第十八話 雨のち雨
今年の梅雨は本当に雨ばかりだった。七月とは思えないくらい寒い日が続き、気分も体調もスッキリしなくて、うんざりの毎日だ。
その日も、どんよりと暗い空から霧が漂うような雨が、音もなく染み出してくる。そんな、ため息の出るような天気だった。
僕は朝練に向かう途中だったから、たぶん六時くらいだったと思う。黄色いレインコートを着て、黄色い傘をさした保育園児くらいの子供が、黄色い長靴をガポガポと鳴らしながら歩いていた。
こんな早い時間から雨の中で遊ぶなんて、小さい子は元気だなぁ。そんな風に思いながら、通り過ぎようとした。
すれ違いざま、背すじがぞくりとした。
その五、六歳くらいの小さな女の子は、いつもお姉さんが背負っていたのと同じリュックを背負っていた。
お姉さんなの? こんなに。こんなに小さくなってしまったの?
女の子は黄色い傘をくるくる回して、水たまりの中をじゃぶじゃぶ歩く。ぴょんとジャンプして盛大に水しぶきが上がると、背中のリュックからみゃあと、猫の鳴き声がした。
「ああ、きっとお姉さんだ」
「お姉さんはリュックで、いつも猫を背負っていたんだ」
ふたつの事がストンと腑に落ちた。
お姉さんが小さな声で歌っている。くるくると回す傘と、じゃぶじゃぶという足音でリズムを取りながら、楽しそうに歌っている。
雨はお姉さんの歌をかき消すことなく、音もなく降り続く。僕はお姉さんの歌と、じゃぶじゃぶと水たまりを歩く音をただ聞いていた。
不意にお姉さんが振り向き、歌が尻切れトンボのように止んだ。立ち尽くしている僕に、お姉さんが気づいてしまった。
真っ赤になって俯き、くるりと踵を返して逃げるように走り出す。
明らかに大き過ぎる長靴を、ガポガポと鳴らして走り出したお姉さんは、あっという間に転んだ。
べしゃりと顔から突っ伏して、動かなくなった背中で猫がみゃうみゃうと鳴いた。
慌てて走り寄って、腋の下に手を入れて抱き起こす。咄嗟に小さな子供にするようにしてしまった。
その時僕の手は、怖いくらいに柔らかいものに触れた。
びっくりして手を放して、危うく水たまりの中に落としてしまいそうになる。柔らかいものの正体に思い当たって、今度は耳から火が吹き出しそうになった。
「だ、大丈夫?」
「うん、ありがとう」
泣きそうな顔でへにょと笑ったお姉さんは、額も頰も鼻も泥だらけだった。僕は傘を拾って渡し、部活のバッグからタオルを引っ張り出す。
ゴシゴシとお姉さんの顔を拭きながら、僕は必死で涙をこらえた。何もかもが胸を締め付けた。
誰もいない雨の中、楽しそうに歌っていたお姉さん。それを台無しにしてあんな顔をさせてしまった僕。逃げるように走り出した時の、ガポガポという黄色い長靴の音。
転んでしまった小さな、小さな背中。
後ろから抱き上げた僕の手が触れた、マシュマロみたいな柔らかな感触。
何もかもが息苦しくて、たった一言でも口を開いたら、涙が零れてしまいそうだった。
「お兄ちゃん、大丈夫、大丈夫だから!」
黙っていつまでも顔を拭いている僕の手を、お姉さんが止めた。僕の手に添えられた手は作り物みたいに小さくて、そして冷たかった。
「タオル、汚れちゃったの、ごめんなさい」
「いいよ。そんなのあげるよ」
つい、ぶっきら棒な言い方になる。口を開くたびに、涙がせり上がってくる。
僕がここで泣いてしまったら。何かに勘づいていると知られてしまったら。
お姉さんの居場所がなくなってしまうかも知れない。
「お兄ちゃん、ありがとう」
バイバイと手を振り、子供ぶりっ子して走り出すお姉さんの背中を見送る。
そんなに走ったら、また転んでしまうよ。
もう、泣いてもいいかな。もう少し。もう少し、我慢した方がいいかな。
僕もお姉さんに背を向けて歩き出す。ボロボロと涙がこぼれて止まらない。
異世界人でも、宇宙人でも、未来人でも構わない。早くお姉さんを迎えに来てあげて。
誰か。
誰か、お姉さんを助けてあげて。
いやだ……。
他の誰にも、手出しなんかさせるもんか。
僕がやる。
僕が。
僕が、お姉さんを助ける。
第一章、終了。第二章は、まさかのシュウくんが主役です。投稿は明日の朝7時。