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代神栞  作者: 神代栞那
夢は始めた
4/8

最初の任務Part.1

喰は目をこすり、再び瞼を開けて幻覚ではないことを確認すると立ち上がった。教室の机と椅子から身体を離した瞬間、それらは消えていた。かつて机や椅子があった空間に手を伸ばしたが、応えたのはただの空気だけだった……


「こんなことできる奴は一人しか思いつかねえ……神代ちゃん。だが、なぜ今こんな時に?現実ではそのまま寝落ちしたのか?それともこれが現実なのか?」喰は自分の手を摘んでみる。「痛み感じる?これが現実?……まさかこんなことできなのか!?神代アリ……」ぐいっと手甲をグイッと捻ってみると、マジで痛い。


今気になるのはクラスメイトが自分の突然の消失に騒ぎださないかってことだ。特に逸雲なら多分、転移前の言葉を聞いてこっちを向いたはずだ。その状態で突然消えたら、誰だってパニックになるだろう……紙銭でも焚いてくれるかな?ハハ、いくらなんでもそれはないか...そう考えると喰は苦笑いを漏らした。


「クソ……確かに能力でシチュエーションに引きずり込めって言ったけど、それは夢の中の話だぞ!それも夜な!この悪魔猫め!」喰は周囲を見回した。「そもそもここは一体何だ……?」


喰の言う通り、これはただの薄暗い部屋で、何もない。かすかに一戸のドアが見えるだけだった。


「……」喰はその場に座り込んだ。ドアの向こうが何かわからない以上、無駄な危険を冒すまいと開ける気はない。それに、ただ空間に引きずり込まれただけで、まだ任務内容も知らない。当面は成り行きを見守るつもりだ。ただし妹の神代ちゃんの性格からして、俺のような慎重派『能力者』をずっと部屋に閉じ込めておくはずがない。任務発表は遅かれ早かれあるはずだ。


やはり、しばらくすると、喰の脳裏に聞き覚えのある声が響いた。


「今回の任務のテーマは密室脱出ですわ。ふふ~これは妾が入念に設計した密室、どうか皆で協力し合い、妾のために面白い演目を捧げてちょうだい…ふふ~ちなみに、各ゲームの参加者は6名ですこと。では、妾は失礼しますの」


密室脱出か…彼女は一体何を企んでいるんだ? 口調から察するに今回の司会も姉の神代ちゃんのようだ。喰は妹かと思っていたが、虫呼ばわりされるのは癪だからやめておこう。そういや彼女、明らかに「ゲーム」って言葉を使ったな…6人用の密室で、しかも全員能力者となると、もし衝突が起きたら力の強い者が局面を支配する羽目になる…それに密室には危険が満ちているだろう。悪魔猫がそう簡単に脱出させてくれるはずがない…


正直、喰の心中には不安しかなかった。彼はため息をつき、立ち上がる。任務はすでに発令され、目の前には一つの扉しかない。選択肢は唯一つしかなかった…


(乙女伊の視点)


伊は床に正座していた。ついさっきまで学校で友人と話していたことしか覚えていないのに、突然友人が消えて――いや、むしろ自分が消えたのか?だって…ここはどう見ても教室じゃない!……あっ!そういえばお兄ちゃんが「最初の任務はすぐ来る」とか言ってたけど、まさかこんなに早くとは……


立ち上がり、スカートを軽くはたきながら、腿のガーターに差した鉛筆とスカートの中の鉛筆の存在を確認する。周囲を見渡すと、ただの殺風景な部屋で、不自然なほど存在感を放つ一つの扉以外何もない。


猫のように足音を忍ばせて近づき、ドアノブに手を伸ばそうとした瞬間、鈍い声が背後で響いた。「悪いがね、お嬢ちゃん。その扉に触るのは少し待ってくれないかな?」


「えっ…!?」全身に電流が走ったように震えながらゆっくりと振り返る。眼前に立つのは明らかに人間ではない、むしろ幻想小説に登場する獣人そのものだった。獰猛な眼光、密生する体毛、分厚い筋肉に覆われた巨体。顔の前面に突き出た口吻――犬か?


