第二話 平助、降参する
昼のチャイムが鳴ると同時に、僕は机にうつ伏せた。
いろいろな意味で、限界はとうに超えていた。
朝からなにも食べていないのに、腹も空かない程だった。
「平助さーん。飯にしようぜ、飯ー」
雅紀の呼び声。
顔を上げれば、佐久場さんの姿は既にない。
女子グループにでも、誘われたのだろうか。
「平助ー?」
再び声。
顔を上げてしまったので悩むけど。
後、無理にでもモノを入れとかないとマズい。
「……悪い。金は出すから、惣菜パンを一つ」
「金欠か?」
「ガス欠」
言いたいことは、いくらでもある。
でも、それを告げる勇気はなくて。
当座の要求だけして、お茶を濁す。
正直、いい加減にしないととは思う。
だけど、雅紀は悪い奴じゃない。
だからこそ。内心の思いに、胸が痛む。
「しゃあねえ。行って来るわ」
雅紀は素直に購買へ向かい、僕は再び突っ伏した。
そのままウトウトし始めると、昨日のことを思い出しそうになって。
「っ!」
顔を、思いっ切り上げてしまった。
声も出してしまったようで、何人かがこちらを向いていた。
そして、隣。
「だ、大丈夫、ですか?」
雅紀を走らせてから、何分経ったのだろう。
いつの間にか戻ってきていた佐久場さんが、びっくりした顔を見せていた。
頬が少し、紅く見えた気がする。
「はい。失礼、しました」
慣れない展開。僕はたどたどしく、言葉を綴る。
でも、それきり会話は生まれず。
机に置かれていたカレーパンを、僕はちまちまと腹に入れた。
添えてあったメモには、「おごりだ」と書かれていた。
***
そんなこんなで、午後二時間の授業が終わると。
ホームルームの終了と同時に、僕は一目散に駆け出した。
クラスメイト。
雅紀。
佐久場さん。
全部置いてけぼりにして、ひたすら走った。
精神はとっくに限界だった。
逃げに逃げて、校外を目指す。
一体どうしてこうなった。
僕はただの、善良な高校生だったはずなのに。
いろいろな思考が、走りの中で頭に浮かぶ。
佐久場さんへの疑念。雅紀への怒り。
でもそんなのはどうでも良かった。とにかく家に帰って、落ち着きたかった。
「松本……さん」
遠くからかすかに、声。
佐久場さんの声に、似ている気がした。
だが足を止める気はない。
「松本さん」
再び声。今度ははっきりと。
なぜ的確に追ってくる。
人の少ない道を、選んだはずなのに。
「待って下さい、松本さん!」
甲高い声が、僕を襲った。
思わず、耳を塞ぐ。立ち止まってしまった。
これではもう、逃げられない。
ゆっくりと振り向く。やはり佐久場さんだった。
運動に慣れていないのか、膝に手を置き、荒い息を吐いていた。
重力と腕と呼吸。そして豊かな胸部。
三つ……いや、四つの力が一つになって、股間に危ない姿を繰り出している。
でも反応する余裕は、どこにもなかった。
「なぜ、逃げるんです?」
問い詰める声。
君のせいだと、言ってやりたかった。
だけど、怖くて。言えなかった。言えるわけがない。
「私が。貴方の童貞を、奪った本人だから。ですか?」
しかし恐怖は、当人によって一蹴された。
僕を惑わすように、耳元で囁いたのだ。
「えっ」
動揺。なぜ本人から。
もやもやは晴れても、解決にはならない。
だけど相手は、止まらない。
「立ち話もなんですし、一度外に出ましょうか。さあ、私と共に」
流れるように、右手を掴まれていた。
見られる恐怖が、僕をすくませる。
「外に出たら手を離します。堂々として下さい。余計に変な目で見られます」
佐久場さんは、堂々と。僕を引っ張って校門に向かう。
一体なんなんだ。僕をどうしたいんだ。
指の細さ、滑らかさ。しかし気を配るほどの余裕はない。
ポニーテールをなびかせて、彼女は昇降口を突破する。
前を向いたままの姿からは、表情を探ることすらままならなかった。
