元悪役令嬢はティータイムに笑む
今話題の婚約破棄モノが書いてみたくなって書きました。
ガラス張りのサロンに、春の柔らかな日差しが差し込んでいる。
春の花が華やかに咲き乱れるサロンの中央には白亜のテーブルと、椅子が二脚。
そのうちの一脚には、美しい女性が座っていた。
ビスクドールのように滑らかな肌、背の半ばまで伸びるオフゴールドの髪、凛とした印象を抱かせるつり目に、エメラルドのように美しい翠の瞳。
ペールグリーンのドレスが似合う彼女の名は、ルシア。
フォールオータム公爵が娘であり、かつてはタルカ国皇太子であるアンドリューの婚約者でもあった女性だ。
そんな彼女が、生まれの地であるタルカ国を離れてここ──フリューテル国に屋敷を構えていることを知る人物は少ない。
ルシアは豪奢なティーカップを傾けて紅茶をひと口飲んだあと、こちらを見た。
「あら」
棘のない、優しげな声。
タルカ国にいた頃から変わらぬ、余裕に満ちた声音だった。
「まさか客人が貴方だとは」
その声に、大きな驚きは感じられない。
彼女はティーカップをソーサーの上に戻すと、白魚のような手で誰も座っていない椅子を指し示した。
「さあ、こちらへお座りになって。紅茶はなにがお好みかしら。茶菓子も今、すぐに用意させますわ」
侍女を呼ぶためか、彼女は小さなハンドベルに手を伸ばし細い指でつまみ上げる。
それを制止して、彼女の対面の椅子に座った。
「……どうなさったの? 侍女にすら邪魔されたくないような御用なのかしら」
こくりと頷けば、彼女は合点がいったという顔でベルをテーブルに戻す。
「それで……一体どんな御用向き?」
にこりとたおやかな笑みを浮かべて、彼女は小さく首をかしげた。……さすが生まれながらの令嬢だ。ただ首を傾げる仕草ひとつとっても洗練されている。
用件を告げれば、彼女は「ああ」と納得したような声をこぼした。
「婚約破棄の件ですね。……今更語るべきもないことかと思ったけれど、他ならぬ貴方の願いであれば語らないわけには参りませんわね」
ルシアは頬に指を添わせ、滔々と語り出す。
彼女にとっては苦い思い出だろうに、そんな印象は一切感じさせないまま。
***
それは、聖ヴィンセント学園卒業記念パーティーのことだった。
有力貴族の子息がこぞって入学する聖ヴィンセント学園の行事の中でも屈指の華やかさを誇る行事、卒業記念パーティー。
卒業後の未来を語り合う──と称して、若き貴族同士がコネクションをつなぎ合う、社交の場だ。
ただでさえ豪華絢爛なパーティーだが、今年はそれ以上の熱気を持っていた。
卒業生の出席も多く、例年は電報を送るだけの皇帝ヴィンスも足を運んでいる。
その理由はただひとつに尽きる。
皇帝の第一子である皇太子アンドリューが卒業する年度だからだ。
本来であればアンドリューとコネクションを持ちたい子息令嬢がこぞって彼を取り囲んでいることだろう。本来、今年のパーティーはそのための会となるはずだった。
いや、事実、彼は多くの人に囲まれている。
しかしそれは彼と話すため、というほど距離の近いものではなかった。
遠巻きに見られている、と言った方が正しいだろう。
アンドリューは一国の皇太子にふさわしい美貌を持つ男だ。
ただでさえ注目を集めてやまない男が、婚約者でもない女性の肩を抱いている。
しかも、彼が険しい目で見つめる先に立っているのは、婚約者であるルシア・フォールオータム。
それはそれは、スキャンダラスな光景だった。
遠巻きに見られ、ひそひそと陰口が飛び交う。これから一体なにが始まるのか、と。
重々しい空気の中で、先に口を開いたのはルシアだった。
「アンドリュー様? ……これは一体、どういうことなのかしら」
ルシアは形のいい眉ひとつ動かさず、婚約者が抱いている少女へ目を向ける。
そこにいるのは赤毛と金色の瞳が物珍しい、小動物のような少女だ。
確か、名前はシャルロット・バーンズといったか。
今、世界一の画商として有名なバーンズ男爵の一人娘で、このところアンドリューと急に近しくなったと噂されている女生徒。
「ルシア」
シャルロットに向いていたルシアの視線を、アンドリューの声が引き戻す。
彼は緊張したようにいくつか呼吸をした後、ルシアに告げる。
「俺はお前とは結婚できない。……婚約破棄を申し立てる」
あたりは水を打ったように静まり返った。
数十秒経っても、誰も言葉を発しない。
おそらく、渦中の女性、ルシアの答えを待っているのだろう。
彼女の口から出るのは絶望か、嘆願か。
誰もがそう予想した。
「あら……どうして?」
しかし、彼女の口から出たのは思った以上にあっさりとした言葉だった。
まるで些細な謎かけの答えを問うように、ルシアはアンドリューへ問いかける。
「俺はこの、シャルロットを愛している。……この学園生活を経て、俺は真実の愛を見つけたのだ」
