は田寄長嶺、よろしくな」長嶺が一同に軽く会釈する。「オレの能力は――」ここで故意に間を空ける。演出のつもりだろうが、喰は長嶺の表情を観察していた。普通なら周囲を見回すべき場面で、長嶺が真正面だけを見つめ思考停止しているのが不審だった。
「……未来予知」長嶺が言い終わると、五人を見渡した。
……未来予知? まさか本当にそんな能力が存在するのか……いや、嘘の可能性も排除できない。
「そこの、そろそろ交代だろ?」長嶺が焦らすように詰め寄る。
「未来予知って言ったな? だったら今すぐ僕の能力を予言してみろ。どうせ未来では話してるんだから、今わざわざ説明する必要なくなるだろ?」喰が顎を手の甲に乗せ、不気味な笑みで長嶺を見据える。
「ぐっ……」長嶺が椅子に倒れ込む。「……5分後までしか見通せねえ」
「時限付きか? ふぅん──じゃあ決めた。僕は5分後に能力を話す。君は……もう知ってるはずだ?」
「……」くそっ、知るかよ。こんな手合いがいるとは。長嶺は舌打ちを噛み殺し、開き直るように両手を広げた。「2秒。現実とのズレは2秒。今度はマジだ」
「じゃあ2秒後に僕が能力を話すから、当ててみろ」喰が追撃をかます。たった2秒の未来視とはいえ、時間能力を甘く見るつもりはなかった。
「エリベル……? 何だそりゃ」長嶺が混乱した表情を浮かべる。
「……どうやら本物の2秒後未来観測らしいな。観測結果に基づく行動が現実に投影される仕組みか」喰は2秒後に「エルベール」と言うつもりだった。この名前は長嶺が知り得ないものだ。なぜなら近所のチワワ「デプシロン」に適当に付けた名前だからだ。現実時間は既に2秒経過しているのに発言していない。未来がもう改変されたのか……たった2秒でも操作次第で念動力より危険だ。本当に存在したのかよ、時系列能力。
「てめえ……ふざけやがって……」長嶺は席を蹴ろうとしたが、何かを見たように突然動作を止めた。伊はもう一度脅かす準備を整えていたのだが。
「まあ、じゃあお前が能力を明かしたから、こっちは彼女から始める。いいよな、雪子?」
「ふん! アタシを誰だと思ってるの? こんなの朝飯前よ!」威勢のいい台詞とは裏腹に、雪子は立ち上がれずに喰の袖を摘まんでいる。
「……アタシの能力は自分の血液を操ること。つ、つまらない能力だから……なら、以上!」俯きながら宣言する雪子の頬は真っ赤に染まり、目頭に涙の粒が浮かんでいる。
「雪子」「雪子先輩、すごい!」同時に褒め称える喰と伊。雪子が慌てて顔を上げると、今度は得意げな表情で「当たり前でしょ」と言わんばかりの顔になっていた。
「なんだ、本当にたいしたことないじゃねえか?」長嶺が退屈そうにあくびをする。
「長嶺、いい加減にしろ」和実の低音が響く。
「ああ、僕と妹の能力も大したことない。両方とも念動力さ」喰がタイミングを見計らって説明を続け、和実の発言後の沈黙を破る。
「念動力か……道理で」和実が深くうなずく。
「マジかよ! 兄妹揃って念動力なんて確率あり得ねえだろ!」長嶺が椅子ごと後ずさる。
「はは……悪いな。でも僕と妹がここにいるってこと、つまり血の繋がった絆が証明ってわけさ」
「じゃあ今すぐ実演しろよ」
「いいだろう。目で見ないと信じられないんだな……失礼」そう言うと喰が右手を掲げる。標的はもちろん田寄長嶺だった。
クソッ……この野郎、恥をかかせてやる。能力使えるもんなら使ってみろよ。長嶺が喰を心の中で呪う。「えっ……? ま、待て! なんで」信じられない事実が起こる。何かの力で身体が浮遊感に包まれ、ぐるぐると回転し始めた。理解不能。混乱する長嶺の胃袋が逆流しそうになり、視界が白く滲んで意識が遠のく。
「あれ……やりすぎたかな? ごめんごめん田寄くん、大丈夫? プッ……」
喰が長嶺を椅子に戻すと、最後に笑いをこらえきれずにいた。
