籠の外のヴィーゼは無垢を汚す
鳥籠に閉じ込められた小女は黙考し、只管に脱出するための方法を考える。体を震わせ怯える時間は捕まえられてから数分を過ぎたあたりで止めていた。
意味のないことだと、勇猛であったからではない。背に二対の翼のある小さな手のひらサイズの精霊だ。無謀だから、いや、完全なる考えなしの気分屋という性質を持つ風の精霊だ。自由奔放に風と共に過ごしていた小女にとって鳥籠の中は恐怖を忘れるほどに暇であったから、脱出しようと試みているだけだ。
そして小女は思い付く。小女にのみとっておきの名案だ。
だらしなく床に座り込んで欠伸までしている見張り役の男に対し、早速実行する。意志の籠った強い眼差しを向け、声を大にする。
「ここから出して」
つまるところの『お願い』。他愛のない、小さな人間の子どもが行うようなこと。
突然であったことから、男は瞬きをする。
先程から小女はごそごそと籠の中で動き、またぼそぼそと「あれはこーだし、あれはこーだから……」としていた。どちらにしても奇行だからと行動に対しては驚きはない。
人の良い表情で笑う男はそれは善良な人間で、先までの小物の風采は消えていた。
*
「ばかだなあ、お前」
小女は最初、何を言っているか理解できなかった。思っていた返答とは異なり且つ表情も相まって、聞こえていなかったのだと思い込み、同じ言を繰り返す。
小女はなんて優しいのだろう。ただ物の道理を知らぬだけである。
「出す訳ないだろ。ほんと、風精霊ってのはばかだなあ」
男はそんな小女に物を教え込むように、引き続き笑顔で毒を吐いた。
「……ばか?」
「おう」
「誰が?」
「お前」
「……? って、ヴィーゼはばかじゃないもん!」
暴れることで吊られた籠は連動して揺れ動く。小女はそんな籠にいい様に振り回されて、頭を思いっきりぶつける。
「~~~~っ!?」
「全く、何やってんだよ。諦めて大人しくしとけって」
自業自得の悲劇に、流石に男は呆れる。面倒くさがりつつ、怪我の具合を見に立つ。
「ふーん」
「な、何」
間近で無遠慮に見るが、怪我したところは手で押さえられてよく分からない。眺められる小女としては、あまりの至近距離にどぎまぎした。
「いや? ただちっちぇなあって。てか名前、ヴィーゼなのか」
「えっへん。そうだよ! いい名前でしょ」
「へえへえ、そうだなー」
「そうでしょそうでしょ!」
くるりくるりと回るヴィーゼは元気そうだった。こりゃ怪我は大したことないなと男は判断して、ふわあと口を大きく開ける。盛大な欠伸だった。
「じゃ、俺は寝るから、せいぜい静かにしてくれよ。その間何をしててもいいからよ」
「えー、何もすることないから無理だよ。この籠から出してくれたら、遊べそうなものがあるからできるけど……」
「そりゃできない相談だ。お前、魂胆がみえみえすぎるぞ」
「こんたん? なにそれ、食べ物?」
「…………はあ。話通じねえなあ」
まず目的だったであろう籠からの脱出は忘れている。それよりも暇だからと、「お話しよ!」と誘ってくる始末だ。最初は無視するが、喧しさからどうせ寝れやしないと男は話に乗ることにする。
精霊の素性は明らかにされていない。学者であっても詳しいことは分からずしまいで、男に限っては教養もないことから詳しいことは何も知らない。
精霊とはときたまにそこら辺にいるもの。特に風精霊は気まぐれで人間に話しかけてくる、精霊の中ではよく姿を見かける部類のもの。
だからと男は興味や疑問に思ったことをあれこれと投げかける。といっても、ヴィーゼは物事をまだよく知らない、若き精霊だ。
「んー、分かんない! ねえ、それよりもさ――」
こんな具合である。
ヴィーゼの終わりの見えない長話に辟易していると、この男とは別の者がやってきた。
「おっ。女とお楽しみとはな。交代せずにこのままやるか?」
「馬鹿言ってんじゃねえよ。俺は静かな場所で寝たいんだ」
「そりゃどこにもねえぜ、ヨルダ。どこもかしこも野郎どものいびきで煩すぎる」
「ははっ、土台無理な話だったな」
ヨルダは手をひらりと振り、部屋を後でにする。
これが一匹の風精霊と一人の男の最初の出会いだ。男にとっては大したことのなかった時間で、だがヴィーゼにとってはこの場に連れられて唯一の楽しかった時間である。
「またお話しできるかな?」
ヴィーゼは新たな見張り役には相手にされず、つまらないと退屈を弄びながら、時折籠からの脱出を試みる。
籠は強固なもので、だから片手間に行うのだが、そうしているだけでも時間はあっという間に過ぎていく。
見張りは交代制なので、ヴィーゼとヨルダは何度も顔を合わすことになった。やはり面倒くさそうにしながらも、男には弟妹がいたことから結構面倒見がよく、ヴィーダの喧しさには慣れたもんだとよく話をする。
「俺はまだ若いからって、見張りを押し付けられるんだよ。好き好んでお前に会いに来てるわけじゃないんだからな?」
この日もヨルダはいつもの定位置となった籠と対面の壁沿いに座り、話し込む。
「何でもいいよ。楽しいことには変わりがないもん」
ニコニコとするヴィーゼに、小女を捕まえた側のヨルダであったが流石に毒気に当てられる。ついお節介をやきたくなる程にだ。
「お前さあ、自分の立場分かってるか?」
「捕まってる!」
「そうだな。で?」
「えっ。うーん、大変!」
「こりゃ駄目だな」
ヴィーゼの今を楽しむ性質は既に知っていたことだが、あまりにも物事を考えていない。ヨルダの言葉をきっかけに深く考えればいいが、それすらも行わない。
想像以上のばかだと、ヨルダはため息が出る。暇なのはヨルダとて同じことで、加えてお節介をかいて、この小女でも分かりるよう時系列で説明することにした。
賊である自分達に捕まっていること。裕福な物好きに高値で売られそうになっていること。その前に他の精霊も捕まえようと、情報を聞き出されそうになっていること。有益なことを話さないことによる危機感も持たず、能天気で呆れられていること。
「そんなことになってたんだね!」
「お前……自分のことだからな? いいか、まだボスが留守中だからいいが、このままだと帰ってきたときに痛い目に合わされることになるぞ」
ヴィーゼは無邪気に他の風精霊と戯れていたところ、偶然居合わせたヨルダ達によって一匹捕まえられていた。風精霊とは一番よく見かける精霊ではあるが逃げ足が速いことで有名で、捕えられた成功例など一度もなかったほどだ。
悪ふざけでやってみた結果、眠っている隙をついたとはいえ簡単に捕まえられたことに、賊は本当に風精霊かと訝いまでした。
「そもそもなんで触れられるんだ? 精霊には実体がないはずだろ?」