まるで慈しむように、アンドリューはシャルロットの頬を撫でる。
「ルシア。……お前のような、親に決められた相手ではなく、彼女と添い遂げたい」
「添い遂げたい、ですか」
ルシアはその言葉を聞いて、ほんの少しだけ形の良い眉を歪めた。
「添い遂げたいというのなら……素直にセカンドレディに置くという手もあったでしょうに。それでも婚約破棄をご希望ですの、皇太子殿下?」
「な……当たり前だ! 妾などという不名誉な地位に彼女を置けるか!」
ルシアは大仰に溜息を吐く。
──皇帝陛下の御前でなんということを。
──皇帝陛下が妾との間に生まれた子だということをご存じないのかしら。
自らの父親であるとはいえ、皇帝という存在に敬意を持っていれば到底出ないであろう言葉だ。
ルシアは肩をすくめて、再びアンドリューへ向き直る。
「貴方のそのご意向は、すでに皇帝陛下のお耳に入っていらっしゃるの?」
「……いいや、まだだ」
「であるならば、それはここで話し合うべきことではありませんわね。公爵の子女たるもの、皇帝陛下の御心を無意にかき乱すようなことをすべきではありません。……それは皇太子殿下も同じでしょう?」
ルシアは微笑みを浮かべ、「場所を変えましょう」とアンドリューに提案した。
「……逃げる気か」
険しい表情で、アンドリューは応じる。
「いいえ? 決して。そもそもこの場は貴族の社交の場。皆様方も各々お話されたい方がいらっしゃるはず。……それなのに、皇太子殿下がこの場でそんな顔をされていては、誰も口を開けませんわ」
アンドリューは険しい顔をして頷こうとする、が。
「いけません、アンドリュー様……!」
傍の少女が、声を上げた。
「ルシア様と二人きりなんて……! 殺されてしまうかも……」
シャルロットが、大きな瞳に涙を湛えてアンドリューに縋り付く。
「……シャルロットさん、今なんと仰いました?」
微かに目を見開いたルシアが、シャルロットを問いただす。
「だから、殺されてしまうかも……って……」
「私が、アンドリュー様を殺す必要がどこにありますの? 外へ出た先でアンドリュー様が亡くなれば真っ先に疑われるのは私です。そんなリスクを冒してまで、私が殿下を殺す必要があるかしら?」
「そう、ですけど……」
震える声のシャルロットを、アンドリューは自らの背に庇う。
「悪戯に彼女を不安がらせるな!」
──言いがかりをつけてきたのは向こうなのに……。馬鹿なのかしら、この方。
「……そうですね。護衛をお互い二人つける形でいかがかしら。場所は庭園の東屋。あそこであれば視界が開けていますし、異変があれば誰かが駆けつけるでしょう」
「…………わかった」
重く頷いたアンドリューは指示を出し、護衛を二人見繕う。
対するルシアは、フットマンと侍女についてくるよう指示するのみ。
「……あ、あたしも、」
アンドリューの隣にいたシャルロットはおずおずとついてこようとするが、ルシアはそれを制止する。
「申し訳ありません、シャルロットさん。これは王家とフォールオータム家の話し合いです。外部の方の立ち入りはご遠慮いただけます?」
「……ッ、でも……!」
「貴方は皇太子殿下と真実の愛で結ばれたお方。……皇太子殿下が必ずや貴方にとって最もいい結果を導いてくださるでしょう。違いますか?」
「………………わかりました」
まだ悔しさを拭いきれない、という顔ではシャルロットは言う。
「アンドリュー様、早く帰ってきて……」
「ああ、もちろん。……君を寂しがらせるようなことはしない」
シャルロットはアンドリューと熱い抱擁をした後、するりと一歩下がった。
──こんなところで……品性すらないのかしら、この方々。
反吐が出る。……そんな思いを、ルシアは可憐な微笑みで隠した。
「では参りましょう、アンドリュー様」
そうして二人はパーティー会場となっていたホールを後にする。
学園の中庭にある東屋を目指して歩き出した。
真っ白な大理石で作られた東屋にたどり着くまで、二人に間には重い沈黙だけがある。
東屋の長椅子に並んで座ってからも、二人はしばし、黙ったままだった。
「……こうして、お前と二人で話すのは久々だな」
沈黙を断ち切ったのは、アンドリューの言葉だった。
「ええ、そうですね。……殿下はこの頃、あの娘に夢中でしたから」
そう答えつつ、ルシアはアンドリューの顔を見上げる。
……すると、アンドリューの手がルシアの手を絡め取った。
「……殿下?」
ルシアは手を取られたことに驚いて、アンドリューを呼ぶ。
「このようなことをなさったら──彼女、シャルロットさんが悲しむのではありませんか?」
「こんな些細な仕草、見えていないさ。……この世で一番愛しているのはシャルロットだが、お前が嫌いなわけじゃない」
