第四話 平助、親友を騙す
結局僕達は、一時間程をあの喫茶店で過ごした。
「この件は、くれぐれも他言無用でお願いします」
帰り際に掛けられた念押しの声は、今も耳に残っている。厳しい表情で、彼女は前を向いていた。
「……はあ」
思考を回した後の、たっぷりとしたため息。
それは白く煙ってすぐ消える。
外は既に真っ暗だが、僕の心はもっと暗かった。
学校からゆっくり歩いて三十分。家賃は安いが、風呂もトイレも旧式。
それが僕の住む、築三十五年二階建てのボロアパートだ。
心身の疲れを引きずって、どうにかこうにかここまでたどり着いた。
外付けの鉄製階段は無視して、一階左隅にある五号室のドアを開ける。
普段から軋むドアが、今日に限って更にうるさく聞こえた。
靴を脱ぎ、制服の上着をハンガーに掛けて。そのまま畳に大の字になる。
「サキュバス、そして暴走。か」
朝と変わらぬ天井を見上げつつ、先程までの会話を振り返る。
僕は真実を得られた。しかし、飲み込むには時間がかかる代物だった。
「そもそもサキュバスが実在してたのが驚きだよ」
また独り言。
僕の知る限り、サキュバスはマンガやライトノベルとかで見る、露出が凄くて、エロい奴だった。
でも現実ってのは、そういうものじゃないはずだ。
ピリリリリ!
突然の着信音で、僕の思考は途切れた。
僕は素早くスマートフォンを手に取り、発信者を確認。
表示された文字に、思わず顔をしかめた。
「あちゃ、これはマズい。電源入れるんじゃなかった」
大体の学校に言えることだが、我が校もまた携帯電話に対してうるさい。
だから電源は落としていて、そのことを帰って来るまで忘れていた。
取り上げられても困りはしないが、色々と面倒だ。
そもそも入学記念に、母さんが買ってくれた物で。
それも、多くはない貯金をはたいてくれた。
色々あったとはいえ、取り上げられるのは割に合わない。
とはいえ。出なければ、それはそれで後を引く。
僕は仕方なく、画面上で指をスライドさせた。
「平助! お前なにかあったのか? ずっと電源落としてやがって」
聞こえるのは雅紀の声。
上ずっている辺り、心配してくれていたのだろう。
「ごめん。電源落としてたの忘れてた」
だから僕は、素直に謝罪した。
なにがあったのかは言えないけど。
「ったく。由美も心配してたし、クラスメイトも騒いでたぞ。事件でもあったのかと思うじゃないか」
「本当にごめん。後さ。彼女には大丈夫だった、と伝えておいて」
そりゃあ終業即でクラスから走り去ったら、一応皆も心配するよなあ。
まあ、実際事件には巻き込まれている。
他言無用で、言えないだけだ。
「まあ過ぎたことに怒っても仕方ない。ひとまず、事件とかに巻き込まれてはないんだな?」
「うん」
返事は素早く、そしてハッキリと。
しかし、嘘である。長年の友人に対し、申し訳ないとは思う。
でも、他言無用と言われた以上。自分から破る気にはなれなかった。
「分かった。俺はお前を信じる。ダチだからな。由美にもそう伝えておく」
「ありがとう。助かるよ」
友人の声が胸にしみる。
詮索してくれなかったことが、本当に嬉しい。
だからこそ、騙すことが心苦しいのだが。
「次なにかあったら。できる限り言ってくれよ?」
うん、と僕は答える。
騙されてくれて、ありがたい。
心苦しさの裏で、優越感も立ち上った。
「力になれるかは分からないけどさ、話を聞くぐらいはできるから。じゃ、切るぜ」
雅紀は明るい声で言う。
しかし、真実を話そうとは思えなかった。
優越感を知覚したなら、尚更だった。
「ああ。また明日。ありがとな」
「水くせえな。友人だろ?」
じゃ、また明日。そう言って、友人は電話を切った。
僕は再び、思考の渦へと飛び込んでいく。
佐久場さんの話は、ある意味物凄く単純だった。
単純であるが故に、それはどうなんだとも思ったが。
彼女はサキュバスの血を引く末裔で、先祖返りで。
濃い血を引いてしまったが為に、数日間隔で激しく『補給』を必要としている。
昨晩僕が美味しく頂かれてしまったのも、そういうことだった。
それとは別に新月でどうこうという話も聞いたが、一旦脇に置いておく。
「話は分かりました。でも、なんでその補給役に僕が? 自分で言うとアレですけど、不細工ですよ?」
これが、佐久場さんからあらましを聞いた僕の、第一声である。
自己肯定感が低いと言われればそれまでだが、不思議なんだから仕方がない。
生まれてから十七年。女子にモテたことなど一度もない。話が出来すぎておかしい。
ところがこの時、佐久場さんは顔を背けていた。
ずっとこちらを見据えていた、その綺麗な顔をである。
頬の辺りが赤く見えた気がしたのは、きっと気のせいだ。
「その件につきましては……。いずれ分かりますので」
無言が数十秒ほど続いた後。
今までとは異なる、聞こえるか聞こえないか程度の声が帰ってきて。
結局、それ以上のことは聞けなかった。
「信じるしかないよなあ」
天井を見ていると、当然だが眠くなってくる。
制服の後始末すら済ませていないというのに、僕はウトウトし始めた。
その時。通学カバンの、不自然な膨らみが目に入った。インゴットだ。
どうやら流れで、そのまま持って来てしまったらしい。
どうしようか。スマートフォンの存在を忘れていたから、連絡先は聞き損ねている。
「……朝と同じく、隠しておこう」
どうせ契約してしまった以上、もう後戻りはできない。
そう自分に言い聞かせ、インゴットもキッチンにしまい込む。
今日一日で、いかほどの金銭を得たのか。考えたら、戻れない気がした。
インゴットをしまいこんでホッとすると、今度は腹の虫が鳴き出した。
都合が良すぎると、苦笑する。
そういえば今日は、ほとんど物を食べていなかった。
仕方ないので、雑炊を作ることにした。
雑炊はかさ増しができるので、節約にはもってこいだった。
あり合わせの材料と、冷凍ご飯。そして雑炊の素。三十分も経たずに、完成した。
「いただきます」
一人の食卓を囲み、熱を逃しつつ食べていく。
途中、今日一日の出来事を思い出した。
今日は一日振り回されたけど、自分なりに決断できていた。そのつもりだった。
しかしこの時。僕は大事なことを見落としていた。
しっかり考えたら分かっていたのに。
とんでもない見落としだった。
雑炊を貪った僕は、流れるように眠りについた。