「うー、そんなこと言われても分からないよ」
ヨルダは指で小さな頬をつつくことができるが、本来ならばこのようにして精霊には触れられない。
精霊は魔素を元に体を構成しているからであり、肉体を持つ人間とは完全に異なる生物だからだ。だからこそヴィーゼ以外の他の風精霊は捕まえることができなかった。
「あ、でもね、ヴィーゼがヴィーゼになったとき、木とか実とか色んなものに触れられるようになったよ」
「どういうことだ?」
「女王さまがね、ヴィーゼって名前をくれたの。それからだよ」
ヴィーゼは大きな指に手のひらを当てる。その大小の差を楽しんでいる様子からして、ヨルダ達にとって重要な情報を言った意識はなかった。
「へえ。お前、最初っからそういうこと言えよな」
「え?」
「まあいい。で、女王様ってのはどこにいるんだ?」
精霊を束ねる王の存在はよく知られていた。風精霊の場合は女王なのだろうと当たりを付け、ヨルダは狙いつけるように目を細める。
だが、ヴィーゼは「分かんない」と答える。これに関しては何回も言っていることだった。
「ヴィーゼは女王さまのところでずっと暮らしていたよ。でも、風と一緒に遊んでいる内に知らないところにいたの」
風が吹くままに身を任せ、迷子となっていたのがヴィーゼである。それでも気ままにいたところで、現在に至るのだ。
それに納得いかず、思い出せと何度も尋ねるのが賊である。今回の場合、ヨルダは尋ねる内容を変えることにした。
「じゃあよ、女王がいたところには何があるんだ?」
「風と緑がいっぱいあるところ。とってもいいところなんだよ」
緑葉に溢れた野原だった。季節によって白や黄色の花が咲き、蝶などと言った生き物と共に日々を過ごしていた。
回顧したせいか、ヴィーゼはそんな在りし日の夢を見る。
魔素が潤沢である自然豊かな場所を精霊は好む。特に風精霊は風が吹き抜けるその場所は『楽園』で、短き命の人間のいないことから穏やかなことであった。
ヴィーゼは重たい目蓋を上げる。鳥籠に閉じ込められてからというもの、だんだんと体の力は弱弱しくなっていた。
故郷を恋しく思い、ヴィーゼは脱出したい気持ちがここ一番で強くなっていた。籠の檻の隙間から出れないか身を捩ってみたり、魔法で風を起こせないかと幾度も試していく。だが、一向に状況は変わらない。
籠に込められた効能もそうだが、場所も悪かった。ヴィーゼがいるのは窓がなく扉は一つの地下室である。風通りは殆どないことから風精霊にはとても相性が悪い場所で、賊が持ってくる実や果物などからエネルギーの魔素を摂取するが、効率が悪く衰弱する一方である。
「上玉じゃねえか」
籠が揺れ、ヴィーゼも揺れる。自身の目線にまで持ち上げるのは、無精髭のある三十代の男だ。
「いいなお前」
ギラギラと欲の籠った瞳だった。ヨルダと違い、ヴィーゼは肌が粟立ち後退りする。それをその男は籠を傾け、逆に近付けさせる。
手足が投げ出され、籠から一部出てしまったことがとても恐ろしかった。あれほど籠の外に出たいものだったが、今は籠の中に閉じ籠っていたい。
男の息が感じらる程に近い場所で、ヴィーゼはようやく身の危険を感じることとなった。
「ボスが気に入ったようでなによりだ」
「あ? ……ああ、よくやった、てめえら」
ヴィーゼに夢中になっていたボスは手下の存在を忘れていた。思い出して適当に「褒美は後でな」と告げると、手下はわっと沸き立つ。
その中でヨルダは軽薄そうに仲間と笑っていた。彼はヴィーゼを捕まえた内の一人なので、褒美を得られる。こういうときの褒美は手下に不満を持たせないためにも盛大なものだから、期待できるものだからだ。
ヴィーゼは身を震わせながらも、そんなヨルダを見て裏切られた気持ちになった。元々敵であったが、そんなものを忘れていた小女にとっては大きな衝撃を受ける。
「なんで?」
次にヨルダが見張りとしてやって来たとき、つい溢した言葉だった。混乱する心を制御する術を知らないでいる。
「悪いとは思ってる」
「嘘。だって、笑ってた」
「そりゃそうだ。金は欲しいからな」
「意味わかんない」
悪いとは思い、金欲しさに嬉しく思う。同時にその気持ちが持てることに小さき精霊は理解できない。
「ヨルダはヴィーゼに何がしたいの?」
「さてな」
小女は涙を流す。とめどなく溢れさせているのを、男は無症状で眺めつつ「だが、」と言葉を続ける。
「あのとき周りに合わせないとも考えた」
小女はそれが意味することを分からず、呆然とする。
それを知った上で、男は突き放す。
「考えろよ。時間はまだある。考えて考えて、自分のことだけに集中しろ」
小女を見つめる眼差しは真っすぐだった。それは最初の出会いのときのように、男の善良さが表れている。
「起きろ」
「ぅ……ヨルダ?」
考えろと言われたヴィーゼだが、その力もなく眠っている時間が大半だった。寝ぼけ眼であったが、視界にいる男に頭はすっかり覚醒する。
「あ、あわわわわ……!?」
「アーベルだ。案外元気そうだな」
ボスのアーベルは「ほらよ」と籠の中に何かを差し込む。人間からして欠片の大きさの石を遠巻きにして、警戒している様子であることが意外に思った。
「魔石だ。抱えてみろ」
「こう……?」
ヴィーゼはあっと驚く。その石から力が流れ込んできたからだ。
魔石は魔素が凝縮したもので、食料として与えられていた実から摂取するより精霊は多くのエネルギーを得られる。小女の体は完全に良好とはいえないものの、それなりに回復することになった。
「アーベルって、実はいい人?」
「本人に普通訊くか?」
はっと笑うボスは最初の印象とは異なり、嫌な感じはなくなっていた。
『考えろよ。時間はまだある。考えて考えて、自分のことだけに集中しろ』
その言葉を想起して、だからこそ警戒を解く。魔石の恩を受けたことは、ヴィーゼにとって最初の印象を覆す大きなことだった。
そして口が軽くなり、あれこれといつもの調子で物を尋ねる。
「アーベルは皆とおんなじ仲間なんだよね」
「ああ。強いて言えば、取りまとめる役目を持つボスだけどな。偉いってことだ」
「そうなの? なんでもできる?」
「なんでもは無理だ。殆どはできっこねえ。だが、他の奴よりはできることはある。例えば、ここからヴィーゼ、お前さんを出してやることも、な」
「ほんと!? あ、でも……ヴィーゼは売られるんじゃなかったの?」
「本来ならな」
明るく調子のよい声だった。幼子を宥めるような調子でもある。
「俺ならお前を救ってやれる。だから――」
アーベルは努めて不審がられぬような笑みを浮かべる。
「俺と契約を結べ」