現実にこんな怪物が存在するなんて、伊は夢にも思わなかった。膝がガクガク震え、今にも涙が溢れそうになる。必死でドアに体を預けながら、ようやく崩れ落ちずに済んでいる。おかしい、確かにさっきまで誰もいないと確認したはずなのに…どうして…?


「お嬢ちゃん、あの扉の向こうに何があるか分からんのだ。ひとまず…」獣人が何か言いながら近づいてくるが、伊の耳には何も届いていない。


「や、やだぁっ!!!」泣き声混じりの叫びと同時に、目の前の獣人がまるで衝突を受けたかのように壁へ直撃し、鈍い音を立てた。


「!?」獣人は状況が理解できない。ただ突然自分の身体が壁に叩きつけられたことだけは認識していた。


「げほっ…」床に転がった獣人は咳き込みながら、信じられないという表情で少女を見上げる。


「まずい…お兄ちゃんに『能力をむやみに使うな』って言われてた…やばいやばい…」俯きながら呟く伊の声。「でも…お兄ちゃんに知られなきゃ大丈夫、にひ…」


自分では小声だと思っていたが、獣人の鋭い聴覚はその呟きを捉えていた。状況は理解できなくとも、どうやらこの少女の能力らしいと推測する獣人は、手足を壁に食い込ませられたような状態で身動きもままならず、無力感に苛まれながら少女が近づいてくるのを見つめるしかなかった。


「あんたってどんな怪物なの?どうしてここにいるの?」伊が少し上目遣いで、教科書的な闇笑みを浮かべる。「さっきまでここにいなかったくせに、どうして?……早く言いなさいよ、ねえ~」


「……」愛らしい少女の笑顔とは裏腹に、殺意すら感じる言葉のトーンに獣人は震えた。「怪物って…何のことを?」


「はあ?…」伊の笑みが深くなる。「怪物ってあんたのことでしょう、はっは——知らないふりしないでよ」


「待て!私は怪物じゃない!人間だ!」パニックになりかけた獣人は突然何かに気付いたようで、「ああ、そうか」と呟くと、体が徐々に縮み始めた。


「えっ…」伊が小さく息を呑む。「マジで人間だったの?えー…」


「ああ、私もさっきの状態は説明できねえ。能力使ってないはずなのに…」少女の冷たい視線は変わらないが、確かに体にかかっていた拘束力が弱まっているのを感じていた。


「じゃあ、さっき何しようとしてたの?おじさん」壁に貼り付けられた中年風貌の男を見つめる伊。獣人から人間に戻ったばかりか、毛皮に覆われていた部分に衣服が自然発生しているのが不思議だった。がっしりした体格と精悍な顔立ちはヤクザ風で、警戒心が解けない。


「お嬢ちゃんも突然ここに来たんだろ?私も同じ。気付いたら君が扉を開けようとしてて…危ないものがあるかもと思って声をかけたんだ」


「んー……そうだったの?」扉に触れようとした時、確かに声がしたことを思い出す。完全には信用できないが、真実らしいと判断した伊は能力を解除し、「本当にごめんね……」


床に座り込んで息を整えたおじさんは手を振った:「いやいや、見た目が悪かった私が悪い。あんな姿で話しかけられたら誰だってビックリするよ」


「……うん、ありがとうおじさん」内心ではこの人が本当に優しい人かもしれないと思う伊。「そうだ!私の名前は乙女伊って言うの。何が起きてるかわかんないけど、仲良くしてね!にひ~」


「……」彼は目の前の少女の感情の起伏がジェットコースターのようだと内心呆れつつ、額の冷や汗を拭って立ち上がった。「私は半場和実はんば かずみです。よろしくな、伊ちゃん」


「伊ちゃん……?」伊の声が急に氷のように冷える。


「ぐっ!すまん、出過ぎた真似を!お嬢様!」和実は年齢差を考えれば屈辱的な光景だが、妙に抵抗感なく頭を下げていた。


「にひ~よろしい。じゃあおじさん、扉開けてちょうだい♪」満面の笑みで指差す伊。


「承知!」


伊は長年憧れていた「極道に守られるお嬢様」体験に胸を躍らせていた。このおじさんが本気で嫌がってないのが伝わってくる。どこかにいるはずのお兄ちゃんのことを考えると、「お兄ちゃんも無事でいてね」と心の中で祈らずにはいられなかった。


