第一話 一月 160センチ
最後に身長を測ったのは、ちょうど一年前。
成人式で従姉から振袖を借りるためにと、母親に身長と体重を聞かれた。
この部屋で今と同じような手順で、柱に背中をつけて、マスキングテープを貼り、そのあとメジャーで測った。
160センチ。日本人女性としては、ごくごく平均的な身長だ。
ところが、今、メジャーの目盛りは『157センチ』を示している。成人式を終えた私は、もう身長が伸びなくても、なんの文句もないけれど、だからといって縮んでいいものではない。
それとも、自分の身長を間違えて記憶していたのだろうか? 三センチも? さすがにそれは考えられない。
「ちょっとびっくりしたけれど、そう大騒ぎするほどのことじゃない……かな?」
この時の私は、この出来事を古くて安物メジャーのせいにして忘れてしまおうとしていた。その程度の出来事だと、そう思っていた。
かろうじて忘れなかったのは、最近の気掛かりと、関係があるような気がしたからだろうか。
パジャマの袖がなんとなく長い。お風呂上がりに身体に巻いたバスタオルが少し大きく感じられる。いつものサイズのストッキングがつま先で心持ち余る。
痩せたと思って、喜んでいたのだけれど――。
「その割には、顔まわりやウエストにスッキリ感が足りないんだよなぁ」
モヤモヤした気分を抱えたままベッドに潜り込むと、先に寝ていた同居子猫がゴロゴロと喉を鳴らして迎えてくれた。
小さなふわふわの身体をそっと抱きしめると、落ち着かない気持ちがすうっと遠ざかってゆく。
二、三日後。バイト帰りに駅前のホームセンターでメジャーを買った。職人さんが使う金属製のロック付き本格派メジャーだ。帰って早速、柱に背中を付ける。
「嘘……!」
思わず声が出てしまった。
メジャーの目盛は156センチ。更に1センチ減っている。
待って! 確か、朝と夜では身長が違うんじゃなかった? 測ったのは真夜中だったから――。
違う。論点はソコじゃない。私の身長は160センチだったはずだ。
次の日から、時間を決めて一日に何度も測ってみた。確かに朝と夜とでは一センチ程度のふり幅があったけれど、いつ測っても身長が戻る事はなかった。
メジャーが示す数字は、毎日少しずつ小さくなっていく。
毎朝メモを取りながら、恐る恐る身長を測る。メモを見ながら首を傾げる。
新品の本格派では、もうメジャーのせいにも出来ない。
信じられないけれど、勘違いでも測り間違いでもない。
私の身長は、毎日規則正しく2ミリずつ縮んでいる。
原因が――あるのだろうか?
常識的に考えて、背が縮む理由は背骨や骨盤の歪みや、軟骨の減少だ。けれど、こんなにも急激に……しかも継続的に縮むものなのだろうか?
毎日少しずつ小さくなるので、持っている踵の高い靴を低い方から順番に履いた。人に……知られたくないと思ったのはなぜだろう。
元々カジュアルな服装が多かったせいか、バイト先や大学で「カレシでも出来たの?」と的外れに冷やかされたりした。
そしてとうとう、一番高い八センチヒールで出かける日が来てしまった。買ったきり歩ける気がしなくて、ゲタ箱の奥にしまい込んでいたピンヒール。コレ、凶器になるんじゃないかな?
案の定スクランブル交差点で盛大に転んで、酷く足首を挫いた。
足首と一緒に心も挫けてしまった私は、逆方向に勇気を出して病院に行ってみることにした。
ネットで調べた限りでは、背が縮む可能性が一番高いのは骨粗しょう症らしい。2センチ以上縮んだら黄色信号だと書いてあった。
私の身長は7センチ縮んで、すでに赤信号すらもぶっちぎっている。
診察室に入り勧められた椅子に腰を下ろすと、急に場違いなところで変なことを言おうとしている気分になる。
「背が、少しずつ縮んでしまうんです」
思い切ってズバッと言ってみた。
背が高い、丸メガネのお医者さんだ。メガネの奥の目がちょっと神経質っぽい。
「どのくらい縮みましたか?」
「5、6センチくらいだと思います」
少しサバを読んでしまった。本当は7センチだ。
「そんなに? 思い違いではなく?」
「はい。少なくとも、ここ半月で3センチ縮んでいます。毎日測りました」
「他に思い当たる症状はありますか?」
「いいえ。腰も首も股関節も痛くないし、貧血もない。自覚症状はありません」
メガネ先生が眼を細めながらパソコンに向かい、カタカタとキーボードを叩く。
「レントゲンと、骨塩定検査をしてみましょうか」
「骨密度の検査ですね?」
ネットで調べたことを知ったかぶりして聞いてやった。だってメガネ先生、さっきちょっと鼻で笑ったんだもの!
その後しばらく待合室で待って、検査の結果を聞いた。
「背骨や骨盤の歪みも骨密度も、特に問題はないようですね。軟骨も異常ありませんよ」
「悪い病気の可能性は、低いと思って良いのでしょうか?」
「私の知る限りでは。少なくとも今の状態に、大きな病気の兆候は見られません」
メガネ先生の説明には説得力があった。さすがメガネ! 正に伊達ではない。
私の喉に引っかかっていた魚の骨のような不安の塊は、スパーンと外れて消えていった。
「良かった! 病気じゃないんだ! ありがとうございます!」
毎日身長を測ってデータを取り、二週間後にまた受診するように言われた。私はスキップするような心持ちで、病院を後にした。……のだけれど。
帰ってすぐに、メジャーを取り出す。
おそらく、メガネ先生は私の自己申告を信じていない。妄想癖とか虚言癖とか不安障害とか……心の病気だと思っているのだろう。
悩んだ末に受診したのに、あんな態度はひどい。『背が縮むんです』なんてばかばかしい症状で病院へ行く身にもなって欲しい。
私は身体のあらゆる場所を測って記録した。身長はもちろん、腕の長さ、脚の長さ、鎖骨から顎までの長さ、座高……。手のひらと足は墨を塗り、ぺたりと拓を取った。
これだけのデータがあればメガネ先生も信じない訳にはいかないだろう。二週間後に、びっくりさせてやる! 勝つのは私だ!
いや……。二週間縮み続けたら、私も驚く。そして勝負に勝っても、困るのは私だけだ。
勝負のゆくえはともかく、もし小さくなる原因がわかるなら、私もぜひ知りたい。身体測定は二週間続けることにした。
大きな病院でメガネに『病気の兆候はない』と言われたことで、私はとても気持ちが楽になった。その分、変な方向に負けず嫌いが出てしまっているけれど。
病気じゃないなら、背が少しくらい低くなっても大したことじゃない。
私はやっと少し安心して、その晩は久しぶりに爆睡した。
この頃の私は、これから自分の身体に何が起きるのか。
少しも、わかっていなかった。