契約とは人が精霊の恩恵を受けれるよう、魔法による繋がりを持つことである。
ヴィーゼは直ぐに答えを出した。
「――契約はできないよ。女王さまから、しないようにって言われてるもん」
風精霊は誰もがそう教え込まれていた。女王は自由奔放な性質を持つ風の子らが契約によって縛られることに、幸せはないものと判断していた。
「ヴィーゼ自身はどう思うんだ?」
「どうって……契約されたら辛い思いをするんでしょ? ヴィーゼ、嫌だよ」
「契約するよりも酷い目に合うとしてもか?」
「うん。女王さまは間違ったこと言わないもん」
「どうしても無理か」
「ごめんね」
「そうか。なら、仕方ないな」
体に衝撃が走る。籠ごと地面に叩きつけられ、かはっと息が強制的に吐き出される。
次いで壁に殴り付けられる。籠は壊れることなく丈夫で、何度も何度も繰り返される。
「素直に頷いときゃ、いいものをなあ」
「……っ、!?」
「なあ、痛いか? 苦しいか? 契約したくなったか? なあどうなんだ、ヴィーゼ。何とか、言えッ!」
「い、痛い! やめて! やめてよお!」
「ハハハッ! まだ足りねえ、か!」
ヴィーゼは悲鳴を上げ、それと同じぐらいの声量でアーベルは哄笑する。
狂った男による痛め付けは、気を失うまで行われた。そして一回に留まらず、日に一回は同じことをされる。
「考える、考える、考える…………無理だよ、ヨルダ」
女王の意思に反することはできないヴィーゼにとって、危険を感じていくら考えるようになっても、それは意味のないことだった。
ただ疲労だけが積み重なっていき、アーベルの発する言葉まで暴虐の限りをつくされることばかりが頭を過る。そして小女の変わらぬ意志を、何度も何度も破壊せんとする。
「この籠は特別製でなあ。強固な上に、精霊の力まで封じる。だから魔法は使えねえんだ。だから無駄な足掻きは諦めろよ?」
「なんで精霊ってのは、馬鹿ばっかりなんだろうな。どいつもこいつも、俺を受け入れやしねえ」
「おめえの好きな女王様とやらは全然助けにこねえな。そんな奴、信じる意味なんてないだろ? おい、契約できねえならできねえで、何か情報でも吐けよ」
「そういや仲がいいっていうヨルダも助けどころか、会いに来てねえな?」
「ヨルダは弟と妹がいるってこと、知ってるか? 流行り病にかかっちまって、妹はもうくたばっちまったみてえだが、弟はまだ生きてるって話だ。つまりよ、ヨルダはおめえじゃなく弟の方が大事だってことだ」
「おめえは金になる。あいつ、さっさと売り払えって思ってるだろうな。このままだと弟まで妹と同じ末路だ。早くしねえと、薬を手に入れんのも冬で材料が少ねえから難しいだろうしなあ」
「ああ、死ぬなよ?」
「くたばりそうになっても、回復させて生かしてやる。何度も何度も、な」
「おめえが悪いんだからな? だから泣くな喚くな。耳に障る」
「……………………ヴィーゼ?」
その声は裏切られ絶望してなお、待望としていたものだった。
言葉を発することもできぬまま、ぼんやりとした視界でヨルダを認識する。男は何かをしているようだった。小女の体を支えつつの、腕を持ち上げたりしてそれを巻く。包帯代わりの布だったが、小女はそれが分からず、またどうでもよかった。
「あいたかった」
「――」
「ね……弟と、妹がいるの?」
「……」
「だから、お金ほしいの? ヴィーゼを売りたい?」
「……」
「なんで黙ってるの、なにか言って……?」
「……」
「じゃないと――」
『勝手に聴くよ?』
「っ!」
ふんわりとした風が起こり、ヨルダを取り巻く。ヴィーゼは籠から出された状態にあり、魔法が使える状態にあった。それを、脱出のためではなく、男の心を読むために使う。初めての魔法だったが、精霊としての本能がどのようにすればいいか知っていた。
そして小女はさめざめと泣く。アーベルから聞いていたことは本当だった。ただヴィーゼに対する感情が偽りだっただけだ。葛藤しながらも大切に想ってくれていた男に、気持ちは通じ合っていたのだという嬉し涙だった。
対するヨルダも、逆流してきたヴィーゼの心の内を感じていた。小女の魔法は成功していたが、技術不足やぼろぼろとなった身体的状態により互いの心を知ることになっていた。
男は突然のことに混乱して「俺は、」と言を溢す。小女は裏切られた悲しみはあれど、何も恨んではいない。その無垢の在り様は眩しく輝いていて、とても綺麗であった。それが自身に向けられていなければ、と男は思う。
「おい、ヨルダ。もう十分だろ?」
男はビクリと体を揺らす。小女は知らなかったが、扉に寄りかかるようにアーベルは最初からいた。
「そんなに虐めてやるなよ。いくら嫌いだとはいえ、あんまりにもかわいそうだろ? なあ」
「…………ああ」
ヨルダはヴィーゼを籠に戻す。触れる大きな手は優しさに満ち、そっと冷たい籠におろした。
アーベルは気付いていない。魔法が行使されて不審がってはいるが、失敗したと思っている。言葉で語り合わずとも心で繋がったことを知らない。だから言葉による嬲りも意味はなく、またヨルダがヴィーゼの頬を撫でて触れ合ったことも死角もあって見ていない。
ガチャンと錠が締まる。無情の音は幾分か柔らかく聞こえ、小女の意識は再び途切れた。
アーベルによって、見張り役から外されていたこと。弟の存在を仄めかし、何もするなと脅されていたこと。そうして長い期間が経ってから、わざわざ治療をするよう嗾けられていたこと。
ヴィーゼはそんなヨルダの立場を知った。それでいても見るのは男のいない夢である。初めは故郷の楽園の日々から始まる。
くすくすと笑い声があった。精霊同士で話をして、遊んで、ときには悪戯をする。それが風の精霊の日々。穏やで変わらぬ生活の中にちょっと刺激がある、そんな日々だった。ふいに小女の元に訪れた美しき女王は言う。
「『ヴィーゼ』」
「?」
「貴方の名前よ」
人間ほどの大きさの女王は手のひらで小女をすくい、持ち上げる。
「健やかに成長なさい。貴方は貴方の性分のまま、大きくなるのよ」
「女王さま……?」
「さあ、おゆき」
「どこに?」
「どこへでも。風の子たる私達は好きな場所に行ける。ヴィーゼとなっても、それは変わらない」
暖かな方に見送られて、風に乗って身を任せる。楽園から離れて、初めての世界にあっちへこっちへと目移りして、地へ降り立ってそこにいた精霊に授かった名を自慢する。
お祭り騒ぎと歌って踊って疲れ果て、いつもとは異なる感触の葉に寝転ぶ。陽がよく当たり、心地のよいものだった。
そして目覚めるは籠の中。暗さに怯え、誰かの声を求めれば人間がやってきた。男達がぞくぞくと現れ、何事か囃し立てる。そんな呑気な精霊の見物人の中にはヨルダはいない。
