第八話 急転直下
その人は、クロマルの背中に乗ってやってきた。とても……とても小さな人だ。
体長約15センチ。その、リカちゃん人形サイズの人は、まさに『私に答えをくれる人』だった。
大晦日を明日に控えた、その日。
日が暮れてしばらくした頃、にゃーと鳴いたクロマルを迎えに、ベランダに出た。
「お帰りクロマル! 今日のごはんはイワシのツミレ汁だよ!」
他の人はどうかわからないけれど、私は人前で飼い猫に話しかける事には抵抗がある。できれば誰もいないところでデレデレしたい。
抱きついて、外の匂いと冷たさをまとった毛並みに、ポスンと顔をうずめたら、クロマルの背中に乗ったその人と、はたと目が合った。
「えっ……?」
その人の表情が、微笑ましいものを見る顔に変わっていくのを見て、驚きと恥ずかしさが同時に押し寄せてきた。
『この、小さい人は何者?』
『なんで当たり前みたいにクロマルに乗っているの?』
『ベランダに知らない男の人が入って来た! どうしよう!』
『恥ずかしいところを見られてしまった!』
対処に困ることが、同時に起きた非常事態に、私の脳の処理能力が追いつかない。呼吸困難に陥った金魚みたいに、赤くなってパクパクと口を動かした。
叫んで逃げれば良いのか、戦えば良いのか、助けを呼べば良いのか。心底困った挙句に、ようやく私の口から出たのは、『あの……ど、どちらさまで?』という、なんとも気の抜けた言葉だった。
その人は私の質問には応えずに、小さな『うちわ』のような物を差し出した。同じものを自分でも持っていて、それに向かって言葉を発する。
「遅くなって申し訳ない。大変な迷惑をかけてしまった」
喋った声と、うちわっぽい物から出る音声が丸っきり別物だ。翻訳機……なのだろうか?
彼の話している言葉は、やはりと言うか当然と言うべきか、日本語ではなかった。まるで歌っているように響き、柔らかくいつまでも耳に残る。
この人はきっと、私が欲しくて堪らなかった答えの、全てを持っている人だ。
けれど、同時にクロマルを迎えに来た人でもある。そんな事を、受け入れるわけにはいかない。
「……クロマルから、降りて下さい」
クロマルは私の猫だ。当たり前みたいに背中に乗るのはやめて。
クロマルを呼び、後ろ手に抱いて背中に隠す。
守らなければ。私には何の力もないけれど、クロマルを渡すわけにはいかない。
「私の名前や事情を聞いて頂きたい」
全身の毛を逆立てる親猫のように身構える私に、困ったような表情で話しかけてくる。
暗い色の、ダボっとした全身を覆う服を着ている。髪の毛は目の覚めるような赤。うねるようなくせ毛で、その色と相まって、まるで燃え盛る炎のようだ。額の端と目の下に、刺青のような模様がある。
言葉もうちわの翻訳機も、髪の毛の色も。その着ている服さえも、どうしようもなく異質だった。
私の知らない、どこか別の世界に属する人だ。そしてクロマルもその世界の生き物だ。おそらくこの人は、クロマルが帰るべき場所から来た。
彼の言葉は、いつか夢で聞いた歌だ。夢の中で、空を駆けるクロマルを呼んでいた。
敵わないかも知れない。
私が返事をしたら、この人は話しはじめてしまう。私からクロマルを取り上げる理由を――。
怖くて苦しくて、口を開くすことら出来ない。首を振り、うつむいて黙り込む。替わりに涙が、ポロポロと溢れ出た。
「落ち着いて。その子を取り上げたりはしない。どうか私の話を聞いて欲しい」
私の知らない場所から来た、私よりも小さな小さな人。彼はエクーと名乗った。
私とエクーとクロマルの、長い夜がはじまった。
続きは23時に投稿。