「念のため、私は変身しておきます。よろしいですかお嬢様?」ドアノブに手をかけた和実が振り返る。


「ヴィ―」伊の軽やかな返事と共に、和実は具体的にどういう意味かわからないが、口調から判断すると肯定的な意味だと思う、彼は能力を発動。再び獣人へと変貌を遂げた。


たとえ一度は目にしたことがあるとはいえ、相手が目の前で変身する様を見て、伊はやはり心の奥で小さく驚きを噛みしめた。


「何もないようです。行きましょう、お嬢様」和実が扉を細めに開け、外の様子を覗き込んで振り返りながら言った。伊の小さな頷きを確認すると、彼は大きく扉を開け放った。その瞬間――巨大な鉄球が振り子のように弧を描き、猛スピードで彼めがけて迫ってきたのだ!


「っ……!?」


避ける間もなく、鉄球が肉弾すれすれまで迫る。反射的に瞼を閉じ、衝撃の瞬間を待つ和実。獣人化した彼の耐久力なら致命傷は免れるにせよ、また壁と抱き合う羽目になるのは確実だろう……。


「……おじさん? どうして棒立ちになってるの? 早く行くよ?」


伊の声で我に返った和実が目を開けると、鉄球は鼻先で静止していた。背筋に冷や汗が走り、眼前の少女に救われたことを悟る。自在に自分を操り、高速の鉄球さえ止めるお嬢様の能力――いったい何者なんだ? ……なんて、ちょっと怖いな。彼は思わず喉を鳴らした。


周囲の環境は相変わらず薄暗く、壁の数箇所からかすかな光が漏れているおかげで、完全な闇に包まれることはない。どうやらこれは長い廊下のようで、幅は広くないものの、変身した和実と伊の二人が並んで進むには十分な広さがあった。


「お嬢様、あなたの能力はいったい何なんです?」和実は抑えきれない好奇心から問いかけ、後ろを振り返った。すると巨大な鉄球がすでに消えていることに気付き、これも彼女の能力なのかと目を見張った。


「秘密~」伊は悪戯っぽく笑った。


会話が途切れ、二人は黙って歩き続けた。伊はこの沈黙に違和感を覚え、思わず口を開いた。「おじさんって本当に好奇心ないんだね?」


「いや、気にはなっていますよ。でも秘密だと言われたら、これ以上詮索するのもなんですから」


「変なおじさん……さっき私があんなひどいことしたのに、どうして今でも親切にできるの?」


「……」和実は額を撫でながら苦笑した。「実は私、娘がいてね。あなたと同い年くらいなんだ。ただ仕事のせいで、あまり懐いてくれなくて……だから娘に気ままに振る舞われる日々に憧れてるんです。別にあなたを娘の代わりに見てるわけじゃありませんが、遠慮なく接してもらえると、こちらの気も楽で」


「あ、そう」伊は無関心な口調で答えた。


「……もう少し反応してくれてもいいのに」和実は大きなショックを受けたようにうなだれた。


「にひっ……冗談よ、おじさんって本当に面白いね」伊は笑い声を漏らした。


「……」まさに小悪魔のような娘だ。だが和実は嫌いではなかった。むしろこうしたやり取りにどこか楽しさすら覚えている自分がいた。


「ところでおじさん、その姿ずっと続けるつもり?」


扉を出た後も獣人の姿を維持している和実に、伊は多少慣れたとはいえ、内心ではやはりその風貌を疎ましく思っていた。


「当然です。どんな危険が待ち構えているか分かりません。さっきのような緊急事態にも即座に対応できるよう」


「そっか~? じゃあよろしくね」


彼らはほぼ元の位置に戻ってきた。このエリアは正方形を成しており、中央を壁で塞がれた回廊構造になっているようだった。


「おじさん、迷子じゃない? さっき鉄球があった場所だよ?」伊が扉際で足を止め、核心を突く質問を放った。


「いやいや! 壁沿いに一周しただけですよ。まさか迷ってるわけ……って、あの鉄球はお嬢様が能力で消したんじゃないんですか!?」


「……はあ⁉ 私にそんなことできるわけないじゃん! あんなデカい鉄球よ!」


「扉を出てすぐ消えていたので、てっきりお嬢様の仕業かと……違うんですか?」和実は爪で顎を掻いて照れを誤魔化した。物体を消すのではなく、あくまで制御する能力か? いったいどうな能力――彼の好奇心が再び蠢き始めた。


