第六話 僕と不思議な黒い猫
シュウくん視点。
「おい、クロマル。おまえの飼い主さん、元気なのか?」
僕がストレッチしている様子を、顔を洗いながら眺めているクロマルに、問いかけてみる。
もちろん返事はない。
もう二ヶ月近くお姉さんの顔を見ていない。心配だけれど、マンションの周りを見廻りするくらいしか、僕にはできることがない。
クロマルの跡をつける小さな影。
あれはお姉さんを迎えに来た、仲間なのだろうか? そうだとしたら、なぜ、こそこそとクロマルを付け回したりするのだろう。
お姉さんは誰かに、追われているのだろうか?
僕は毎朝のトレーニング時と、夕方の見廻り時に小さなスーパーボールをいくつかポケットに入れるようになった。本当は武器が欲しかったのだけれど、資金的にも法律的にも中学生には難しい。
僕が手に入れられたのは、せいぜい銀玉鉄砲くらいだった。銀玉鉄砲は、威力も飛距離も命中率も、全部イマイチだった。
しかたなく、色々考えた末のスーパーボールだ。小さい敵が相手ならば、当たればダメージを与えられるかも知れない。何もないよりはマシだ。
僕はスリーポイントシューターなので、ボールコントロールは得意だ。バスケと比べたらずいぶん小さいボールだけれど、狙った場所に物を投げて当てることに、大きさはあまり関係ない。
毎朝のトレーニングの時に、的当ての練習もするようになった。たいていクロマルに邪魔される。
僕とクロマルはほとんど毎日顔を合わせる。知らん顔して近づくことからはじめて、逃げなくなるのに一週間、触らせてくれるまでに二週間。
名前を呼んで、寄ってきてくれるまでに、更に二週間かかった。
ようやく、お姉さんへ最初の手紙を渡せたのは、マンションから見えるイチョウの木が、すっかり黄色く色づいた頃だった。
僕はお姉さんと文通をはじめた。クロマルの首輪に、小さな手紙を結び付ける。
夏祭りの話や、キーホルダーの話、クロマルの話、ナナちゃんの話。お姉さんは必ず返事をくれる。
僕はこの古風でまどろっこしいやり取りを、好ましく思っていた。なぜなら、不用意なをこと伝えなくて済むから。充分に考える時間があるのは、僕にとって良いことだと思う。
僕の手紙はナナちゃん宛て。
ナナちゃんは事情があってお姉さんが預かっている、姪っ子という設定だ。
時々混乱する。
手紙は何度も書き直して、結局はいつも短文になる。隣の中学生である僕と、小さな子供のナナちゃんが、そう何度も手紙のやり取りをするのは不自然だと、自分でも思う。
でも僕は、ほんの少しでもお姉さんとの繋がりが欲しい。
僕がお姉さんの味方だということを知ってもらいたい。お姉さんの力になりたい。夏祭りの時みたいに、外に連れ出してあげたい。
時々、想いが溢れそうになる。
そんな時、僕は『ラムネのビー玉、ラムネのビー玉』と頭の中で唱えるように繰り返した。台無しになってしまうのは、いつもあっという間だ。
毎朝クロマルと一緒の時間を過ごすようになって、気づいた事がある。クロマルは半端なくジャンプする。
僕の身長より高い塀に、ひと息に跳び上がる。マンションの塀から、木を伝わないでお姉さんの部屋のベランダに跳び移る。
ほれぼれするジャンプ力だ。
猫は自分カラダの高さの五倍程度、二メートル近く跳び上がれるらしい。低身長に悩むバスケ部の新米キャプテンとしては、まったくもって羨ましい。
けれど、クロマルのジャンプには少し違和感がある。
空中で何かを足場にして、加速しているように見えるのだ。ゲームの中での二段ジャンプに似ている。
身体を低くして力を溜めて、一気に解き放つように跳ぶ。ここまで普通の猫と同じだ。
でもそのあと、スッと飛距離が伸びる。そんな時はクロマルの後ろ足から、チカッと火花が出たみたいに見える。
猫と火花って、けっこう縁遠いものだと思う。
僕の中でクロマルの『アンドロイド説』が浮上して、手脚やおなかをドキドキしながら確認した。
クロマルが迷惑がって「みぎゃー」と鳴くまで身体を撫で回したけれど、充電プラグの差し込み口やスイッチは見つからなかった。
ふにゃふにゃのおなかに耳を付ければ、電子音ではなく心臓の音がする。どうやら生き物ではあるらしい。普通かどうかは怪しいけれど。
僕が腕立て伏せをしていると、背中に乗ってきたりする。ふわりとした感触の後、なぜかズドンと重くなる。妖怪子泣き爺みたいだ。
そんなこんなで最近僕は、クロマルに話しかけることを、あまりバカバカしいとは思わなくなって来た。それどころか、そのうち応えが返ってくる気さえしている。
クロマルが空を飛んだとしても、そんなには驚かないだろう。いや――。さすがにそれは驚く。
お姉さんの周りには、不思議と秘密があり過ぎる。僕は退屈する暇がない。
この先、お姉さんが僕に秘密を明かしてくれる可能性はあるのだろうか?
今のままだと、ちっとも力になれている気がしない。僕を信頼してくれて、心を許してくれて、頼りになると思ってくれたら。
そうしたら、お姉さんは僕に秘密を教えてくれるだろうか。
僕は、僕の心配やお姉さんを助けてあげたい気持ちが、きれいなだけのモノではないことを知っている。恋と邪まはよく似ている。
僕のことを知ってもらいたい。お姉さんのへにょっと笑った顔が見たい。あわよくば、僕のことを好きになってもらいたい。
『あげたい』は、本当は『もらいたい』だ。
それだけじゃない。僕はお姉さんに触れたいと思ってしまう。小さな手のひらや、風に揺れる柔らかそうな髪の毛、僕の腕の中にすっぽりと収まる小さな肩。
ふにょっと笑う、サクランボ色のくちびる。ぎゅっと抱き締めて、そっと触れてみたい。
きれいなだけの恋なんて、きっとこの世にありはしない。中学二年生にしてこんなにこと気づいてしまった僕は、僕の将来がまた心配になる。僕は普通に恋愛したり、結婚することが出来るだろうか?
欲しがってばかりの僕は、我儘な子供だ。
勝手に色々な想像をしている僕は、お姉さんに近づく資格がないくらい汚い。
大人はみんなどうやって、自分の欲まみれの恋心と折り合いをつけているのだろう?
誰か教えて欲しい。
邪まな僕の初恋は、きっともうすぐ溢れてしまう。きっともうじき、僕は手紙に書いてしまうだろう。
「佐伯カナリさん。僕はあなたの力になりたい。困った時には頼って欲しい」
クロマルはそんなことを書いても、僕の手紙を運んでくれるだろうか。