たまらず小女は喉を絞って叫ぶ。
「――ヨルダ! むぐう!?」
「静かにしろっ」
こくこくと頷けば、口を押えていた手から解放される。呼吸を必要としない体とはいえ、苦しいものは苦しい。
「ったく、お前って奴は……」
呆れた声で、優しい手つきだった。直で触れ合えることは小女と男の間に遮るものがなく、つまりは籠の外にいるということである。
小女は真っ先にアーベルの存在を疑った。部屋の中を見渡し、発見するのは鼾をかきながら寝そべる何てことない男だ。手下の一人ということは見張り役でよく見かけていたので知っていた。
「あの人は……?」
「どっかでくすねて来たもんをこっそり飲んでたんだろ。ここにはろくでもない奴しかいないな」
陰の含む表情を浮かべながら、転がっていた酒瓶を蹴飛ばす。そして端的に告げる。
「逃げろ」
精霊の小さな体でも持てる大きさの荷を持たされ、あれやこれやと物を言う。だが、ヴィーゼは殆どが耳に入らなかった。
「ヨルダは、一緒に逃げないの?」
逃げることに異論はない。ただ、ヨルダのことだけが気がかりだった。
「ヴィーゼ、知ってるよ。本当は好きでここにいるわけじゃないんでしょ? お金のために仕方なくここにいるんでしょ? なら、」
「俺は逃げない」
「――」
「お前と共に逃げたってどうにもならない。俺はここでやるべきことをやる」
「……っ嫌でそんなことしなくていいよ! 薬は私がどうにかするから。皆にも手伝ってもらって、きっとどうにかなるから。だから」
「いいんだ。いいんだよ、ヴィーゼ。言い方を変えるが――俺は、お前と共にいたくないんだ」
男は言葉とは不釣り合いに微笑んでいた。
なんで、どうして、と小女は次々に言葉が浮かぶ。また魔法を使ってしまおうかと考え付いたところで、男にさっさと部屋の外にまで連れられてしまう。冷たい風が吹いていた。
「時間だ。もう一生俺みたいな奴に捕まるなよ」
「……ヨルダ」
「どうか聞分けのいい子でいてくれ。お願いだ」
「ヨルダ……っ!」
小女は切なく、潤う瞳で我慢するように手を握りしめる。男もまた秘めてはいるが切なく、胸が締め付けられているように痛かった。
「ヴィーゼ、また会いに来るから。絶対、会いに来るからね」
男の指を掴み、魔法で加護を贈った。目には見えないが、男を守る風がある。
そして吹く風に乗り、あっという間に男の姿は遠ざかった。
「……来なくていい。だからお前はお前のまま、無垢で汚れないでいろよ」
聞かすつもりのなかった言葉への返答はしない。どちらもそんなことは望んでいなかった。
*
ヴィーゼが地下から脱出し、向かうべき場所は楽園だ。男の弟を病から救うため仲間の元に、女王の知識を得るために自身の力も用いて飛び立つ。
「ヨルダの、ばかああああああッ!」
久方ぶりの外の景色に目もくれず、目的を一つとして力を振り絞る。涙とはこんなにも様々な感情から溢れ出てくるものだと学びながら、傷の手当のときに巻かれた白布をはためかせる。
「あ、ヴィーゼだ」
「ヴィーゼがかえってきた!」
「ヴィーゼ、ヴィーゼ!」
風の精霊の歓迎の声は多くなっていき、次第に重なっていく。楽園に至る道を時々尋ねながら、小女はここに来てようやっと囚われの身から解放されたことを実感し始めた。
籠の外とはこんなにも広く、自由でいられたのか。ヨルダがいないことにちくりと胸に刺さるものがありながら、小女は楽園に辿り着く。
「ヴィーゼ! よくぞ無事で……っ!」
「女王さま! く、苦しい! 後痛いよっ」
「ああ、ごめんなさい。つい……まあ、なんて酷い傷!」
女王は慌てふためき、その声に反応してわらわらと精霊が集ってくる。
「くすり!」
「やくそう!」
「くさ!」
「どれ~?」
「わかんないよー」
「お前達はこの薬草を取ってこい。あ、待て。そんなに大勢で行く必要はないからな!? 別の者は包帯とか消毒を持ってこい! ないのなら、人間からもらってくるんだ!」
女王の守護者である、人間の子どもを象った精霊が矢継ぎ早に指示していく。迅速な手当てに目を回しているヴィーゼを、女王は痛ましげに見ていた。
「どこでこんな怪我を……。何があったの?」
「人間に捕まってたの」
「そう、それでこんな目に……。でも、よく逃げてきてくれたわ。私でも行方を知ることができなかったから、とても心配していたのよ。偉いわね、ヴィーゼ」
「ヨルダが助けてくれたの。あのね、女王さま。ヨルダを助けて欲しいの。ヴィーゼの怪我なんかよりも、ヨルダの弟の方が苦しいから。それでヨルダも苦しくなっているから、だから……っ!」
「落ち着いて。ゆっくり話して御覧なさい」
言いたいことが溢れる小女は、女王の深い愛情に触れて訥々と嗚咽交じりに詳細を語った。他の精霊も悲しみが伝播し、普段の明るい調子は鳴りを潜める。あの守護者は黙々と手を動かしつつ、睫を伏せた。
「人間どもめ」
「パウラ。慎みなさい」
「……はっ」
守護者は恭しく跪く。女王はただ風精霊が契約して自由を損なう不幸があるから契約を禁止しているだけで、人間に対する認識は正しく持っている。風の子でありながら風を統べる女王は、その力をもってして世界を照覧していた。
人間は悪しき者もいれば、良き者もいる。それがヴィーゼを捕らえた者であり、包帯などを快くくれた者でもある。
「ヴィーゼの気持ちはよく分かったわ。ヨルダはただ一人、ヴィーゼによくしてくれた。恩に報いるために、病の治療薬や知識を授けることを私は厭わないでしょう」
「女王さま……!」
「ただし、一つの疑惑を確かめてからよ」
「疑惑……? ヨルダはいい人だよ」
「ええ、そうでしょうね。でも、だからこそよ」
女王はパウラから白布を渡される。ヴィーゼの傷の手当てにと、ヨルダによって包帯代わりに使われたものだった。賊が持っているには相応しくない、麗しく刺繍された白布を指でなぞり、女王は眼光を厳しくする。
「……この場所は知れたわね」
パウラは逸早く動いた。対して何も理解できていない小女に、女王は目と目を合わせる。
「よく聴きなさい、ヴィーゼ。これは居場所を示すもの。貴方が行く末を見るもの。この楽園の場所はあの人間の知るところになったわ」
「――え?」
「図られたのよ。直ぐに賊がやってくるわ」
「でも、ヨルダは」
「それが意図的であれ、そうでなかったであれ」
女王は冷酷に告げる。
「私がなによりも優先すべきは、私達精霊を守ること。ヴィーゼがいう人間に何かをしてあげる時間なんてないわ」
なぜあの大きな背がヴィーゼにはないのだろう。
小女は女王を恨むことはなかった。己の不出来さを嘆き、力さえあればヨルダを救い出すことができたのにと一心に思う。
