第十二話 温泉旅行
五月某日。
私はクロマルを連れて、海の見える温泉へと旅立った。
クロマルを連れて行くことは宿に許可をもらってある。湯船には入れないことが条件だが、もともとクロマルは身体が濡れることを極端に嫌がる。
子猫の時にびしょ濡れでさまよっていたから、それが原因かも知れないなぁ。
さてさて! 二泊三日の温泉旅行! 海の幸をクロマルと一緒に堪能するぞ!
実はビールと日本酒を、旅行バッグの底に忍ばせてある。露天風呂の内風呂がある部屋だから、前々から憧れていた、お盆に徳利お猪口でイッパイに挑戦するつもりだ。
「かー! 効くねぇ!」と、おっさん臭く呟く予定だ。うーん、楽しみ!
新幹線で、海の見える温泉宿まで二時間。もちろん子供料金だ。せつやくせつやく!
旅行に出る前に、家中の水道の蛇口をレバータイプの物に変えるリフォームを業者に依頼した。捻るタイプの蛇口はこの先掴めなくなる可能性が大きいし、握力が心配だったからだ。
旅行から戻る頃には、取り替え工事は終わっているはず。少し帰るのが楽しみだ。旅先でのアレコレにわくわくして、家に帰る楽しみも待っている。我ながら良い企画だ。
私の最後かも知れない旅に、相応しいと思わない? ねぇ、クロマル。
新幹線の窓から、キラキラ光る水平線が見えてくる。
「わぁー!」
私は思わず声を上げて、靴を脱ぎ捨て座席に膝立ちになった。
子供のふりをしていると、このへんが非常に気持ちいい。大人がやったらヤバイ人だけれど、小さな子供なら微笑ましい仕草だ。
海なし県の山あいの街で育った私は、未だに海が見えると無条件で胸が高鳴る。夏休み、バス遠足、修学旅行、初デート。海はいつも、とびきり楽しい事とセットでそこにあった。
今回の旅行も、楽しみ盛りだくさんだ。ノープランの行き当たりばったりも良いけれど、今回はきっちりスケジュールを組んだ。
ゴールデンウィークの大波をやり過ごしたばかりの観光地は、洗いたてのワイシャツみたいに、どこかさっぱりとしていた。
旅館の人も施設の係りの人も、釣り船のおじさんも、大仕事を終えたあとの少し気の抜けた顔で私を迎えてくれた。
どう考えても不自然な、小さな子供のひとり旅だ。詮索するような視線は仕方ない。
「お嬢ちゃん、ひとりかい?」
「母ちゃんはどうした?」
どこに行ってもまず聞かれた。
それでも、私が困ったような顔でうつむくと誰も彼も慌てて親切にしてくれた。子猫を連れた事情を抱えた小学生に、無体なことの出来ないこの国の人びとがいとおしい。そして私の子供ぶりっ子は、すっかり板についている。
釣り船でカサゴとカワハギを釣り上げ、陶芸教室でろくろを回し、遊覧船でカモメとたわむれて、水族館でペンギンショーを楽しんだ。もちろんクロマルも一緒だ。
クロマルは、釣り船では船酔いした私よりもはしゃぎ、遊覧船ではカモメに怯え、ペンギンには興味津々だった。
朝市ではイカ焼きの匂いに、クロマル共々まんまと釣られた。スマホで「猫、イカ、腰が抜ける」で検索したら、どうやらちゃんと加熱したイカを少量なら、食べさせても問題ないらしい。
クロマルは「良く噛んで食べるんだよ?」と言いながら差し出した一欠片を、ガウガウと唸りながら食べた。
「うにゃうにゃ」は、通り過ぎると「ガウガウ」になるのか! 野性味溢れるクロマルも、なかなか趣が深い。
そして、この旅一番の目玉イベントの、海の見える露天風呂! 朝一番の貸し切りを予約したので、海から昇る朝日を眺めながらという贅沢なロケーションだ。
真っ暗闇の温泉に肩まで浸かって夜明けを待つ。待ち詫びた太陽が見えてきた時は、なんだかホッとして泣きたくなった。変わってゆく私だからこそ、いつも通りの夜明けがありがたい。
「太陽さん、いつも通りでありがとう」
「変わらないって素晴らしいな!」
そんな気持ちだ。
念願のお盆で日本酒もやってみた。お風呂のお湯でぬる燗にした、ちょっとお高い故郷の銘酒。潮風に吹かれながらちびりと呑むと、やっぱり大人は良いなぁと思ったりした。
夜は贅沢な舟盛りを、クロマルと堪能した。お刺身を食べるクロマルの「うにゃうにゃ」が久しぶりに聞いた。やっぱりクロマルは世界一可愛い。
そうして私は『私の日常』へと戻る。毎日2ミリずつ、小さくなるという日常へ。