「お兄ちゃんたな~……」伊はとっくに笑いの余波で涙を拭っている。
「ふん~? 先輩の能力が念動力だなんて……まあまあの能力じゃない。これからちゃんとアタシのボディガードしてよね?」雪子は喰の能力に目を見張る。
まずい、超爽やかだ。喰は本気でそう思いつつ、この騒動でも微動だにしない忘川の様子に違和感を覚える。彼女は本気で無関心らしい。
「エヘン、やりすぎだぞ、喰」和実は内心幾分か溜飲を下げつつも、秩序を重んじる姿勢を見せる。
「はい、ごめん!」
「だが元凶は長嶺だ。次だ」気絶した長嶺を除く全員の視線が恋へ集中する。彼女の頬が瞬時に紅潮する様は、喰が教室で話しかけた時と全く同じ反応だった。
「そ、そ……その……あたし……」皆の視線に耐えきれず恋が俯く。明らかに人前が苦手そうだ。
「…………」ここはフォローが必要だと判断した喰が、忘川の人物像を測りかねつつも独自の方法で雰囲気を和らげる。
「なにぃ――?」わざと声を裏返らせる喰。「雪子ちゃんが半場さんを怖がってただと!?」
「え!? ちょ、ちょっと、先輩!?」
「僕はむしろカッコいいと思ってたのに」
「そんなこと言ってないもん!」雪子が床を踏み鳴らしながら立ち上がる。
「……ははは」和実が照れくさそうに笑う。
「本当に?」
「……ほんのちょっとだけかも……」雪子が人差し指で小さな円を描く。
「……ぐっ」和実のHPが10%ダウン。
「大丈夫ですよ雪子先輩、おじさんが怖いのは事実ですから~」
「……ぐぐっ!」和実のHPが33%ダウン。
「えっと……」雰囲気を和らげるつもりが半場さんを傷つけてしまったことに喰は後悔し、気まずそうに和実から視線を逸らす。すると恋が好奇心に満ちた瞳で自分を見つめていることに気付く。目が合った瞬間、恋は慌ててまばたきをした。
「そういえば忘川さんとはクラスメートなんだよ」
その言葉に恋の瞳が大きく見開かれる。彼女が急いで目を伏せる一方、雪子の視線が喰と恋の間を往復する。
「えっ……?」雪子がフリーズしたように椅子に倒れ込む。姉の教室に頻繁に出入りしていたのに、そんな人物を知らなかったことに戸惑いを隠せない。
「お兄ちゃんさ、知り合いの女の子って結構いるのね?」伊が頬杖をつきながらも、小さな不満を滲ませる声を出した。
「そうだよな忘川さん?」ここは伊の発言をスルーするのが賢明だと判断する。
「そ、そなんです……」恋が深呼吸して立ち上がる。頬の紅潮は消えないものの、何とか平静を取り戻した様子。「わ、忘川恋です。能、能力は……ありません。ありがとうございます!」即座に着席する彼女の耳朶まで真っ赤になっている。自己紹介はやはりハードルが高すぎたようだ。
恋が座ると同時に拍手が沸き起こる。彼女の羞恥心を煽る可能性を承知の上で、これが最善のフォローだと喰は判断した。
能力なし……? それが真実なら、自分こそが無能力者では? だが悪魔猫の「唯一の落選者」という言葉が脳裏を掠める。なら可能性は一つ──恋が嘘をついている。
だが、あの演技で嘘がつけるだろうか? むしろ嘘ならその努力に感服するべきでは……。彼女が嘘をつく可能性は排除できないが、喰はどこか同類を見出したような気がした。
「能力がないだと? 間違いないのか、忘川。ここに来る者は皆能力者のはずだ」和実が最初に疑問を投げかける。
「あ、あの……そうかもしれませんが、本当です、あたしは何も……」恋の頬の赤みが徐々に引いていく。緊張が解けてきたのか、声に少し落ち着きが戻っていた。
「ふむ……まさか無能力者がここに来る事例があるとはな。これは少し不公平だな」
「無能力もクソもねえだろ、明らかな嘘だっつの! おっさん」長嶺が頭を押さえながら起き上がる。顔色は相変わらず悪い。
「うぅ……」恋が突然の罵声にびくっと肩を震わせ、再び硬直する。
「長嶺! いい加減にしろ。こっちに来て話がある」和実が喰に目配せする。