結局、僕は逃げられなかった。いや、逃げなかった。
校門を出て、手を離されて。
その後も無言のままに、佐久場さんは突き進んだ。
僕は付かず離れずを保ち続けて。
右へ、左へ。
何回も曲がって。
雑居ビルの並ぶ、やや細い路地。そこまで来てようやく、佐久場さんの足が止まった。
そして、僕の方を向く。
「ここまで付いてきて下さり、ありがとうございました」
深いお辞儀。ポニーテールも垂れる。
感謝の意志をあらわにする佐久場さんを見て、ようやく僕は理解した。
結局僕は、自分から彼女に付いていったのだ。
「せっかくですので、もう少しだけ。付いて来てください」
通りに面した、下りの階段を指差して。佐久場さんは言った。
人一人が通れるぐらいの、細く、急な階段だった。
「参りましょう」
それだけ言うと、彼女はスタスタと階段を降りていく。
手慣れた動きだと、僕は思った。
遅れを取らないように、彼女の背中を追いかけていく。
思ったよりも長い階段を、濡羽色の髪を目印にして。
三十段ほど下ったところで、ようやく行き止まりが見えた。
薄暗い場の中で、嫌にハッキリと見えるドア。
掛けられたボードには、「喫茶店S・C」と書かれていた。
ドアの前に立つ佐久場さん。その二段上で、僕は立ち止まった。
佐久場さんが、ゆっくりとドアを引くと、ドアベルの音が響く。
僕の脈打つ心臓に対して、ひどくのどかな音だった。
「どうぞ」
ドアを開けたままの佐久場さんが、僕を促す。
店の前で譲り合うのも嫌なので、従うことにした。
「失礼します……」
おずおずとドアをくぐると、そこは異世界だった。
一応僕だって、チェーンの喫茶店に入ったことぐらいはある。
しかしこの店は、また違う空気だった。
豆から挽いていると思われるコーヒーの匂いが、店内を満たしていた。
上品なインテリアに、バックで流れるクラシック音楽。
そしてなにより。
「いらっしゃいませ」
白のカフェコートに身を包んだ髭面のマスター。
その丁寧な一礼が、僕を驚かせた。
髭面なのに、不潔さは一切感じさせない。物腰の、賜物だろうか。
「マスター、ご無沙汰してました」
僕の後ろからかかる声。
しまった。佐久場さんが後ろにいるのに、固まっていた。
直ちに左へと身をずらし、佐久場さんに道をあける。
「やあ。……久しぶり」
佐久場さんを見たマスターの声には、一瞬の間があった気がした。
しかし表情に変化はない。
髭の中に、感情を隠しているのか。そんな好奇心が、ふと湧いた。
「奥の席、空いてますか?」
それでも会話は、途切れない。
佐久場さんの問いかけに、マスターは即座に応じた。接客に、淀みがない。
彼に導かれる形で、僕達は奥へと進んでいった。
「こちらへどうぞ」
出入り口から一番遠い対面席で、マスターは立ち止まった。
店内はさほど広くない。ウチの居間四つ分ぐらいだろうか。
カウンターはバックヤードではなく、客と対面する形で設置されていた。
「お飲み物は、どうされますか?」
「ひゃ、ひゃいっ!」
店内を見回していた僕を、現実に引き戻す佐久場さんの声。
思わず、声が上ずってしまった。びっくりしただけで、他意はない。
そう言い聞かせて、メニューを読む。しかし。
「すみません。コーヒーの種類がよく分かりません」
全くと言っていいほど、歯が立たなかった。
カッコいいところを見せる。そういう思考すらできなかった。
コーヒーとかカフェオレとかならともかく、キリマンジャロとか書かれてもサッパリだった。
「あら。正直なんですね」
くすくすと、小さく笑う佐久場さん。
でも、バカにした風ではなかった。
彼女は小さく手を上げ、マスターを呼ぶ。
「今日のおすすめを二つ。よろしくお願いします」
手際の良い注文に、僕は舌を巻いた。そうか。その手があったか。