第五話 出会いの日
「あの黒いのなんだろう?」
顔を上げたのは、誰かに呼ばれた気がしたからだ。
静まり返った雨の公園に、用事があるはずもない。足が向くままに、高台へと向かう坂道を登った。
なだらかな坂道の真ん中に、黒いものが落ちていた。私の手のひらよりも小さな、びしょ濡れの黒いカタマリ。
高校生の頃、通学バッグに付けていた小さなマスコットに似ていた。誰かの落とし物だろうか?
私が歩み寄ろうとする前に、それはもそもそと動き出した。脚を踏ん張るようにして立ち上がっては、三歩ほど進んでへたりと倒れる。
顔を上げ、匂いを嗅ぐような仕草をして、また立ち上がる。何度も倒れ、それでもまたヨロヨロと立ち上がる。
子犬か子猫だ!
大変だ。あんなに小さい子が、こんな冷たい雨に濡れたら、あっという間に弱ってしまう。
小さな黒い毛玉は顔を上げて、鼻をひくひくさせて、慌てて走り出した私の方を見た。
目が合ったその瞬間。パチッと静電気が弾けた気がした。
子猫だ! 口を開いているけれど、声が出ていない。きっと喉が枯てしまっているんだ。親か飼い主を探して、ずっと鳴いていたんだ。
膝を着き、小さな身体をそっと手のひらに乗せて、ハンカチで拭う。
ハンカチはすぐにびしょ濡れになってしまった。シャツの袖口で拭い、それでも足りなくて、スカートの裾でそっと包んで水気を切る。
頑張ったね。ひとりで偉かったね! もう大丈夫だよ! 私が絶対に助けてあげる!
小さく震える身体をシャツの内側に入れ、人肌で温める。
冷たい雨に打たれて立ち上がった短い脚が愛おしかった。
震える脚で、それでも前に進もうとしていた逞しさに、心を鷲掴みにされた。
シャツの内側でもぞもぞと動く様子に気を取られて、傘をさす事も忘れて動物病院まで走った。
動物病院は受付け時間前だったけれど、電話で事情を話したら診察してくれた。
診察台の上に乗せて私の手が離れると、子猫はまたパチリと目を開く。深い緑色の目が、薄い膜に覆われて私をじっと見つめる。
そうして、震える脚で私の方に歩いてきて、ガシガシと服をよじ登り、ようやく出た掠れた声でミャウと鳴いた。
「うん、うん。うちの子になってね! これからずっと、よろしくね!」
私は診察の準備をしている獣医さんをそっちのけで、ボロボロと涙を流しながら、プロポーズさながらのセリフを口にした。
抱き締めた子猫は、私の言葉に応えるように、小さな、小さなその濡れた身体をすり寄せた。
その晩、子猫は熱を出しながらも、スポイトからミルクを勢い良くちゅくちゅくと飲んだ。私は子猫の名前を考えながら、一晩中寝顔に見惚れていた。
あまり弱ってしまう前に見つけられてよかった。あのまま雨に濡れていたら、間に合わなかったかも知れない。
そう思っていた。
でも違うかも知れない。私がクロマルを見つけたんじゃなくて。
あの時。
私は呼ばれたのかも知れない。クロマルが私を、見つけたのかも知れない。