「や、やめろ……うっ……吐きそう」長嶺が苦悶の表情で口を押さえ、和実に引きずられるように離れていく。
疑問が山積みだが、とりあえず半場さんに感謝しておこうと喰は心の中で呟く。
「ところで忘川先輩、お兄ちゃんのクラスメートなんだ! 普段の教室での様子教えて!」伊が目を輝かせて詰め寄る。
「そ、その……乙女ちゃん……」
「あっ、『伊』でいいよ! 先輩なんだから堅苦しいこと言わなくて」
「僕も『喰』でいいぜ。『乙女』って呼ばれると兄妹混同するし、同級生だしな」喰がフォローを入れる。
「ええ……?」雪子が二人のやり取りを見て焦り、「そ、その……先輩だから特別よ? アタシを『雪子』って呼ぶのは許してあげてもいいわよ?」
「わ、わかった……」恋が頬を赤らめつつも好意を受け入れる。「じゃあ……雪子ちゃん、伊ちゃん、それと……喰くん。さっきはありがとう」
「私なんか何も……それより学校でのお兄ちゃんの話、早く聞かせて!」伊の瞳がキラキラと輝いている。雪子も無言で耳を傾ける姿勢だ。
「実際のところ喰くんとはクラスでほとんど話さなくて……でも聞きたいなら……」
ああもう、妹よ、君は本当に諦めが悪いだね。どう見ても女子トークに突入する展開だ。喰が視線を和実たちへ向けると、和実が長嶺の背中を優しくさすっている。……は? 半場さん優しすぎない? と同時に気付く。和実の手が人間の肌のままなのに、他の部位は完全に獣人化している事実に。
全身変化だけでなく部分変化も可能なのか? それに先程まで毛皮に覆われていた腕に、なぜか現在は制服の袖がある。獣化時に衣服が消滅し、解除時に再構成される仕組みか? これは新たな発見だ……
その瞬間、長嶺の顔が真っ赤になっていることに喰が気付く。いや、顔だけでなく露出した肌全体が発赤し、本人も荒い呼吸をしている。喰は女子グループに別れを告げ、男子グループへ歩み寄った。
「半場さん、これは?」喰が長嶺の傍らに近寄ると、周囲の気温が上昇していることに気付く。
「いや……突然こうなってな。手の施しようがなくて」和実が乾いた笑いを浮かべる。
喰の脳裏に浮かぶ可能性は一つ──能力使用の代償。もしそうなら、伊の微々たる代償と比べて極端すぎる。
やがて長嶺の身体が徐々に平常に戻り、床にへたり込む。「フゥ……死ぬかと」
「どうした? 急にそんな状態に?」喰が即座に詰め寄る。
「!……なんだお前か。大したことねえ、能力の副作用だよ」長嶺はびくっと肩を震わせ、虚勢を張るように答えた。
「この副作用はちょっと……」喰が乾笑いを漏らす。あまりに過酷な代償を課されたものだ。
「喰、ちょっと休ませてやれ」和実が人間の手で喰の肩を叩き、思考を遮る。二人は円卓へ向かう途中だった。
「半場さん、女子ってあんなに早く打ち解けるもんですか?」喰が目を丸くする。女子グループは椅子を寄せ合い、リラックスした様子で談笑している。忘川さえも柔らかい表情を見せている。
「ま、仲良くなるのは良いことだろ! ははは!」和実が三脚の椅子を彼女たちの対面に配置する。
和実の咳払いで女子たちの注意が引き戻されると、喰がタイミングを計るように提案した。「そろそろ部屋の探索を始めよう。まだ二部屋残ってるし、グループ分けして……」
「私! 私が!」
「はい、どうぞ伊ちゃん!」
「雪子先輩と忘川先輩と一緒がいい!」伊が弾けるような声で希望を述べる。
「却下!」喰は伊が自分と組みたがると予想していた。……駄目だ、自然にそう考えるあたりが救いようのない妹コンだ。
理想編成なら半場さんが女子組を護衛し、自分と長嶺が別室へ向かうべきだが、誰も賛同しないだろう。
「うう……お兄ちゃん意地悪~」
「そうだよ先輩、そんなにケチじゃダメですよ~?」
「そうだそうだ!」
は? 忘川さんまで同調するとは! キャラ設定が違うじゃないか! 喰は衝撃で目を見開く。