張り上げられた命令に、応じて慌ただしく駆けていく風精霊の大多数は逃げるためで、少数は戦うためだった。
「どうするんだ」
動けぬヴィーゼにパウラは問う。
「どちらを選ぶにしても早くしろ。『自己の確立』がなっていない間中の失態は許せるが、その後の邪魔だけはするな」
「ヴィ、ヴィーゼは……っ」
「二択だ。逃げるか、戦うか」
パウラはじっと見つめて待ち、小女は声を震わせる。「たたかう」と。
それは強制された選択だった。
精霊は戦いに勝つか負けるかにしろ、楽園の地を捨てることになる。人間に場所を知られたからには、風精霊の望む自由のために人間の手が及ばぬ場所に移るのが最善だからだ。ヴィーゼはその罪を責められはしないものの指摘され、そしてヨルダが賊の一味として楽園に来ての再会の可能性を不意にしたくない心情を持っていた。
二択から選ぶことしか考えられない小女は、どうしたって戦う以外の選択はなかった。守護者は「そうか!」と声を弾ませる。
「ならば戦う術を教えてやる」
精霊には気の良いパウラは、あれやこれやと自身の持ちうる知識を教え込む。風の扱い方や精霊の利点を生かした立ち振る舞い、人間の弱点と立ち続けに語られる内容を、小女は黙々と吸収していく。
無垢であることから知識が本当かどうかと疑うことなく、また痛感した己の不出来さを少しでも良くなるよう、小女は呑み込みが早かった。
「ねえ、『自己の確立』ってなに?」
一通り知識を詰め込み一段落済んだ頃、小女は問う。罪の許しとなったその理由の意味は、ずっと頭の隅で気になっていることだった。
「ああ、まだ知らぬことだったな」
重要な事柄なのに、とパウラは恥じる。
「だがまあ、言葉の通りだ。名付けにより『自己の確立』が行われる」
「? よく分かんない……」
「精霊とは全にして個だろう。これまでの常識として、己が身であるパウラやヴィーゼ、女王なども個人でも一括りでも精霊と、『私達』と考える」
人間は全と個を同様のものだと考えはしないが、精霊は異なる。全=個なのだ。だから一人称は人間であったら『私』であるところを、精霊は『私達』とする。
風から生まれたこの精霊達は、自由奔放などの性質からどの個体も似たような思考回路をもって、行動も似る。結果、精霊は自己と他者の違いを認識できないでいた。それを名付けによって、自己という唯一を認識させるのである。
「ヴィーゼはヴィーゼで、他に同じ名前の精霊はいないだろう? ただ一匹しかいない」
「うん」
「そうと認識できるのならば、ヴィーゼは『自己の確立』がなっているということだ。私達の中でも名前があるものは例外として私という個として認識でき、そうあれる。精霊の成長だ」
といっても、名付けだけでは自己の確立までに時間がかかる。自分のことをヴィーゼと言ったり、他者からヴィーゼと呼ばれ続けるだけでは、早々に確立できはしない。
小女の先輩といえるパウラは遠くをぼんやりと眺め、自身の過去を振り返る。
「女王はな、ああ見えて厳しい。だから成長を促すために様々な経験をさせる。この楽園から出るように言うし、そうして最初に目の届く範囲で失敗をさせる」
哀れな小女だと、パウラは思う。女王は人間の作った狡猾な道具を見通せず、賊の行いを許してしまった。パウラのときも酷い目にはあったが、ここまでではなかった。
まだ痛むようである小女の傷のある体を胸中では思いやりながら、守護者はビシッと指を指す。
「いいか、ヴィーゼが賊にまんまと捕まってしまったのは、成長により実体化ができるようになったからだ。実体化は魔素が含まれていない物質にも触れられるようになる利があるが、逆に相手も触れられることもできる。だから賊が来るまでには、実体化をうまくできるように練習しておくんだな。といっても、時間はそうないようだが」
不意に風が吹くと同時に、叫声が響いた。その場に駆けつければ、集まる精霊の他に男が一人地に伏せている。茂る緑に対し、一点の赤が染みていく。
「これが戦うということだ」
「っ」
「ヴィーゼ、覚悟を決めろ。賊は全て殺す」
守護者は何もパウラだけではない。逃げることなく戦うために楽園に残る精霊は多くの守護者と、女王の剣なる執行者がいる。前者はかなりの人数がいるが、後者は片手の指の数にも満たない数だ。だがその分、選りすぐられており優秀である。
執行者は死に絶えた男の得物である短剣を拾い上げる。鞘から抜かれて生身となっている刃が鈍く煌めいているのが、少女の瞳に嫌に焼き付いた。
「もしも賊に恋しく思う人間がいるのならば、どの私達よりも早く見つけることだな。特に執行者は苛烈だ」
執行者はパウラとヴィーゼも一瞥する。何ということもないと短剣を見に帯びてからその場からすっと消えたことに、パウラは呆れて溜息を吐く。
偵察をしてきた男は数多くの精霊により、切り刻まれて肉塊に成り果てた。執行者に限らず楽園を追われることになった精霊の報いは重い。
ヴィーゼは漂う血の匂いに、嘔吐く感覚を初めて味わう。
賊の襲撃はそれからほどなくして起こった。
ヴィーゼは今すぐにでも逃げ出したくなる衝動に駆られる。
楽園は阿鼻叫喚と化していた。
破壊の跡が、轟く音が、混ざる異色が、腐臭が、精霊の噎びが、濃い感情の叫びが、目と耳を塞ぎたくさせる。
ヴィーゼは気を抜けば全身の力が失いそうになるのを、己の叱咤して楽園を飛び回る。
「おらあ! さっさと捕まりやがれ!」
「ヴィーゼはっ、もうあんな目にあいたくない!」
そこにあった風を手繰り、賊に向ける。息を詰めるのは、殺すのが恐ろしいからではない。籠の中で過ごした際に接した人間が、ああも簡単にピクリとも動かなくなる。生から死という大きな変化は、小女にはまだ受け止めきれぬものだった。
精霊の死も同様だ。人間とは異なり、体は残らず魔素となって消える。自己を確立した精霊に限っては魔素が昇華され、魔核が残るが、死の概念はおおよそ変わらない。
だからと小女は賊を生かす。血が流れているが、あれだけでは死なないことは何度も戦闘を繰り返したことにより学んでいた。
それが後に他の精霊によってとどめを刺されるとしても、小女の知らぬ間であれば問題はない。背を向けた方から無情なる音が鳴ったが、見なければまだ恐くはないのだ。
決して振り返らず、小女は懸命に一人の男を探す。男はどこにもいない。
ずっと、そうであって欲しいと思う。来ていなければ、それに越したことはない。だが、そうでなければ。とてつもなく、そこらの死なんかよりも恐ろしいことだった。
震えを起こしながら、ただ一人を想う。既に死んでいないことだけを願い、あてもなく探す。