その言葉を聞いて、ルシアはするりとアンドリューの手を振り解いた。
「ならばなぜ、わざわざ婚約破棄などなさるのですか? 手続きも両家の取り持ちも大変でしょう」
「俺は一人だけを愛していたいんだ」
アンドリューは熱弁する。
しかし、それを聞くルシアの目は冷たかった。
「何人もの相手を同時に愛することができるほど、俺は器用じゃない。だから──」
「殿下、もう結構」
ルシアは彼の言葉を遮る。
「ミリア・フォーゲル」
「……は? 一体どうした、ルシア」
「ラミー・カルーセル」
「ルシア……?」
「フォニア・ドードリー、マリアベル・ティオ、ミキ・炎魔・ロロ……」
ルシアはアンドリューの問いかけを無視して、女性の名前を並べ続けた。その数、ざっと二十人。
「確かに、殿下は複数の方を同時に愛することが苦手なご様子。……新たな恋をすればそちらへ全て愛情が流れてしまい、元の場所に心は戻らない。本当に好色な方」
「お前、知って……!」
「もちろん。ちゃぁんと各所圧力をかけていたようですけれど、フォールオータムの名を前に口を割らないものはいらっしゃらなかったわ」
にぃ、とルシアは意地悪げに笑む。
「シャルロットさんはパーティーに招かれたとはいえ、一年生ですから。きっとご存じないでしょうね。……お祈りしていますわ。貴方の気持ちが、シャルロットさんから動かないように。……ああ、そう。最後にひとつだけ忠告を」
笑みすらない、氷のような無表情が、アンドリューを刺した。
「あまり女を、舐めないことね」
そう囁くと、ルシアは立ち上がり、踵を返した。
「婚約破棄の件、承知いたしました。貴方の恋愛遍歴については私の喉に留めておきましょう。……せいぜい彼女に気取られないように頑張って、アンドリュー様」
ルシアは東屋を去る。
そのままホールへ戻れば、そこにはさまざまな貴族の子息子女から質問攻めに遭っているシャルロットがいた。
──まあ、新たな妃候補とあれば、こんなものかしら。
彼女のどこか満足そうな表情を一瞥して、ホールを去った。
***
その後のルシアの生活は一転する。それも、良い方に。
皇太子から婚約破棄をされたのにも関わらず、である。
彼女の立場は「皇太子の勝手に巻き込まれた可哀想な令嬢」という向きになった。
そうなれば当然王家への交渉の手札として彼女に求婚する人間も多く、ルシアはさまざまな場に招かれて多くのコネクションを得る。
そして招かれたとある舞踏会で一人の男と出会った。
ロドリー・カルシア。フリューテル国の海運業を担う大企業の若き当主だ。
彼から誠心誠意の求婚されたルシアは生活の場を祖国からフリューテルへ移した。
気がつけば三年が経ち、先日ルシアはロドリーとの子を身籠ったことを知る。
なによりもルシアを大切にするロドリーの愛を受けて過ごす日々は幸せだった。
ルシアはそんな幸福な日々の中で、来訪者を出迎えたのだった。
***
「あの日の出来事といったら、これくらいかしら」
ルシアはすっかり冷めてしまった紅茶を口にして、来訪者の方へ視線を向ける。
「それで? 今更一体なにしにいらっしゃったの、シャルロット・タルカ妃殿下?」
彼女が見つめる先には、表情に憎悪を映したかの女性──シャルロットだった。
「ことの仔細を知りたければ貴方に聞け、と、アンドリュー様が」
「ああ、なるほど。そういうことでしたのね。まあ、噂を聞くに……疑問に思うのは当然かしら」
風の噂で聞くに、シャルロットの卒業を待たず二人は結婚。
結婚してから一年は平穏に過ごしていたというが、アンドリューの悪癖が再発。
シャルロットへの愛情はすっかり枯れ果て、他の貴族と婚約している女性に手を出したのだという。
「……あんな不良品を売りつけて、自分は海外で悠々と……いい人生ですね、ルシア様」
「売りつけただなんて……私はむしろ、奪い取られた心地だったのよ? 不良品とはいえ、婚約者は婚約者。私は自分から気持ちが離れることなどどうでもよかったけれど、貴方は許せなかったのね」
「…………ッ!」
「いいこと、覚えていらっしゃって。……奪える男は奪われるのよ」
ルシアは、艶やかに笑う。
真実の愛を一身に受けた者の、幸福に溢れた笑顔だった。
「そんなこともわからなかったの? 可哀想な人」
悔しげに唇を噛むシャルロットは席を立ち、ルシアの前のティーカップを掴むと、中に残っていた紅茶をルシアに掛ける。
「きゃあ!」
ルシアは反射的に悲鳴をあげた。
それから数秒もしないうちに、サロンに数人の護衛が現れる。
彼らはシャルロットへ組み付いて、彼女を引き摺り出した。
──あらあら。ただ被害者ヅラをしておけば悲劇の妃になれたものを。
──こうして堕ちていくのね、本当に可哀想。
──けれど、正直。あの人とはお似合いだと思うわ。
ティータイムに、ルシアは笑む。