(しばらくの議論の後)
「エヘン、とりあえずこのメンバーで。僕と田寄、忘川の三人組。残りは別グループで」喰は内心妹と組みたかったが、忘川の無能力発言への疑問が拭えなかった。後で謝ろう、男性二人組なんて不愉快だろうに。
「ウィ――」伊が不満げに唇を尖らせた。兄の組分けには納得いかない様子ながら、しぶしぶ頷く。彼女は和実に獣耳を解除させた上で、すると人差し指を小さく震わせ、こっそりと部屋の隅へ喰を呼び寄せた。
「お兄ちゃん、実はさっきから能力が使えないの……」喰が傍に来ると、伊が蚊の鳴くような声で耳打ちした。
「……鉛筆は?」
「もちろん持ってる! 確認したばかりなのに、どうしても発動できないの」
「……伊、冗談はよせよ?」最後の望みをかける喰。
「お兄ちゃん! 私がそんなことするわけないでしょ! もう……」伊が軽く床を踏み鳴らす。
「わかってる。とにかく内密に。後で半場さんを頼るんだ、な?」
「ウィ!」
能力が使えない? なぜ突然? 何があったんだ……喰は伊から離れながら思考を巡らせる。
「おい! その椅子をジッと見つめてどうした?」喰が壁際の椅子の前で棒立ちしている長嶺に声をかける。
「!……ちっ、おいおい突然話しかけるなよ!?」長嶺がうんざりした様子で振り向く。
「ああ、悪かった……」どこか違和感を覚えつつも言語化できずにいる喰。「で、椅子の何が気になる?」
「……別に。美少女が座った椅子の香りがするかとか考えてたわけじゃねえぞ」長嶺がそそくさと離れようとする。
「……結構変態じゃん?」喰の本音が零れる。
「うるせえ! これが漢だ!」
「まあいい。探索に行くぞ」喰が長嶺の腕を掴み、壁中央の扉へ引っ張る。恋がもぞもぞと後をついてくる。
喰は他の三人が別の部屋に入ったのを確認すると、長嶺をドアの前へ押しやった。
「なんでオレがやらなきゃなんねえんだよ?」
「当然、お前の能力のためだろ。早く行け」喰が背中を押す。
「……わかったよ!」長嶺が深く息を吸い込み、ドアに手をかける。喰と恋は両側に身を隠した。
「そ、そうするぞ!」長嶺が勢いよくドアを開ける。喰は鉄球が出てくるかと思ったが……
「危ない!」叫ぶと同時に長嶺を手元に引き寄せ、二人とも床に転がった。
「何すんだクソ野郎!」
「ドアの裏から手裏剣が飛んできたんだ。咄嗟に引いただけだ。悪かった」
「お前化け物かよ? もうオレの能力を忘れたのか?」長嶺がすぐに立ち上がり、喰を助け起こそうと手を差し伸べかけたが、結局やめた。
「悪かった、さっきは僕が悪い」喰が立ち上がり服を払う。埃ひとつついていない。「さあ行くぞ。相変わらずお前が先だ」
「てめえ絶対友達いないだろ?」長嶺が捨て台詞を吐き、真っ先に部屋へ入る。
「あの……大丈夫ですか、乙女くん……?」
「大丈夫だって。それより『喰』でいいんだよ」
「……じゃあ、あたしも『恋』で。そうすれば平等だから」恋は少し照れくさそうに。「でも本当に手裏剣だったんですか? アニメみたいなもの実際に見てみたかったな」
「あいにくもう消えてるだろう。急ごう!」
恋が胸の前で可愛らしくOKサインを作るのを見て、喰は思った──人は他人の断片的な言葉ではなく、自分で確かめるべきだ、と。
「なんだよ、ここも何もねえじゃねえか」長嶺が部屋中央の公園にあるような噴水を退屈そうに蹴り上げる。「あの可愛い猫ちゃん、マジで脱出させる気あるのか?」
「すごい、すごいよ! ここに公園があるなんて!」恋が瞳をキラキラさせながら噴水の周りを駆け回り始める。
「……ああ、そうだな……」喰は信じられない光景を前に固まる。ドアの向こうがこんな広大な公園になっているとは――見渡す限りの緑が広がり、頭上には真っ青な空が広がっている。数歩進んで振り返ると、元いたドアが景色の中に浮かぶ異物のように存在していた。両側は公園の風景が続いているのに、ドア周辺だけが不自然に歪んでいる。思わず触れた指先に透明なバリアの感触が……これはまさに……