「本当にここが元の扉の場所?」伊が元々扉があった壁面を触る。今はどこを見てもただの壁にしか見えない。


「ええ、変身後の身体能力が大幅に強化されています。間違いなく一周して戻りました」和実も驚きつつ、自分たちが転移させられた事実を思い出した。


「ん……」伊が唯一の可能性を考える。「壁に何か仕掛けがあるはず。探そうかおじさん」


すぐに和実が質感の異なる部分を発見し、力を込めて押し込む。すると自分の体が制御不能に転がり落ちた。


ガラガラという音に伊が駆けつけると、四角い穴が出現し階段が下へ続いていた。慎重に降りていき、倒れた和実を指でつつく。


「ねえ――大丈夫?」


「ああ、この体だから平気だ」和実が立ち上がり周囲を見回す。


「へー、本当に丈夫なんだ」伊が本音を漏らす。


「褒め言葉と受け取ります。お嬢様が落ちなくて良かった」


「……うん、ありがとう」伊が素直に感謝する。


「ではここに何があるか調べましょう」


「ヴィ――」


(乙女喰の視点)


ドアの前で足踏みしていた喰は、ついに覚悟を決めて把手に手をかけた。左手でゆっくりと扉を押し開け、目を細めて隙間から外を窺う。薄暗がりの中ではっきりと視認できず、天井方向に視線を走らせる。幸いなことに頭上に仕掛けらしきものはなく、ほっと胸を撫で下ろす。


(扉を一旦閉めた後、深呼吸して)


ぐいっと把手を回し、勢いよく扉を押し開けると同時に、右側へ大きく飛び退がった。


願わくば何事もなく――という期待は、ドアとほぼ同じ直径の鉄球が振り子のように襲来する光景によって打ち砕かれる。風を切る「ビュンビュン」という唸りを上げながら往復を繰り返す鉄球を見つめる喰の額に、脂汗がにじみ出た。(もし無防備に開けていたら、文字通りペシャンコだっただろう……)


鉄球が反転する軌道の頂点に差し掛かった瞬間、パチパチと乾いた拍手音が響く。「変質者かと思ったのに……意外だよ、乙女先~輩」


「先……輩?」喰が声のした方向を凝視する。この部屋には確実に自分しかいないと確認したはずだ。まさか転移してきたばかりの人間か? 自分が扉に集中していた隙に――だが少女の口ぶりは、ずっと観察されていたような印象を与える。能力で隠れていたのか? 透明化能力か? 不可視の類いか……。


「独り言ブツブツ言いながら、変なポーズ取ってるの、めっちゃ笑っちゃったよ乙女先輩♪」軽やかな足音と共に、隅から少女が姿を現した。


「……」少女の言葉より、喰の視線はその制服に釘付けになった。紛れもなく自分の通う渡良学園の女子制服だ。動揺を隠すため、できるだけ無造作に聞く。「君も渡良の生徒か?」


「えっ?」少女が小刻みに足踏みしながら急接近してくる。「先輩、まさかアタシのこと忘れちゃったの? 前に会ったことあるのに!」


「……」喰が少女の顔を凝視する。どこか見覚えのある顔立ちにハッと気付く。「ああ! デプシロンだな?」


「うんうん……じゃないわよ! それどんな名前よ! 絶対忘れてるでしょ? ね?」


「ああ、この話し方だ。エリベルだったか」


「全然違うわ!」少女が床を踏み鳴らす。「先輩、わざとやってるでしょ? どう見ても人名じゃない名前ばかりつけるなんて!」


「公園で出会ったチワワの名前だ」喰が思わせぶりにうなずく。


「は? ケンカ売ってんの? 先輩でも容赦しないわよ!」少女が空を切るパンチを繰り出し、本気の殺気を瞳に宿す。


「ははっ、冗談だって。そうカリカリするなよ」


「もう、本当に忘れてたかと思った……覚えてくれてたのよね?」


「……」


「……その沈黙何よ? 泣いちゃうわよ! 本気で泣くわ!」少女の目尻に涙の粒が光る。


顔を近づけて観察する喰。確かに数度すれ違った記憶はあるが、直接関わった覚えはない。なぜ彼女が自分のことを知っているのか――まさかまた名前のせいか?


