第五話 ベランダ事件 シュウ
元旦の朝、さすがに少し寝坊した。
それでもトレーニングをサボらなかった僕は、なかなかやるもんだと自分でも思う。
近頃は天気が悪くて走らなかった日は、どうにも調子が出ない。今年は受験生になる年だけれど、できればずっと続けていきたい。
ランニングを終えて軽くストレッチしていると、クロマルが朝の散歩から帰ってくる。
『おはよう』と声をかけるのが毎日の日課だけれど、今日は『あけましておめでとう』と言ってみた。
もちろん返事は返ってこない。
『クロマル!』と呼んで肩をトントンと叩くと、シュタッと肩に飛び乗ってくる。機嫌が良くないとやってくれない。
今日はご機嫌みたいだ。
でもそのあと、尻尾でパタパタと顔を叩かれた。コイツめ! と尻尾を掴もうとすると、ふわりと頭に着地する。
まるで重さを感じさせない頭の上のコイツ。本当に猫なのかね?
頭の上から顔の前に、ダラリと尻尾が垂れて来て、フリフリと左右に振った。
おい! 股間をおでこにくっつけんなよ!
尻尾を巡る攻防戦を、頭上の不思議生物と繰り広げる。クロマルの縦横無尽に逃げる尻尾を、パシッと捕まえる。
ぎゅーっと握ってやったら『みぎゃー』と鳴いた。
ふふふん。今日は僕の勝ちのようだな!
クロマルは僕の頭から飛び降りて、何事もなかったような顔で帰って行く。
またな! と声をかけたら、振り返ってチロリと視線を投げてきた。
ぷぷっ! 実はクロマル、悔しいんじゃないの?
久しぶりの勝利に、ちょっと良い気分でスポーツドリンクを飲んでいたら、お姉さんの部屋のベランダから、悲鳴が聞こえた。
『ひゃあ!』とか『きゃあ!』とかいう感じの叫び声。確かにお姉さんの声だ。
何か考えるよりも先に、身体が動いていた。助走をつけてマンションの塀に登り、ベランダに飛び移る。
お姉さん! 今助けに行くから!
僕の行動は軽率だったと思う。通報されても仕方のないレベルだ。ベランダの手すりに手をかけた時に少し冷静になった。けれど、もう今更なかったことには出来ないし、お姉さんの無事だけは確認したい。
ベランダには、頭を抱えてうずくまるお姉さん。斜めに構えて、毛を逆立てているクロマルがいた。
そして……部屋から何か小さいものが出て来る。
なにあれ? 人間なのか? 缶コーヒーより小さいぞ!
もしかして、以前見かけた小さな黒い影の正体なのか?
お姉さんは無事? うわっ! お姉さん、ちっさい! ちっさ!
情報量が多過ぎて、思考が追いつかない。でも僕は知っている。こういう時身体は自然に動くものだ。試合の時何度か経験がある。
僕はベランダに飛び降りると、お姉さんとクロマルを守って、小さな人と対峙した。なにか武器みたいなものを持っている。
僕はポケットの中でスーパーボールを握りしめた。
「武器を捨ててお姉さんから離れろ!」
僕は割とカッコイイ事を口にしたけれど、内心はビビリまくっていた。ちょっと震えているし、スーパーボールを握る手が、どんどん汗ばんでいく。
そして。
この期に及んで僕の頭の中を占めていたのは。
『お姉さんに久しぶりに会えて嬉しいなぁ!』
そんな、この場にひどくそぐわない、正直過ぎる気持ちだった。