でも確かに一見普通の公園だが、空間自体が制限されている。ここで脱出の手がかりを探すのか……だが、この床はどう見ても掘り起こせそうにないな……
「フギャハハハ! お、お前マジでぶつかったんだな!」長嶺の爆笑が喰を現実へ引き戻す。恋が無形のバリアに興奮のあまり衝突したらしく、彼女は確かに額を押さえてしゃがみ込んでいる。
「いい加減性格改めないと、一生モテないぞ田寄くん」喰が言いながら恋へ近づく。
「……へっ」長嶺は嘲笑うようにドアへ歩き出す。「ここに用はねえ。付き合ってらんねえ」
「大丈夫? わ……恋?」喰が思わず旧称呼を口にしかける。
「あ、平気! ちょっとぶつけただけだから。ありがとう~」
「この公園は見かけより狭い。透明な壁があるから気をつけて」
「うん、でもあそこにうさぎさんがいて……つい」恋が遠くを指差す。
喰が視線を向けると、確かに灰色の野ウサギがいる。現実の公園そっくりだ。
「なぜ公園なのかはわからないが、手がかり探そう」喰が立ち上がり手を差し出す、長嶺が部屋を出たことに気づいた
「……ええ、頑張ろう!」恋はためらいながら自力で立ち上がる。差し出された手を握らず、喰は鼻を触って掌を背中へ回した。
喰はすぐにドア脇へ移動し、目だけを覗かせて長嶺を観察する。彼はただ外で呆然と前方を見つめているだけのようだ。代償を受けている様子ようだ、でも肌は赤くならない。半場に引きずられた後の発赤は時間差があった。エリべル発言時とのタイムラグを考えると、代償が遅延性の可能性が……長嶺が首を振るのに気付き、喰は慌てて公園を見るふりをする。
「うわっ! なんでお前ドアの横にいるんだよ!」長嶺が部屋へ顔を突っ込む。
「いや……この景色が綺麗でね~」喰が芝居がかったため息をつく。
「はあ」長嶺が公園を一瞥し、「マジで何もねえじゃねえか」と吐き捨てるように去っていく。ドアがバタンと閉まる音が響いた。
喰は再びドアを開ける気になったが、長嶺があの姿を他人に見られたくないだろうと判断し止めた。公園の境界線を指先でなぞりながら歩く。透明な壁の感触を確かめるごとに、このゲームが本当に密室脱出なのか疑問が膨らむ。伊の話では既に探索済みの部屋が遊園地だったという。密室要素が皆無な現状、いったい何を求められているのか……伊たちが今探索している場所にこそ鍵があるかもしれない。
一周したところで、壁に仕掛けはなさそうだと判断。残るは中央の噴水だけだ。恋が静かにその縁に腰かけている。
「まさかコインを入れる必要があるのか?」姉の神代ちゃん性格なら、こんな遊びを好むかもしれない。そう考えながら、喰は恋の元へ向かった。
「!」恋が目を見開く。「そうかも! じゃあ早速コインを入れましょう!」
「え、待って! 適当に言っただけだよ! そもそも小銭なんて……」
「ふふん、大丈夫」恋がスカートのポケットを探り、手を高々と掲げる。「ジャン! 1~元~コ~イ~ン~!」
「お、おお……!」恋って結構ノリがいいんだな、と喰は内心感心する。
「えへへ……」恋が照れ笑いを浮かべ、「と、とにかく……入れちゃいました!」
コインが水底に沈む音。二人が固唾を飲んで待つが、何の変化も起こらない。
「…………」
「…………」
沈黙が二人を包む。どちらも期待を裏切る発言を避けていた……やがて喰が口を開こうとした瞬間、背後の声がそれを阻んだ。
「おい! お前ら……大、大変なことに!」長嶺がドアを蹴破り叫ぶ。
詳細は不明だが、その表情が冗談ではないと悟った喰は即座に走り出す。恋も蒼い顔で後を追う。
長嶺が伊と雪子、和実が探索していた部屋へ入った瞬間、喰の不安は限界まで増幅されていた。伊、無事であれ!