「悪い、本当に思い出せない。名前を教えてくれないか?」喰が苦笑いで手を合わせる。


「ふふん~簡単に教えたりしないわ。でもどうしてもって言うなら……」少女が指先で唇を撫で、急に艶めかしい仕草になる。「特別に教えてあげてもいいわよ♪」


「やっぱり結構です」


「ぎゃああん! 先輩ひどい! アタシの名前そんなに知りたくないの⁉」少女が床にしゃがみ込み、大粒の涙をこぼす。


「お、おい! 感情の起伏が激しすぎるだろ!」厄介な後輩を前に頭を抱える喰。しかし根は悪くなさそうだ。「わかった、教えてくれ。君の名前が知りたい」


「本当⁉ 本当にアタシの名前が知りたいの⁉」少女が涙声で顔を上げる。


「ああ、是非教えてほしい」


「ふんっ、アタシの名前は有瀬雪子ありせ ゆきこ。この名前を心に刻んで毎日唱えるのよ、分かった?」


「……」(うわ、超めんどくさい。でも有瀬って……確か委員長の苗字だ。妹が時々教室に昼食を食べに来てたな。道理で見覚えが)


「君は有瀬委員長の妹だな。前に忘れてすまなかった。でも俺たち交流なかったはず。どうして俺を覚えてる?」


喰が腰を落として雪子の目線の高さに合わせると、彼女の頬が薄紅色に染まった。


「別に理由なんて……だって先輩の名前、面白いんだもん」


「じゃあな」喰がさっさと出口へ歩き出す。


「ぎゃああん! うそですってば! 本当は違うから! 置いていかないでよ先輩……!」雪子が背後から喰の胴体に抱きつく。


「だから言っただろ、感情の起伏が! とりあえず離してくれ。置いていかないから」これは本気だった。喰の胸には雪子への疑問が山積みになっていた。


「……ん」雪子がゆっくり腕を解くと、自分が大胆な行動を取ったことに気付いたのか、耳まで真っ赤に染まった。


俯き加減でスカートの裾を揉み続ける雪子を見て、喰は(まあ可愛い部分もあるか)と思わずにはいられなかった。


「でもさ~」突然雪子が顔を上げ、悪戯っぽい笑みを浮かべる。「実はアタシが抱きついた時、先輩ドキドキしてたでしょ? ははっ、照れなくていいんだよ♪」


(……やっぱり不可愛いな)喰が心で再確認する。視線を扉の外へ向けると、鉄球は既に消えていた。あの質量が出現と消滅を繰り返す仕組みは依然不明だ。どう見ても振り子運動させるだけの空間的余裕がない廊下で――後輩を危険に晒すわけにはいかないと判断し、雪子に「静かに」の合図を送る。彼女は深刻さゼロの笑顔でこくんと頷いた。全く要領を得ていない様子だ


喰が深く息を吸い込み、かねてから叫びたかった決め台詞を放った。「秘技・反復横跳び!」


扉際で不規則な間隔で左右に飛び移る喰を、雪子が呆然とした表情で見つめている。


「はぁ……どうやら安全らしい」額の汗を拭う喰が手招きする。「行くぞ、後輩ちゃん」


「……ん」雪子が小走りに並ぶ。「乙女先輩、アタシ『後輩ちゃん』じゃなくて雪子です!」返ってきたのは適当な相槌だけ。喰の関心は既に周囲の異変に向かっていた――彼らが完全に部屋を出た瞬間、背後で軋むような音が響き、扉が壁に同化していた。元あった場所は完全な石壁に戻り、わずかに残っていた鉄球の擦り痕さえ消えている。


