第二話 二月初旬 150センチ
二週間後。
私の身長は150センチを切った。十センチも小さくなってしまっては、気づく人がチラホラといる。
大学やバイト先で「あれ?」と言われるたびに、もう開き直って「なんか背が小さくなっちゃったみたい! こんな事ってあるんだね!」と明るく笑い飛ばしてやった。
「えっ? 大丈夫なの? 病院行った?」と心配してくれる人と「そんなわけあるか! 帰ってちゃんと測りなおせよ!」と一緒に笑ってくれる人が半々くらいだった。人の情けが身に沁みる。
身にも心にも沁みたけれど……。私は身長のことを、誰にも相談することはなかった。
“大したことじゃない”
たぶん、そう思っていたかったのだ。
病院へ行く日。少し寝坊してからゆっくりと朝食を食べて、それでも余った時間は同居子猫とゴロゴロして過ごした。
小雨の降る寒い朝に拾った真っ黒い子猫。拾った時は弱っていたけれど、今は元気いっぱいだ。
名前は『クロマル』。まだ生後二ヵ月くらいで、ぽよぽよとうぶ毛が揺れている。
顔の大きさの割に、耳が小さくて手足が太い。大きなアーモンドアイはエメラルドのような、深い緑色だ。
グルグルと喉を鳴らしながら、小さな舌でチロチロと私の頬を舐める。
私の手でもすっぽりと収まる頭蓋骨、頼りなく内臓を守る細く弾力のある肋骨。手のひらに乗るほどの小さな命は、握り潰してしまいたいほどに愛おしい。
ああ、もう! なんて可愛いんだろう!
クロマルと遊んでいるとあっという間に時間が過ぎてしまう。バスの時間ギリギリだ。
メモや手形足形をクリアケースに突っ込んで、急いで家を出る。いっそクロマルも連れて行きたいけれど、さすがに病院に動物は連れて行けない。
病院に着いて受付を済ませる。予約を入れておいたので、あまり待つ事なく名前を呼ばれた。
診察室に入るとメガネ先生が“おや?”という顔をして目を逸らした。うつむいて、丸メガネの位置を指で押し上げるような仕草をしている。
明らかに動揺している。たぶん私は目に見えて小さくなっているのだろう。患者にそんな様子を晒したらダメなんじゃない?
今日の分のデータをナースに測ってもらってから、メガネ先生にクリアケースごと家でのデータを渡した。
「私も見せてもらっていいですか?」
先生の隣に椅子を移動し、手元のデータを一緒に覗き込む。計測数値は軒並み二~三センチ減っている。
手形に重ねてみたら、ひとまわり小さくなった私の手は、やけに居心地悪そうに見えた。
恐る恐るメガネ先生を振り返ると、目を丸く見開いている彼と目が合って、お互いに言葉を探して黙り込んだ。
身長が縮んでいるのではないの?
手のひらが小さくなっているのに、爪の大きさに違和感がないのはなぜ?
私は、縮小コピーするように――。全体的に小さくなっているの?
確かメガネ先生は「一週間後にまた来て下さい」と言った。私は「わかりました」と返事をした。そのくらいしか覚えていない。
気が付くとバスに乗っていた。一番後ろの席でバスに揺られながら、窓の外の景色を眺めていた。
身長、縮む、成長ホルモン、コラーゲン。思いつく端からスマホで検索ワードを試す。
私のように成長期を過ぎてから、徐々に小さくなる病気は見つからなかった。
スマホの握り具合が、以前と違うことに気づく。片手で握りこんで操作が出来なくなっている。画面の端や上の方に指が届かないのだ。
手が小さくなってしまったからだ。
持っている靴も指輪も、全てサイズが合わなくなっていた。お気に入りの小さなルビーの付いた指輪は、親指に嵌めてもストンと落ちた。
私の身体に、何が起きているのだろう。
家に戻って玄関を開けると、クロマルが「にゃおーん」と鳴きながら、一直線に走って来た。靴を脱いでいる私の背中をガシガシと登って「どこ行ってたの? 探しちゃったよ!」とでも言うように、みゃんみゃんと鳴く。
途端に、奈落の底まで落ちていた気分が急浮上して、ほっこりと幸せになる。クロマルを見ていると、生きる勇気がもりもり湧いてくる。
大丈夫! 少しくらい小さくても生きていくことに支障はない。さあ、クロマルにごはんを作らなくちゃ!
クロマルはまだ離乳食をはじめたばかり。トリのササミと子猫用ミルクをミキサーにかけ、鍋の中でふわりと固めて、柔らかい「すり流し」を作る。
スプーンで鼻先に差し出すと「うにゃうにゃうにゃ」と鳴きながら食べる。この様子がたまらなく可愛い。不器用そうな咀嚼を、飽きることなくうっとりと眺める。
クロマルの食事風景から、毛づくろいの様子まで、余すところなく動画に収める。背中の毛を舐めようとしてコロンと転がったり、頭の後ろを脚で掻いたら耳が裏返ったり。あまりの可愛さに、思わず「くうー!」と身もだえしてしまう。
職場で辛いことがあっても、子供の寝顔を見れば頑張れるお父さんの気持ち、なんかわかる気がする。
「大丈夫……。大丈夫! こんなことが、ずっと続くはずがない」
クロマルのポンポンに膨らんだおなかを、そっと指で撫でながら――。
私は、自分に言い聞かせるように呟いた。