室内へ足を踏み入れると鋭い血の匂いが鼻を刺し、目眩を覚える。薄暗い照明は最初の部屋を彷彿とさせる。
「……オレも何があったかわからねえ……どうすりゃいいんだ?」長嶺が青ざめた表情で呟く。
「キャー!!!」恋が喰の背後で悲鳴を上げる。
雪子が和実の身体の上に横たわり、腹部に小さな血痕が点在していた。床に倒れた和実は完全な人間体に戻っており、両目を見開いたまま充血した瞳を虚ろにさせている。床に広がる血の水たまりがその結末を物語っていた。
喰は目の前が真っ暗になるのを感じた。初めて目撃する死体の光景が、しかもこれほどまでに……何が起きたんだ? 吐き気を必死にこらえ、血溜まりを踏みつつ雪子を優しく抱き上げる。二人の呼吸を確認すると、幸い雪子にはまだ息があった。だがこの傷痕、救急用具もない状況では……半場の腹には巨大な裂傷が走り、もはや呼吸の跡形もない……
「クソッ!! 一体誰がやったんだ!」喰は雪子の腹部に開いた四つの血穴をじっと見つめた。腹部にはその箇所だけに出血があり、彼は何かを閃いたように雪子の身体を起こして背中を確認した。背中の制服は大きく血に染まっていた。
普通なら致命傷だが、自身の血液を自由に操れる者にとってはどうか? その考えが浮かぶと、喰は雪子を血溜まりのない場所に移動させ、頬を軽く叩き始めた。
「おい、てめえ……」長嶺が制止しようとしたが、恋に押し止められた。
「……あ、あたしたち……少し待ちましょう?」恋が泣きそうな声で訴える。
「げほ、げほっ! 先輩、何してんのよ! 頭おかしくなったの!?」雪子がようやく目を開いた。
「な……!?」長嶺が信じられない表情を浮かべる。恋は安堵と喜びが入り混じった顔で見守っていた。
「ああああ! 痛いったらありゃしない!」雪子が自分の腹部を見下ろす。「……えっ!? こ、これはなんなの……!?」彼女の表情が苦悶に歪み、目尻に涙が光った。
「ふぅ~……目を覚ましてくれて良かった」喰が額の冷や汗を拭う。通常なら失血死する傷だが、雪子の能力がそれを阻止した。意識を失っていたのは激痛による一時的なものだったようだ。
「雪子、起きたばかりで悪いが、何があったか話せるか?」
「先輩! 今めっちゃ痛いんですけど! でも……話します」このような刃針の表情を見て、涙声で答える雪子は必死に記憶を辿る。ショックで記憶喪失になっていないか? 喰は内心で祈る。
「わっ! 半場おっさんに襲われた気が……うわああん!」雪子が突然喰の胸に顔を埋めて号泣する。
「……間違いないか? 雪子」背中をさすりながら問う喰。
「だ、絶対よ! あんなデカい体の人、間違えるわけないでしょ!」
「だが……あそこに倒れているのは誰だ?」
雪子が泣き腫らした目を擦り、喰の指差す方向を見る。床に横たわる男を目にした彼女の脳裏が真っ白になり、呆然とした声を漏らす。
「……え?」
何が起こったのか、答えを見つけることができますか?