(再侵入を阻止する意味か? あの薄暗い部屋に隠されたものとは――)喰の指が壁面を撫でる。掌に伝わる冷たい感触は、まぎれもない本物の岩肌だった。


「あのさ、雪子ちゃん?さっきからずっと袖引っ張ってるだろう。近すぎるんじゃないか?」喰が薄明かりの廊下を歩きながら言う。


「先輩、可愛い後輩に袖引かれてドキドキしちゃってるんでしょ? 特別サービスしてあげてるんだからね、えへへ♪」


「そう言えば昨日の朝ドラ、コメディ回がなかなか――」


「そうやって話題そらすのやめてよ! アタシのこと嫌いなの⁉ うわああん……」


「……」すでにこの後輩のパターンを見抜きつつ、喰はわざとらしくため息をつく。「分かったよ。可愛い後輩にべたべたされて、もう足元ふらついてるよ」


「……ほんと?」


「ああ、半分はな」


「やっぱりからかってた! もう知らない!」雪子が頬を膨らませて背を向ける。だが袖を握る手の力は微塵も緩んでいない。


(ツンデレかよ)喰が心の中で舌打ちする。しかし暗闇に放り込まれた女子生徒が不安がるのは当然か――ふと脳裏を過ぎる。(伊、無事だろうか……)


「ところで雪子ちゃん、お前の能力は何だ?」


「へぇ……? 気になるの? でもそりゃそうよね、アタシみたいに可愛い後輩の能力に興味ない人がおかしいわよね~♪」


「ああそうだよ。教えてくれよ、可愛い後輩ちゃん」可愛さと能力の関連性は不明ながら、喰は流されるように返した。


「実はね、先輩を一瞬で粉末にしちゃう能力なの。どう? 怖いでしょ?」


「へえ、そんなものか。大したことないな」


「無関心ぶるなら手を振り払って距離取らないでよ! ……って冗談だってば! 戻ってきて!」


喰が雪子の元に戻ると、彼女は即座に再び袖を掴んだ。問い詰めるでもなく、ただ待つ姿勢を見せる。


「本当の能力なんて大したことないわ。ただ自分の血液の流れを操れるだけ……」雪子が自嘲的に笑う。


待て、今彼女は何と言った? 自分の血液の流れを操る? つまり血流速度や方向を自由に制御できるのか? これが……弱いと? 喰が複雑な表情で雪子を見つめる。


「ぎゃああん! 能力がしょぼいのは分かってるけど、先輩そんな顔しないでよ! 本気で泣くわよ!」


「雪子ちゃん……悲観的になるな。君の能力は案外強いかもしれない」


「わかってるって! 無理に慰めなくても……くすん」明らかに喰の真意を誤解した雪子が袖で目頭を拭う。「そういえば先輩の能力って――」


次の瞬間、喰が雪子の腕を掴んで制止する。「?」首を傾げる雪子に、彼が足元を指差す。床に開いた四角い穴に気付き、彼女の顔が青ざめた。


(危なかった……気付かずに歩いてたら……)雪子が喉を鳴らす音が闇に吸い込まれる。


喰が床に見惚れる。完璧な正方形の穴が廊下の幅の四分の三を占めている。決して広くはないが、うっかり落ちるには十分な大きさだ。彼らは既に三つの曲がり角を通り過ぎ、次の角が視界に入っていた。もしこれが正方形の回廊なら、これ以上探索する必要もないだろう。穴から続く階段を見下ろし、喰は覚悟を決める。


「行くぞ、雪子ちゃん!下まで見てやろうじゃないか!」わざとらしく熱い口調で宣言する。


「う、うん!」雪子が完全に喰の背後に隠れ、小さな両手で喰の背中の服をしっかりつかんでいた。


階段の長さはそれほどなく、すぐに最下層に到達した。突然の明るさに、暗闇に慣れた喰は眩しさに思わず目を手で覆った。その時――


「お、お兄……さん?」


伊が階段口に兄の姿を見つけて思わず声を弾ませたが、「お兄ちゃん」という言葉が喉まで出かかっていたのに、喜びに満ちた表情も最後の「さん」も一瞬で凍りつき、視線が喰の背後に釘付けになる。


「その女は…何?」

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