第九話 子別れ
はじめてクロマルだけを外に出した日。
ベランダから木の枝を伝い、塀の上に降り立ったクロマルが、私の方を見上げてみゃあと鳴いた。
『カナちゃん、早くおいでよ』と言っているみたいだった。
「私は行かないんだよ。クロマルひとりで行っておいで」
そう言って見送ったのだけれど。
クロマルは、塀の上を何度かウロウロと歩き、すぐに戻って来てしまった。
次の日も、その次の日も、なかなか塀を降りる事が出来ずに、端っこまで行っては耳をへたりと倒し、スゴスゴと戻ってきた。
おずおずと情けない顔で、私を見上げる。仕方ないなぁと抱き上げると、ゴロゴロと目を細める。明日はもうちょっと頑張るんだよと、鼻をチョンとつつくと、また耳をへたりと倒した。
その日は、突然やってきた。
クロマルは塀を、振り返りもせずにゆっくりと歩き、思い切りよくヒュッと飛び降りた。長い尻尾を、潜望鏡のようにピンと立てて、ソロソロと歩いて行く。
私はベランダから身を乗り出して『行かないで!』と叫びそうになった。
大きな黒い甘えん坊の尻尾を、離せないのは私の方だ。
私だけを見て、私だけを必要として、私がいなくては生きていけない。
私には、そんな存在が必要だったのだ。
毎日少しづつ、どんどん小さくなってゆく。そんな常軌を逸した日々の中で、正気を手放さずにいられたのはクロマルがいたからだ。
全てを壊したくなった朝も、何も考えたくなかった夕方も、眠るのが怖くて仕方なかった夜も。
クロマルを、ぎゅうっと抱きしめて越えて来た。
暖かくて柔らかい命の塊は、ただひたすらに私を必要としていた。
だから私は立ち上がって、クロマルのごはんを作るためにキッチンに立った。だから私は小さな手で、必死になってパソコンに向かっている。
だから私は、自分を投げ出さずにいられた。
そのクロマルが、ひとりで行ってしまった。振り返りもしないで、好奇心にヒゲをピンピンと立てて。
私があんなに一生懸命に、クロマルを外に出そうとしていたのは、それでも私を選ぶクロマルを確認したかったのだ。
浅ましさに頭を抱える。
猫は子別れをする動物だ。親が追い出さなければ、子供はいつまでも大人になれない。飼い猫はずっと子供のままだ。
子別れをする動物の場合、ある一定の時期になった親には、子供に対する憎悪が芽生えるのだという。
子供のためを想っているわけでも、必要なことと心を鬼にするのでもなく。
ただ嫌いになってしまったから、子供を巣から追い出すのだ。
北キツネの壮絶な子別れはあまりに有名で、そして切ない。
人間の子別れは反対に、子供の反抗期が発端となる。大きな理由もなく、ただ自分に構う親が鬱陶しくなるのだ。テリトリーを守ったり、近親相姦を防ぐための本能としては非常に合理的だ。
だが、本能は切り捨てられる側に配慮していない。
切り捨てられる側の子猫と人の親は、歪んだ傷口が噛み合い過ぎているから寄り添うことを止められない。
わたしはクロマルの親ではないけれど、今ならその気持ちが本人たちより理解できる。
私が万全であるなら、クロマルの一生に責任を持つ事ができる。けれども、私は毎日小さくなってゆく。ずっとクロマルを守り、養うことができないかも知れないのだ。
「やっぱりクロマルの独り立ちは必要なことだ……」
いざとなったら野良猫になって、逞しく生き抜いて欲しいと心から思う。
私がようやくその結論に至り、だらだらと流れる涙でクッションを濡らしていたら、ベランダでクロマルがみゃあと鳴いた。
えっ! もう帰って来ちゃったの? まだ三十分しかたってないよ?
クロマルはお腹とお尻と後ろ足に、山ほどのひっつき虫を付けて帰って来た。ガリガリと後ろ足で掻いたり、ベランダでゴロゴロ転がったりしたあと、へたりと耳を倒して、私を見上げて、またみゃあと鳴いた。
「まったく! しょうがないクロマルだなぁ!」
私はニヤニヤしてひっつき虫を取ってから、クロマルをギューッと抱きしめた。
私とクロマルの子別れは、まだ少し先で良いらしい。