人間が使う奇妙な道具と魔法にだけ注意すれば、命の危険はない。女王が精霊全体に向けて喚起したことを守る小女には、確かな信頼を持っていた。
そして、運命が訪れる。
恋しい声が、ヴィーゼの名を呼ぶ。小女もまた、男の名を呼び返す。
「ヨルダッ! 良かった、生きてる……!」
再会を喜び、抱き締める代わりに小さな体を男に押し付ける。涙は服をひたひたに濡らす程に溢れ、ヨルダは苦笑する。
「お前のお陰だ。加護をくれたから、無事ここまで来れた」
そうはいいつつ、ヨルダの体にはいくつも傷がある。攻撃を受けて加護はとうに切れていたからだ。それでも加護の残滓から、風の精霊は攻撃を加えることはなかった。執行者に遭遇することがなかった運の良さもある。
ならば、ヨルダの傷はどこでできたものなのか。
男はヴィーゼの四肢を押さえ込む。警戒なく油断した状態であったから、とても簡単なことだった。
「相変わらずばかだなあ」
「……ヨルダ?」
「俺、言ったよな。なのに、なんでまんまと捕まるんだ。ヴィーゼ……ッ!」
込める力は強く、小女のもつ傷がよりじんじんと痛みが増す。
「やめて、ヨルダ!」
男は険しく表情を歪ませただけで力を緩ませようとはしない。異常を感じ、小女は実体化を解除する。賊の襲撃までになんとかできるようになっていたが、なぜか男の手からは逃れることはできない。
「なんでっ」
「ハハハハハ、間抜けな様だな」
「っアーベル!」
「よう。ちゃんと名前は覚えていたようだな」
目を弓の形にして見下ろす。心底愉快だと、肩を震わせていた。
「よくぞ逃げてくれたなあ。真っ直ぐ向かってくれたもんだから、道案内だけは優秀らしいな。ははは!」
「このっ、触らないで!」
「つれねえなあ。ヨルダには言わなかったくせによ」
男からアーベルの手にヴィーゼは渡された。身の毛がよだち、暴れまわるがやはり逃げることは叶わない。
アーベルは片手で小女を押さえながら、もう片方をひらりと目の前で振る。手套がはめられていた。
「これだよ。精霊を捕まえるために、俺らは万全の準備をしてんだ。金はかかるが、その分儲けで返ってくる」
「……離して。じゃないと、痛くするよ」
「やってみろよ。あいつがどうなってもいいならな」
「っヨルダになにをしたの!」
「俺らが持ってんのはな、精霊を捕まえんのに便利なもんだけじゃない。人間はどうも性悪でなあ、同じ人間に対しても意地の悪いもんを作りやがる」
アーベルはヨルダを見遣る。拒否したくともできなく、ゆっくりとした動作で襟を引っ張る。明らかになった首には、黒の紋様がある。
隠されていなければ直ぐに気付くものだ。ここ最近、新しく刻まれたものだと小女は悟った。
「『伏せろ』」
「ぐッ」
「ハハハ! 見ろよ、ヴィーゼ。ヨルダはなあ、こんな犬みてえな人間以下の畜生になっちまった! 憐れなもんだよなあ。でも、おめえのせいだぞ? こいつを誑かしたもんだからこんな目に――」
「もういいよ! 分かったから、早くこんな酷いことやめて!?」
「本当に分かってんのか? 認めるってことだぞ? 自分のせいだってなあ」
「っ、……そうだよ、ヴィーゼのせい。悪かったから、謝るから、だから」
「それだけじゃ足りねえよ。責任、取れよな」
「……どうすればいいの?」
「話が早いじゃねえか」
ヨルダはアーベルによって髪を掴み上げられ、ぶちぶちと嫌な音を感じた。不穏な雲行きに、己のボスに対して睨みつけて反抗的な態度を露にする。
アーベルは気にせず、ヴィーゼと対話する。
「契約だ。俺とお前でな」
「なんで、またそんなこと」
「……そんなこと?」
ボスは乾いた笑みを浮かべた。瞳は笑っておらず、憎悪が籠っている。
「てめえには分からねえよ。俺はな、元々こんな風に落ちぶれていたわけじゃねえ。ヨルダのように貧民街育ちの、最初から社会の最底辺にいるような存在じゃねえんだよッ!」
アーベルの、己の境遇を知るもの以外には明かすことのなかった真実だ。
たった一つの汚点が決定的で、栄光が地に落ちた。その汚点というものが精霊との契約で、だからヴィーゼに執着する。
「契約さえできりゃあ、奴らを見返せるんだ。風の精霊との契約は三百年以上も、誰もなしえていねえ。それを叶えてくれよ」
なあ、ヴィーゼ?
甘く、陶然と描く未来に酔い、艶に唇を濡らす。
激昂したのはヨルダだった。
「何ふざけたことぬかしやがる!」
アーベルは莫大な利益になるからと、手下を扇動してこの楽園まで来た。だが、本当の目的は一人よがりの欲望で、そのせいで人間と精霊が争い、この時点でどちらも少なくない数で死んでいる。
賊は精霊を捕らえることに賛成してやって来ているので自業自得の面もあるが、精霊は違う。特に思い入れのあるヴィーゼが醜い欲望を押し付けられていることに、ヨルダは堪えていた怒りを爆発させた。
だが、ヨルダの身に置かれた状況は依然変わりない。刻まれた紋様により自由に体を動かすことができず、ボスの意のままだ。ただその男の気まぐれにより、唯一口が利ける。
「契約なんてするな! したって、何一ついいことなんてない!」
「ああそうだ、一つ約束してやる。契約したら、ヨルダは生かしといてやるよ。用済みになって害にしかならない野郎なんざ、駆除するのが通例だがな」
「守るつもりなんか、これっぽっちもないくせに……ッ。いいか、どうせ俺は殺されるのがオチだ! 自分の人生を、仲間の精霊をよく考えろ!」
「そういや、もうわかっちゃいるだろうが、ヨルダはおめえのためによくやってくれたぞ? 手当のときに使った白布で居場所を探知してたってのはもう知ってるか? そうと知らずに騙されて随分と丁寧に手当はしていたし、死にそうな弟がいるってのに籠からも出す危険も冒し、健気に言い繕いもした」
「――知ってるよ。ヨルダがヴィーゼのために、いっぱい助けてくれたことぐらい、言われなくても知ってる」
「っやめろ、ヴィーゼ」
「決めたよ。実はこの戦いが始まる前からとっくに決めていたの。今度はヴィーゼが、ヨルダのこと助けるって」
だから逃げることなく、この場に残り戦っていた。再会して、ヨルダにも幸せがあって欲しかった。
「……言っておくが、隙を見て俺に攻撃しようとは考えるなよ? ヨルダには俺が死んだら、共に死ぬように事前に命令してある」
「うん。契約でしょ。しよう。だから、絶対に約束は守ってね」
アーベルはぞっと背筋が寒くなった。
ヨルダの言った通り、守るつもりのなかった約束は守らざるを得ないかもしれない。自身ではヴィーゼの力を下しきれない、と感ずる。
ヴィーゼはアーベルの手から解放された、ヨルダに近寄る。
「変な顔」
