第三話 平助、金に負ける
注文を受けたマスターが、カウンターへ戻って行く。
そのタイミングでようやく、僕は会話を切り出した。
このままでは、圧倒されて、お茶をしただけで終わってしまう。
「あの。お話とは、一体……」
「まあまあ。焦っても楽しくないでしょう。まずはコーヒーを待ちませんか?」
しかし、佐久場さんはにっこりとかわす。
確かに。せっかく話すのなら、楽しい時間にしたい。
待ち時間はどうするのか、とは思うけど。
「ああ、大丈夫ですよ。すぐに来ますので」
佐久場さんは、僕の疑念を見透かしていた。
そして、彼女の言う通りだった。
「お待たせしました。今日のおすすめです」
発言から一分も経たない内に、マスターがお盆を手に現れたのだ。
慣れた手付きで、コーヒーをテーブルに置いていく。
佐久場さんの顔も、余裕たっぷりだった。
「あ、ありがと、ございます」
一方僕はと言えば。
情けないことに、言葉がどもってしまった。
これでは面目丸つぶれだ。
「ごゆっくりどうぞ」
しかしマスターは、全くと言っていいほどブレなかった。
先程と変わらない一礼をして、そのまま定位置へと戻っていく。
これでようやく、話に取り掛かれる。
ところが、佐久場さんは口を開かない。
ブラックのままで、艷やかな唇をカップの縁へと運んでいた。
僕は、恐る恐る聞いてみるけど。
「あの。はな、しは?」
「松本さんも、先にコーヒーを飲んで下さい。温かく出された物を冷ましては失礼です」
取り付く島なし。しかも道理にかなっている。
これでは僕も言いようがなく、コーヒーに取り掛かることにした。
ミルクと砂糖を入れ、口をつける。恥ずかしながら、ブラックは無理なのだ。
「……美味しい。砂糖とミルクを入れてるのに、コーヒーが負けてない」
「ええ。このお店はマスターが豆を厳選して、ご自分で挽いています」
佐久場さんの口調が、にわかに熱を帯びた。
余程、ここのコーヒーが好きなのか。
「特に今日のおすすめ。絶対にハズレません。そこらのお店に、負けるはずがないのです」
ここまで熱弁されると、正直びっくりする。
だが、思いは伝わってくる。
ならば。僕もしばらく、コーヒーの味に身を委ねることにした。
そうして、十分ほど無言の時が続いた。
最初は並々とあったコーヒーの量も、飲めば減って行く。
熱いものが平気な僕は、早々に飲み干してしまっていた。
手持ち無沙汰に周囲を見回す。だが一通りも見渡せば、飽きてしまう。
その頃になって、佐久場さんがようやくカップを置いた。
音もなく、静かに。仕草の一つ一つが、細やかだった。
「ああ。失礼しました。私、コーヒーとなるとつい」
佐久場さんが、顔を赤くして謝罪する。
恐らく、先程のやり取りのことも含まれているのだろう。
熱がこもりすぎたと、反省するのはよく分かる。
「いえ。僕もゆったりと出来ましたので」
「それなら、良かった」
そういう訳で、謝罪を受け入れない理由はなくて。
むしろ、急かした僕が謝るべきだったとさえ思う。
それぐらい、いい時間を過ごせた。
「では」
謝罪を受け入れられて、微笑んでいた佐久場さん。
しかしその顔が、一瞬で引き締まった。
姿勢も眼差しも、コーヒーの時より張り詰めている。
「お話を始めましょうか」
自然と姿勢が正される。
一言一句たりとも、聞き逃してやるものか。
そう思うと、心なしか耳が大きくなった気がした。
「貴方をここへ呼び出した理由はですね」
佐久場さんが、一呼吸置く。
鬼が出るか蛇が出るか。
僕の手は、汗ばんでいた。
「貴方に私の、性的処理をしてもらいたいから。です」
「…………へ?」
出て来たものは、斜め上を通り越してすっぽ抜けの大暴投だった。
あんまり予想外過ぎて、変な声まで出てしまった。
慌てて一気に水を飲み、呼吸を整える。そうしないと、会話もできない。
「ええと、その。聞き間違えではないですよね?」
水を飲み干したところで、僅かな望みを賭けた。
聞き違えなら幸いだったけど。
「いいえ。言い間違えも、聞き間違えもございません。私は貴方に、性的処理をお願いしたいのです」
そんなことは、一切なかった。僕の耳は、正常だった。
ひとまず最低限の話は聞かないと、判断のつけようがない。
「あ、あの。性的処理ってのはアレ」
「その通り。アレです」
アレで通じてしまうのもどうかと思うけど、やはり直接言うのははばかられる。
そして、いくら堂々と言われても。その突拍子のなさには変わりはない。
「……本気、ですか?」
「本気ですよ。正気でもあります。私は貴方に、決して損はさせません。その証拠に」
佐久場さんが、そばに置いていた通学カバンを持ち上げる。
教科書がない割には、重量感があった。
チャックを開けて、新聞紙に包まれた物体を机上に置く。
わずかに漏れる、黄金の輝き。
その瞬間。僕は重量感の正体にたどり着いた。
「これは、まさか」
「貴方が首を縦に振って下されば。この場でこちらを差し上げる所存です」
とはいえ、目を疑ってしまう。
本来なら、生涯お目にかかれない代物なのだ。
「もしも貴方がお望みならば、換金してからのお渡しでも結構です」
そういう話ではない。そもそも話がウマすぎる。どういうことなんだ。
しかしインゴットはヤバい。本気感が伝わってヤバい。
「……その。もう少し詳しい話を」
「ダメです。私とて余計なことを話す訳には参りません。先に、報酬を飲んで下さい」
ダメ元のお願いは、にべもなく拒否された。
イエスかノーか。それだけを問われる。
僕はどこかの将軍ではない。ただの人間なのに。
「無論、今日一時だけの話ではございません。契約さえ飲んで頂ければ、常時報酬を支払わせて頂きます。今朝もありましたよね? 金一封の、分厚い封筒」
なのにこの女性は、自分のペースで。
仕留めていく。薙ぎ払っていく。
撃ち抜かれた自分の、信じるものが揺れていく。
言い訳する材料は揃っていて。
だけど張るべき意地は多くて。
さりとて、背に腹は代えられない。
「お受け、します」
首を、縦に動かす。
欲望に、負けた。性ではなく、金に負けた。
「ありがとうございます」
佐久場さんの表情が、ようやく柔らかくなった。
彼女は水で口を潤し、再び言葉を紡ぐ。
「それでは、性的処理の理由をお話しましょう……」