第十話 ヒグラシ
夏の終わりのある日の夕方。
カナカナカナという、ヒグラシの声をベランダで聞く。
昼間の熱を吹き冷ますような風に、妙に夏を惜しみたくなる。夕焼けに染まる入道雲が、手持ち無沙汰と所在無さを連れて来る。
この座り悪さの正体を私は知っている。『楽しかった夏休みが終わってしまう。宿題どうしよう!』という感覚だ。学生という階段を、自分から降りてしまった私だけれど、そんなしょうもない感覚だけは忘れずにいる。
この長い休みのような日々に、果たして終わりはあるのだろうか。
夜の帳が降りるまで、ほんの十五分ほど。ベランダでクロマルを待ちながら、徒然と自分の事を考えてみる。
私は全てがバランス良く同じ比率で小さくなっている。鏡に映して、自分だけを見れば以前と何ら変わりがない。そして自分の身体を、違和感なく動かすことができる。
これが、例えば内臓は元の大きさのままだったりしたらきっと今頃は弾けて死んでいるだろう。内臓だけが小さくなっても、きっと生きていられない。
下半身だけが小さくなるとか、頭だけが小さくなるとか、考えただけで死にたくなる。
反対に、大きくなってゆくのはどうだろう? 毎日二ミリずつ大きくなっていったら、今頃は二メートル超えだ。隠れる場所にも困る。
手だけが大きくなるとか、足だけが大きくなるのも、なんだか泣けてくる。
人外の生物に少しずつ変化してゆく。これも考えるだけで恐ろしい。毎朝少しずつイモムシに近くなる。即座に正気を失いたい。
そう考えると、今の私の『全体的にバランス良く小さくなっていく』というのは、比較的恵まれたパターンなのではないだろうか?
色々考えていたら『なーんだ! ただ小さくなってるだけじゃん。大したことないよね』と、ホッとしそうになった。
比較対象が間違っていただろうか?
日々、必要とする物の量が少なくなっていく。カップアイスは、今の私にとってラーメンどんぶりくらいの大きさだ。気を付けないとお腹を壊す。
食べ物やティッシュ等の消耗品も、消費量は以前の三分の一程度。コスパが良くなった割に、稼ぎはそう減ってはいない。パソコンでのデータ入力は、まだしばらくは小さい手でもこなせるだろう。
以前のブラインドタッチのように、キーボード上で指だけ動かすというのはさすがに無理。
そこは熟練度でカバーして、早弾きのピアニストのように、縦横無尽に手を動かす。
我ながら惚れ惚れするテンポの良さだ。
十年来の趣味である革細工の作品も、なかなかの売り上げだ。手が小さくなった分、細かい作業が苦にならない。
出展しているフリマアプリで、私の作品の固定ファンが何人か出来た。『緻密で繊細な細工だ』と、なかなか評判が良い。
新しく挑戦したいこともある。
温泉旅行に行った時に、陶芸教室で回したろくろが忘れられなくて『初心者向け、本格ミニろくろ付き陶芸セット』を注文してしまった。
家庭用電子レンジで作れる、私にジャストサイズの陶芸セットだ。矛盾に満ちたキャッチコピーが堪らない。届くのが楽しみで仕方ない。
私は今の生活を『そう悪くないな!』と思いはじめている。
自分だけの小さくて快適な箱庭を作るのも、世間から隠れてクロマルと二人で閉じこもるのも、おままごと染みた楽しさがある。
だがこの生活には、おそらく終わりがある。その終わりが、小さくなる日々の終わりなのか、私自身の終わりなのか。
その答えが出る日を、戦々恐々と。或いは粛々と。
私は待っている。
ふと気がつくとすっかり日が暮れていて、あたりは闇に沈んでいた。クロマルが塀の上でミャウと鳴いてから、危なげなく木の枝を伝ってくる。トン、と軽い音を立ててベランダに降り立ち、もう一度、今度はみゃあと鳴いた。
陶芸セットが届いたら、一番最初はクロマルのミルク皿を作ろう。真っ黒で丸い小さなミルク皿。きっとミルクの白が映えるはずだ。
今日も悪くない一日だった。私もクロマルも健康で、天気も良くごはんも美味しい。
そして私は毎日2ミリずつ、小さくなってゆく。