「ばかが。自分が、仲間が大切じゃないのか。こんなくそみてえな俺を助けたって、どうにもならないだろッ」
「ねえ、泣かないで」
「泣いてねえ。俺を見捨てろ、死なせろよ」
「嘘つき。今度は心の声を聴かなくても分かるよ」
小女は綻びる。やっとヨルダに何かしてあげられることがとても嬉しかった。
それが精霊を裏切ることになっても、己が契約に縛られることになっても。今のヴィーゼにとって、一番はヨルダだった。
轟轟と風が吹いている。悲鳴や破壊の音はなかった。どう決着がついたのか、この場にいるものは知る由もない。
ただアーベルは己の陣営の勝ちだと確信する。そのための道具は惜しみなく揃えていて、たとえ負けていてもこの小女と契約さえしていれば、己の勝ちにはなる。
「俺はアーベルだ。アーベル・ベルガーだったものであり、ベルガーへと返り咲くものだ」
契約は名を告げる必要はない。精霊が承諾すれば、精霊自身の手により結んでくれるものだ。だが、儀式の一環として人間が慣例としており、この男もそうあるべきと思っている。
「お前も名乗れ」
「ヴィーゼ。風の子として生まれた精霊だよ」
互いに名乗り合って契約を、絆を結ぶ。本来あるべき姿とは程遠いものだ。アーベルは見かけだけの契約に満足そうにし、そのときを待つ。
やはり風が吹く。吹き荒れて、渦巻き、その強さを知らしめる。
「――は?」
その声はどちらの人間のものだったか。
一瞬にして全ては終わる。
アーベルが袈裟懸けに血を噴き出し、ヨルダは手持ちの短剣で首を掻き切る。
契約をなすことに集中していたヴィーゼは何もできず、呆然と口を開けた。
「こんなに騒ぎ立てて気付かぬ訳ないわ」
「くそったれが」
懐から取り出して投げつけたものごと、アーベルは細切れにされた。肉も骨も同じだと真っ直ぐな断面で、次には爆発に呑まれる。
死したアーベルは自らの手で火葬したようなものだ。女王は些事なことだと目を外し、ヴィーゼを見遣る。小女はヨルダを介抱していた。
頸動脈を切っており、鮮紅の血が留まることなく肌の色を上書きしていく。
ヨルダは死間近の命で、小女を案ずる。
「よかった」
「良くないよッ!」
駄々をこねて泣きじゃくる。
理解が追い付いていなかった。ただ眼前の死はどうしようもできないと分かっていた。
幼子となっていやいやと首を振る。ヨルダは薄れていく意識で、ヴィーゼにずっと重ねて合わせていた人の姿を見た。
「ハンナ…………ヴィーゼ。せいぜい、恨めよ」
「っやだ。だめ、いかないで……!」
「ごめん」
儘ならぬ人生だった。親に捨てられたことで振り回され、生きるために弟妹のためにも悪事に身を染めた。
そんなヨルダはヴィーゼに出会えたことに感謝した。小女を助けたことで、罪を償えた気がした。
ただ今にこうして苦しめることになってしまうならば、さっさと死んでおけばよかったのだと呪う。己なんかが死にしがみついても、周囲にとって良いことなんてなかった。
どうしようもなく馬鹿で。そんなところが好ましくて。できるならばこの先もずっと、共にいたかった。
己は死ぬが、ヴィーゼは生きる。現状に満足にいくこととすれば、それである。
自由な人生を送ってもらえることが、なんて喜ばしいことか。ただ己以外で後悔があるとすれば、一点ある。
ヴィーゼのために身を捧げたとは反対に、捨ててしまった存在がいる。
「おとうとを、どうか」
そして、小女はヨルダから力が失われたことに見た。最期で言葉はこれ以上続かない。待っても意味がないことを、女王は声をかけることで暗に教えた。
「ヴィーゼ」
「…………なんで?」
「こんな結果にさせるつもりはなかったの。その人間も死んでしまったのね」
「なんでなの?」
「でも、その人間も本望だと思うわ。だって、そうじゃない」
女王は言葉にはしなかった。だが、口振りで分かってしまう。
ヨルダは『死なせろ』と言っていたと。だからアーベル共々殺したのだと。
小女は思考が焼ききれるような感覚を味わった。
「そこまで知っていて! 見ていて! なんで……女王さまッ!」
「私は願いを叶えただけよ」
「好きで死にたいって思う人なんていないッ!」
「そうかもしれないわね。良い人生を過ごせている者ならば」
女王の態度は変わらない。ヴィーゼの契約を阻止するために間接的にヨルダを殺したことを後悔していない。
「女王さまなんか、大っ嫌いッ!」
小女は別離を決める。
ここで女王は顔をこわばらせるが、直ぐに取り繕って眉を吊り上げた。
「ならば今すぐに去りなさい! 私達よりあの人間を選ぶのならば、この場には置けないわ」
「言われなくてもっ」
ヴィーゼは羽ばたく。背を向けて遠ざかっていく姿に「よいのですか」とパウラは歩み寄る。
「いいのよ」
胸の前で固く手を握りしめていた。そんな女王を執行者は遠方からじっと見つめていた。
ヴィーゼは使命に駆られていた。今度こそ小女が身を捧げる番だと、遺言に残された弟の元に向かう。
場所は知らないが、風が教えてくれる。それは魔法ではあるが小女ではなく、先刻まで相対していた存在によりなされたものだ。
今更に本来の男の願いを叶えようとしている。その理由を少女は分からない訳ではなく様々な感情が湧いて出てくるが、今は考えないようにする。ヨルダに関して癒えていない傷がずきりと痛ませて、手伝ってくれていた。
速く行かなければならない。衝動からヴィーゼも魔法を使う。風に還り、風と一体となるものだ。
次々に景色が移ろい変わっていくが、小女は何の感慨も持つことができなくなっていた。考えないことがこれほどに簡単だったなんて、とそう思うこともできない。限りなく自我が薄くなっていて、弟の存在さえも頭にない。
だが、風の導きのままについていくことはできていた。女王が庇護する存在であると本能が覚えている。理性の反発心なんてなくなってしまっているものだから、無垢に信じられる。
風がここだと一軒の家屋に入り込んで凪いだ。ついでに小女の魔法を解除してしまって、覚醒した小女がいきなりな目の前の光景にぱちぱちと瞬きする。
「ここって……」
目の前には寝台で仰向けに寝そべる少年がいて状況を察する。名前はヨルダの心を読んだときに知っていた。
「あなたがエミル?」
息を呑んだのは、小女のよく知る人間とは異なっていたからだ。
被さる布団の中身は痩せ細っているのだろう、頬は骨のラインが分かってしまう程に頬がこけている。肌は青白くて唇はかさついている。
「……だれ?」
少年は目蓋を閉じていたが寝ていた訳ではなかったので、うっすらと目を開ける。己を注視する小さな存在を瞳に映し、頬が動く。
「精霊さんだ。僕とおしゃべりしてくれるの?」
