第九話 コバンザメ
主人公視点。ようやく主人公の名前が出て来ました。佐伯カナリ、二十歳の大学生です。
駅を出てこじんまりとした商店街を抜け、人気のない平日の住宅街を進む。子供の甲高い歓声と、カーンという打撃音が金網越しに聞こえた。少年野球だろうか?
春休みの小学校の校庭を横に見ながら、まっすぐ河川敷へと向かって歩いた。
雨さえ降っていなければ、水曜日の朝はいつもここにいる。きっと今日も走っているはずだ。
高校生の頃から着ている真っ黒いジャージを、シャカシャカと鳴らしながら走る。
彼を思い出す時は、いつもこのシャカシャカという音を一番最初に思い出す。
私が現実に立ち向かう覚悟を決め、引きこもりを返上してまで外に出たのは、陳腐で、ありふれていて、面白味のカケラも見当たらない目的のためだ。
借りていた本を返すという適当な理由を作って、片思いの人に会いに来た。
私は彼にも『外国へ留学する』と嘘をついている。なので親戚の子供のふりをして用事を済ませ、あわよくば動画のひとつも撮って来ようと思っている。
次に会える日は、来ないかも知れないから。
片想いにケリをつけるとか、そんな大層な思惑があるわけじゃない。これ以上小さくなったら、あまり外に出られなくなる。
『表通りの洋食屋さんのオムライス、もう一度食べたいなぁ』とか、そんなレベルの未練と同列で、彼の顔が見たいと思ったのだ。
ゆうべ寝る前に、彼にチャットメッセージをふたつ送った。
「借りていた本、返すの遅れてごめん! 親戚の子に頼んでおいた。明日、河川敷で受け取って」
「しばらく会えないけど、帰国したら呑みにでも行こうね!」
付かない既読が足を重くする。嘘にまみれた約束が顔をうつむかせる。どうしても塗りたかったマニキュアが、滑稽で情けない色に見えてくる。
正直、くるりと回れ右をして逃げ帰ってしまいたい。
それでも視線は黒いジャージを探す。探してしまう。春はまだ浅い風が強い朝。吹きっ晒しの河川敷に、物好きな人はそう多くない。
彼はすぐに見つかった。心臓がドキンと鳴る。
リュックの中に手を突っ込み、クロマルを撫でまわしながらなけなしの勇気を搔き集める。
「クロマル、行こう!」
私はもう充分に逃げた。もう逃げるのはおしまいにしたい。
河川敷に降り立ちトコトコと歩く。小学生っぽい歩き方は練習済みだ。
リュックのショルダーベルトに両手を添え、歩幅を小さくして上半身を固定する。うん、我ながら完璧だ。
ベンチに座って休憩中の彼の前まで歩き、ペコリと頭を下げた。
「宗谷さんですか?」
心持ち高く舌ったらずな声を出す。舌を下の歯に押し付けるようにするとそんな感じになる。
一ヶ月に及ぶ引きこもりネトゲ生活で、ぶりっ子姫垢すらも演じ切った私のなりきりスキルは高い。
「あ、もしかしてカナリの親戚の子?」
コクンと頷く。
「マジで! 瓜二つだな!」
顔全部を笑い顔にして言う。
その顔を見たら色々なものが一気にこみ上げて来て、初めて挨拶をした朝の天気まで思い出した。自分の動揺っぷりに少し焦ってしまい、紙袋に入れた本をぶっきら棒に渡す。
彼が『わざわざありがとう』と言って、手を差し出した。びっくりするほど大きな手だ。
「ひうっ!」
紙袋を受け取るためにベンチから立ち上がった彼を見て、思わず変な声が出る。自分の記憶の中の彼と、目の前の彼の大きさが噛み合わない。
けれど不思議なことに、電車の中の人にあれほど感じた威圧感を彼にはひと欠片も感じない。湧き上がるのは浅ましいまでの正直な気持ちだ。
「なんか頼もしくなった! カッコイイ!」
「あの大きな手で、頭をポンポンしてもらいたい!」
「大きくて怖い人や、禄でもない現実から守って欲しい!」
三割増しで大きく見える彼の身体を、私は三割増しで魅力的だと感じている。コレが、惚れた欲目というモノだろうか?
電車の中では、巨人に囲まれたような気持ちになって、震えていたと言うのに。
私はフラフラと彼に近寄った。泣きわめいて、自分の事情をぶちまけてしまいそうだ。
おそらくこの気持ちは、小さくなってしまったことに由来している。小さくなってしまった私は、確実に生き物として弱くなっている。単純に筋肉量が違う。衝撃に対する耐久度も落ちているだろう。
そしてなにより心が。
心が弱っている。
小さく弱い私は無意識のうちに寄生先を探しているのだ。守ってくれて、甘やかしてくれる存在が、欲しくて欲しくて堪らない。
これは恋心ではない。生存本能だ。生き残ろうと足掻く、遺伝子の策略だ。
強く大きな鮫のお腹に引っついて、安寧を得ようとしている小判鮫の、意地汚く、姑息なやり口だ!
冗談じゃない。そんなものに支配されるわけにはいかない。
例えばもし。もし彼が受け入れてくれたとしても――。その理由は同情や庇護欲と見分けがつかない。私の悲鳴を上げている生存本能が、恋心とよく似ているように。
それでも彼に、手を差し出すという選択肢もあるだろう。握ってくれる可能性もある。
だが私はこれからも、どんどん小さくなるかも知れないのだ。小さくなる私は小さくなるごとに、彼にとっては重さを増してゆくだろう。
小さく重い、荷物に成り果てる。
そんなキツイ恋愛に踏み込む覚悟は、今の私にありはしない。
私は彼に紙袋を押し付けるように渡して、一目散に逃げ出した。
振り返りもせずに、全速力で逃げる。河川敷を走り抜け、土手を駆け上がる。久しぶりの全力疾走は、一ヶ月半も引きこもっていた割には、それなりにスピードが出た。
走りながらけっきょく逃げてる自分に気づいて、何だか笑いがこみ上げて来た。
けれど。
小さくはなってしまった私の身体は、以前と変わらず思った通りに動く。私は、私のままだ。
だったら、このままゆこう。小さな身体でも、自分の足で立ち、クロマルと一緒に走ってゆこう。
汗の滲んだ額に、四月の風が吹き抜けてゆく。
それは、思ったよりも、ずっと爽快だった。