それはぎこちながらにも微笑んでいる。子どもの無邪気さで優しく歓迎してくれたことに、ヴィーゼはなぜこの少年の元に速く行かなくてはならない衝動が起こった理由を悟った。
エミルはまだ知らないから、伝えなくてはならないのだ。兄の死とその経緯を、その原因を作り出したヴィーゼの口からである。
病に伏せりながらも明るく希望を持っている少年は、見ていて胸が痛む。ぽろりと涙が零れた。
「ごめんなさい」
掠れた声は少年には届いていない。ぼんやりとしているから、どこまでも気付かずに無邪気にいる。
「君は風の精霊さん? 僕ね、前に別の子とはなしたことあるんだよ。少しだけなんだけどね」
「エミル、大切な話があるの。ヨルダについて、どうか聞いて」
「……兄ちゃんのこと?」
「うん」
何から言えばいいのか、考えていなかったから逡巡する。結果、直結に「死んだの」と告げた。
「あのね、ヴィーゼのせいなの。ヴィーゼのせいで、死んじゃった。助けようとしたんだよ、でも駄目だった。本当だよ。最初に怖い人間に捕まっちゃったのがいけなくて、他にもヨルダの言ったことを守れなかったことも、大きな力がないのも、誰よりもばかなことも、色々言い尽くせないくらいにあるの。ごめんなさい。ごめんね、女王さまはヴィーゼのことをとってもよくしてくれて、だからその分ヨルダには厳しくなることになっちゃったの。怒らないでね。先にヴィーゼが怒っちゃったから、するならヴィーゼにして。受け止めるから、頑張るから、だから……っ」
ごめんなさいと、譫言に何度も繰り返した。支離滅裂な内容で、足りない言葉が多すぎてエミルは殆ど理解していない。力の籠らぬ手を宙に伸ばす。
仰向けにしかいられない己の顔に落ちてくるものはあまりに冷たかったから、止めるために触ろうとした。
それが通り抜けて、重力のままに倒れていくのを少女は慌てて実体化して掴み取る。だが、衰弱し肉付きが良くとも幼い精霊が重さに勝てるはずがなく、布団まで一緒に落っこちる。
「絶対帰ってくるって、言ってたのになあ」
ヨルダは楽園に向かう前に、弟のもとに訪れている。いつもより強張った表情で世話をして、最後にそう約束して去っていった。
何を考えてそう言ったのだろう。今となっては知ることは叶わないが、エミルは帰るつもりでいたのだと思う。なにせ兄は己がせがんだ約束を一度たりとも破ったことはなかった。どんなに無茶なことでも、時間はかかったが成し遂げてくれた。
「兄ちゃんの、かっこつけ」
独白はそれなりに大きく聞こえた。
「教えてくれてありがとう」
「なんでお礼なんかするの? 怒らないの?」
「よくあることだから」
「……死が?」
「うん。ここは、そういうところだから」
小女は部屋を見渡す。風が入り込める程に外との隙間があり、全体的に埃やクモの糸が張ってある。天井は一部穴が空いていて、雨漏りによりその真下は緑と変色している。
不衛生で、病人がいるには相応しくないところだ。貧民街に居を構えているので、そんな家屋しかないのである。
エミルは目蓋を閉じる。「ねえ」という声で、再びゆっくりと開けた。
「眠いの? それとも病気で苦しい?」
「どっちも。君は痛そう」
「こんなのへっちゃらだよ」
至る所を包帯でぐるぐる巻きにされている小女はむろん我慢している。気にしていなかったが、意識すればより痛み出す。
「もっとおしゃべりしたかったんだけどなあ」
少年は半分も目を開けられなくなる。
「また寝て起きたらしよう。それまでに薬をもらってくるから、次には楽になるよ」
「そうだね。そうだといいなあ」
「したくないの……?」
「ううん。僕、目を閉じて眠ったらきっと死んじゃってるから、できないよ」
「っそんなこと……」
「ハンナが死んで、兄ちゃんも死んだ。次は僕の番」
エミルは兄と妹がいた。
少年は目を閉じてしまう。今度はヴィーゼの声にも目覚めない。
「だめだよ。ねえ、なんで。またヴィーゼは助けられないの?」
ピクリとも動かなくなった少年を前に、己の無力さを思い知る。深い絶望感の捌け口として、無意識に魔法で風を用いていた。室内は何も変化はないが、外では家屋を中心として風が囂囂と渦を巻いている。
住人は悲鳴を上げて逃げる。運悪く巻き込まれてしまったら、どんなことになるか分かったものではない。
そういう判断に長けざるおえなかった者ばかり集まっているので、伝播して大きな騒ぎとなる。
貧民街から近隣の市民にまで危機を感じるほどだったので、その対応として騎士がやって来た。
「これはいったい……」
「どうやら精霊の仕業らしい」
精霊士という精霊と契約して且つ剣も扱える精霊騎士が丁度逸早く到着したこともあり、原因は直ぐに解明された。
アーベルの念願だった精霊と契約をしてのけた彼等二人は、契った精霊からその情報や力を借りて強引に風に割って入る。そのまま家屋を破壊した先に見たのは、暴走したままでいるヴィーゼである。
涙で目を腫らしていることは精霊の神秘さを助長させている。その他の通常の精霊とは異なる部分である、巻かれた包帯や見える傷が相まって、彼等は儚さから感じる美しさに目を奪われた。そしてごくりと喉を鳴らせて、アーベルと同じことを考えるのである。
「契約、挑戦してみようかな……」
「お、おい、ずるいぞ。俺もやりたいっ」
「早いもん勝ちだ。そこの精霊、ちょっといいかい!」
ヴィーゼは声に反応して見遣り、暴走して力を余らせているので精霊騎士の欲を知ることになる。今の状況でそれは、悪手でしかなかった。
「来ないで! ヴィーゼは契約なんかしない!」
彼等は吹き飛んでいった。
室内から姿を消した後、また延々と絶望に耽る。もう無垢な小女ではなくなっていた。
「ヴィーゼ」
暴走していた風が凪ぐ。女王を感じさせる巧みな魔法を使ったのはパウラだ。
「帰るぞ。もう用はすんだだろう」
「帰る場所なんかないよ……」
「私達のところにこい。大丈夫だ、女王様は受け入れてくださる」
いやいやと首を横に振る。そんな小女を強引にその場から連れ出したのは執行者である。
「なんでここに……っ」
「執行者として、女王の悩みを断ち切るためらしい。守護者であるパウラに任せておけばいいものを、言葉をひねくり回して無理やりついて来たんだ。だがまあ正解だったみたいだな」
抗えない力量差にそれでもどうにか覆そうとするが、名前のない精霊がヴィーゼを囲み口々に「かえろう」と言うので徐々に力を抜けていった。
小女は最後に少年の残る家屋を振り返る。遠ざかってちっぽけになって掴めそうにも拘わらず、その手は空を切った。
未来編「無碍なるヴィーゼに見習い騎士は乞う」あり。
後日譚といった感じになります。